第33話 「竜之介、初めての失敗」
五月に入って、竜之介が初めて大きな失敗をした。
仕事の失敗だ。戦ではない。
広瀬の指示で、竜之介に村の帳面の確認を単独でさせていた。簡単な仕事だ。村人に今年の作柄を聞き、昨年の帳面と照らし合わせて差異を記録するだけ。俺が同じことをやれば半日で終わる。
竜之介は夕方に戻ってきた。帳面を差し出したとき、顔が引きつっていた。
「どうした」
「間違えました」
「何を」
「村の名前を一つ間違えました。隣の村の数字を書き込んでしまいました」
俺は帳面を見た。確かに二村の数字が入れ替わっていた。単純な書き間違いだ。しかし単純な間違いほど、実際に指摘されると痛い。自分の不注意が形になって残っている。
「広瀬様には報告したか」
「まだです」
「今すぐ行って来い」
竜之介の顔が固まった。帳面を抱え直して、廊下へ出た。「怒られますね」と一言だけ言った。
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しばらくして竜之介が戻ってきた。顔が少し赤い。
「怒鳴られました」
「怒鳴られる程度で済んだなら、まだいい」
竜之介は壁に背を預けた。腕を組んで、少し天井を見た。
「修正はできたか」
「広瀬様の前でやり直しました。合っているか確認してもらって、これで大丈夫だと言われました」
「それでいい」
「よくない気がしますが」
「今後、同じ間違いをしなければいい。書き終わったら、一度声に出して読み直せ。自分で書いた字は目が滑って見落とす。声に出すと引っかかる」
竜之介は黙って頷いた。それだけで、今のことが体に入ったと分かった。
俺は何も付け加えなかった。
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翌日、広瀬が俺を呼んだ。
「竜之介の件だが」
「ご迷惑をおかけしました」
頭を下げると、広瀬が片手を軽く上げた。叱責ではなく、確認がしたいという仕草だ。
「昨日、わざと一人でやらせたか」
俺は少し止まった。見抜いていた。
「はい」
「なぜ俺に話さなかった」
「事前に伝えると、広瀬様も身構えます。失敗が自然な形で起きなければ、学びが薄れると思いました」
「……つまり、俺を使ったわけか」
「結果として、そうなりました。申し訳ありません」
広瀬は少し黙った。俺も何も言わなかった。室内に筆の音もない。
「竜之介の報告の仕方は悪くなかった。言い訳をせず、間違いを認め、すぐに直した」
「素直な男です」
「素直なだけでは足りない。だが土台にはなる」
広瀬は文書に目を戻しながら言った。
「次からは事前に言え」
「承知しました」
廊下に出た。怒られると思っていたが、広瀬は叱ることより確認を先にした。
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夜、竜之介に話した。
「昨日の帳面の件。意図的に一人でやらせた」
竜之介が俺を見た。
「……どういうことですか」
「お前が一人で動いて、失敗して、自分で報告する。その経験が必要だと思った」
「じゃあ俺が間違えるのを、見越していたのですか」
「間違えると決めていたわけじゃない。ただ、何かあったときに俺に頼れない状況を作りたかった」
竜之介はしばらく黙った。
「それは、腹が立ちますね」
声は平らだったが、目が少し違う。本気で腹を立てている。腹を立てる理由があることを、本人も分かっているから大きな声は出さない。
「腹が立つのは正当だ」
「正当かどうかの話をしていません」
竜之介は横になった。天井を見たまま、少しして言った。
「……まあ、確かに広瀬様に報告に行かなきゃいけない状況を一人で経験したのは、よかったと思います。思いますが」
「思いますが、なんだ」
「腹は立ちます」
俺はそれ以上言わなかった。
竜之介の背中を見ていた。一年前の竜之介は、感情が先に来て後から理由が来ていた。今は理由を整理してから、感情を口に出した。横になりながら、天井を見ながら、怒りを飲み込んでから話した。
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六月に入ると、梅雨の季節になった。
雨が続くと稽古が制限される。城倉の家まで通う道が泥濘になる。それでも俺は週三回、雨の中を歩いた。傘を差しながら歩く四半刻が、頭を整理する時間になっていた。
城倉の稽古は、この頃から変わってきた。
技術的なことより、問いが多くなった。
「今日の仕事で、一番難しかった判断は何だ」
稽古の始まりに、毎回こう聞く。俺は答える。城倉がそれを聞いて、問いを返す。
「広瀬様の管轄で、村の過少申告の帳面を作り直す仕事がありました。正確に記録するのが正しいのか、あるいは村人の事情を考えて少し目をつぶるのが正しいのか、迷いました」
「どちらを選んだ」
「正確に記録しました」
「なぜ」
「目をつぶった帳面は、次に別の誰かが読みます。その人が正しい判断をするための材料が、最初から歪んでいる。それは俺の判断ではなく、俺の後の誰かを困らせることになる」
「村人の事情は」
「広瀬様に伝えました。帳面には数字を正確に書き、別の紙に事情を添えました。判断は広瀬様に任せました」
城倉は黙って聞いていた。窓の外で雨が屋根を叩く音だけが続く。
「それは正しかった。ただし、もし広瀬殿がその事情を無視して厳しく取り立てたとき、お前はどうする」
俺は少し考えた。
「……今の俺には、それを止める立場がありません。ただ桑田様の耳に届けられるかどうかを考えます」
「直接桑田様に言うか」
「状況によります。広瀬様を通してまず動く。それでも変わらなければ、石渡様に話す。それでも変わらなければ、最後の手段として桑田様に直接です」
「それが序列だ」
城倉は短く言って、立ち上がった。雨がまた強くなってきた。城倉の家の屋根に当たる音が大きくなる。
「侍になって、お前は少し変わった」
「どう変わりましたか」
「以前は自分が生き残ることを先に考えていた。今は他の者のことを先に考えてから、自分のことを考えている」
言われてみれば、そうかもしれない。城倉の言葉が体に落ちるのを、黙って受け取った。
「それは成長か、それとも失うものが増えたということか」
「両方だ」
城倉は傘を手に取った。
「今日の稽古はここまで。雨が強くなる前に戻れ」
「はい」
「橘」
俺は振り返った。
「お前が侍になって、俺は少し安心した」
城倉がそういう言葉を口にするのは珍しかった。この老人は余分なことを言わない人間だ。だから、言ったときの重みが違う。
「以前のお前は、力を求めていた。理由は曖昧なままで。今のお前は、力の使い方を考えながら求めている。その違いは大きい」
城倉は傘を差して、外へ出た。
雨が強くなってきた。
俺は傘を広げながら、今の言葉を頭の中に置いた。反芻するというより、沈めておく感じだ。すぐに答えを出さなくていい言葉がある。
「生き残れ」
城倉はいつもその言葉で締める。今夜もそう言った。しかし背中を見ながら聞いていると、以前とは少し響きが違った。
命を大切にしろ、という意味だけではなくなっていた。
俺は夜道を歩き始めた。




