第32話 「内なる乱れ」
春が深まる頃、城内で不穏な動きが起きた。
きっかけは小さなことだった。
広瀬の指示で作成していた帳面の写しが、一部消えた。俺が仕事部屋の文箱に入れておいた紙が、翌朝見当たらなかった。全部ではない。四枚のうち一枚だ。
最初は自分が場所を間違えたかと思い、部屋の中を探した。見つからなかった。
広瀬に報告すると、広瀬の目が険しくなった。
「内容は何だった」
「北の一村の田の面積と、旧帳面との差を書き出したものです」
「それだけか」
「はい。まだ全体をまとめる前の下書きですが、数字は入っていました」
広瀬は少し考えた。
「その村の長の名前を知っている者が取ったとしたら、何のためか分かるか」
「証拠隠滅か、あるいは俺たちが動いていると当人に知らせるためか、どちらかだと思います」
「そうだ」
広瀬は文箱を自分の手元に引き取った。
「次から仕事の途中の紙は、この部屋に置いておくな。全て俺の部屋で管理する」
「分かりました。犯人の見当はありますか」
「お前はどう思う」
俺は少し考えた。
仕事部屋に出入りできる者は限られている。俺と竜之介と、広瀬の文書係が二名。それと廊下を使う者が誰でも通れる。鍵はかかっていない。
「外部の者が入ったとしたら、見張りに気づかれるはずです。内部の者の方が可能性が高いです」
「その通りだ。ただし今は動くな。相手が次に何をするかを見てから動く」
広瀬の判断は冷静だった。焦って動くより、次の手を待つ方が証拠が揃う。広瀬はそういう男だ。
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数日後、竜之介が耳打ちしてきた。
「広瀬様の文書係の一人、深夜に城の外に出たのを見ました」
「どこへ」
「城下の方へです。一刻ほどで戻ってきました」
城下に行ったということは、誰かと会ったか、何かを渡しに行ったか。
「顔は見えたか」
「はい。左目の下に痣がある男です」
俺は心当たりがあった。広瀬の文書係の一人、仁平という三十代の男だ。おとなしく目立たない。これまで特に気にしていなかったが、目立たない者が動いていたとすれば、むしろその目立たなさが理由かもしれない。
広瀬に話した。
広瀬は仁平の名前を聞いて、一瞬だけ目を細めた。
「仁平か」
「ご存知でしたか」
「以前から少し気になっていた男だ。ただ確証がなかった」
「どうしますか」
「俺が動く。お前は何もするな」
広瀬の言葉は短く、有無を言わせない強さがあった。
俺は従った。自分で動きたい気持ちは少しあった。しかしこれは広瀬の管轄だ。仕事には役割がある。
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翌日の昼過ぎ、仁平が広瀬に呼ばれた。
俺は部屋の外で待っていた。聞こえてくるものはない。四半刻ほどして仁平が出てきたとき、顔色が変わっていた。青白い。血が引いている。これは認めた顔だ。
仁平は俺を一瞥して、何も言わずに去った。
広瀬が俺を呼んだ。
「仁平が認めた。北の村の長から銭を受け取って、俺たちの動きを知らせていた」
「どう処分しますか」
「桑田様に話す。それは俺の仕事だ。お前は関係ない」
「竜之介が仁平の動きを見つけました。その件で竜之介が不利になることは」
「ない。むしろ正しい動きをした。それは伝える」
広瀬は文書を手に取った。
「お前に言っておく」
「はい」
「今回の件、お前は竜之介の話を聞いてすぐに俺に持ってきた。自分で動こうとしなかった。それは正しい判断だ」
俺は返す言葉を探した。
「情報は正しい場所に流すだけで、仕事の半分が終わる。動くのは役割のある者がやればいい。お前はそれを分かっている」
「自分で動いた方が早い場面もあります」
「ある。しかし今回は俺の管轄の問題だった。俺の仕事を俺に渡した。それでいい」
広瀬は珍しく、少し柔らかい声だった。感情の少ない男がそういう声を出すと、言葉の重さが変わる。
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仁平の件は三日後に決着した。
北の村の長は、過少申告の件を認めた。罰として今年の年貢を増額することで決着した。仁平は桑田から叱責を受け、城外の別の仕事に移された。
地味な結末だったが、城内の膿を一つ取り除いた。
広瀬が俺に言った。
「竜之介の給金を、さらに上げることを桑田様に進言した」
「ありがとうございます」
「礼はいらない。使える者には相応の扱いをする。それが城の中をうまく動かす方法だ」
広瀬の動機は常に実利だ。しかしその実利が竜之介を守る方向に動くなら、ありがたい。感謝の向け先が広瀬ではなく城の仕組みであっても、結果は同じだ。
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その夜、源三郎が俺を訪ねてきた。
「浅野の内通者の件、動いた」
「どう動きましたか」
「浅野の中にいる俺の繋ぎに、証拠の写しを渡した。あちらが動くかどうかは分からない。しかし動ける環境は整えた」
「桑田様には話しましたか」
「まだだ。動きが出てからにする」
源三郎は少し間を置いた。
「確認しておきたい。俺が浅野の内部を揺さぶることで、桑田が得をするか、損をするかを考えてくれ」
俺は考えた。
浅野の内部が混乱すれば、当面の侵攻は止まる。桑田に攻める余裕がなくなる。それは桑田にとって時間を買うことになる。
しかし浅野が完全に崩れれば、北の空白地帯が生まれる。そこに別の大きな勢力が入ってくれば、桑田にとって新たな脅威になる。浅野が弱体化することと、浅野が消えることは、桑田にとって全く別の話だ。
「短期的には得、長期的には読めない、というところですか」
「そうだ。だから桑田様に話す時期が難しい」
「俺にはまだ、そこまでの判断はできません」
「分かっている。ただ、お前が今後上に行くにつれて、こういう問いが増える。慣れておいた方がいい」
城倉も同じ言い方をする。今だけでなく先を見て話す。そういう人間が周りにいる。
「源三郎さんは、何者だったんですか。浅野の侍組の一人にしては、見方が広すぎます」
源三郎は少し黙った。
「もう少しの間、聞かないでいてくれるか」
「分かりました」
源三郎は去った。
俺は城の廊下を歩いた。
夜の城は静かだった。遠くで当番の足音がする。それだけだった。




