第31話 「侍の重さ」
侍になって最初に変わったのは、見られ方だった。
翌朝の稽古に出ると、足軽たちの目が違った。昨日まで同じ長屋で寝ていた仲間が、一歩分の距離を置いて接してくる。悪意ではない。この時代の作法だ。侍と足軽の間には、本来越えられない壁がある。それを意識した距離だ。
竜之介だけは変わらなかった。
「橘殿、おはようございます」
いつも通りだった。
「おはよう」
「昨日と全然変わりませんね」
「変わらなくていい」
「そうですか。じゃあ俺も変えません」
竜之介は素振りを始めた。言い切って、あとは体を動かす。余計なことを考えない。
権蔵も普段通りだった。ただ朝の挨拶のとき、一瞬だけ目礼をした。以前はしなかった動作だ。それが権蔵なりの区別のつけ方だと分かった。礼儀として、しかし感情は変えずに。七年の経験がある男の、静かな誠実さだ。
桝田は正直な男で、顔を見るなり「橘殿」と呼んだ。
「今まで通りで構いませんよ」
「そうはいかん。しかしまあ、仕事ではこれまで通り動くから気にするな」
桝田の言い方は実直だった。形を変えながら中身を変えない。それができる人間は、この城の中でそれほど多くない。
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広瀬に挨拶に行ったのは、昇格した翌日だった。
部屋に入ると、広瀬は文書の山の前に座っていた。俺を見て、少し目を細めた。
「来たか」
「これからよろしくお願いします」
「礼儀は知っているな」
「多少は」
「多少で十分だ。仕事を知っている者の方がいい」
広瀬は俺の前に文書を置いた。
「覚えておけ。俺の下で動く限り、仕事の成果は俺を通す。お前の名前を出すなとは言わない。ただ序列は守れ。それが城の中の動き方だ」
「以前の件で、一度お断りしました」
「知っている。だから今のことを言っている。今後はそういう形で動けということだ。過去は問わない」
広瀬は過去を引きずらない。実利的で割り切っている。感情で動かない分、予測がつく。裏切られることが少ない。
「承知しました。ただ一点だけ」
「何だ」
「俺が間違っていると思ったときは、直接申し上げます。従わないということではありません。ただ黙って動くのは俺には難しい」
広瀬はしばらく俺を見た。何かを計算している目だ。
「それは認めよう。ただし外では言うな。俺との間だけにしておけ」
「承知しました」
それで終わりだった。広瀬は文書に目を戻し、俺は部屋を出た。
廊下に出て、少し息を吐いた。条件が整った。これで広瀬の管轄の中で、俺の名前が残る仕事ができる。
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侍としての最初の仕事は、村回りだった。
広瀬の指示で、桑田領内の北の三村を回って帳面の内容を確認する。年貢の帳面と実際の田畑の状態が合っているかを目で確かめる。
馬が使えた。
侍は馬に乗れる。足軽は基本的に徒歩だ。今日初めて馬に乗った。
これが大変だった。
乗り方は見よう見まねで知っているが、実際に乗ると全く違う。馬の背骨の動きが骨盤に直接伝わってくる。歩くだけでも体幹を使い続けなければならない。走ると上下の揺れが激しくなり、鞍にしがみつくので精一杯だ。正直、槍を持ちながら走るなど、今の俺にはとても無理だ。
竜之介は俺の隣を徒歩でついてきた。俺が馬上で四苦八苦しているのを見て、笑いをこらえているのが分かった。
「笑うな」
「笑っていません」
「笑っている」
「笑っていません」
顔が完全に笑っていた。
「これから毎日練習する」
「俺も乗れますか」
「侍の身分になれば乗れる」
「じゃあ俺も侍になります」
「なれ」
竜之介は少し真剣な顔になった。
「本当になれますか」
「実力次第だ。やれることを全部やっていれば、いずれ道が開く」
「橘殿みたいに一年半はかからないと思いますが」
「俺が早すぎただけだ。普通はもっとかかる」
「じゃあ頑張れば二年か三年ですか」
「それも早い方だ」
竜之介はため息をついたが、足取りは軽かった。
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北の三村を回って、俺は気になることを見つけた。
三村のうち一村、帳面の面積と実際の田の広さが合わない。帳面より田が広い。意図的に狭く記録している可能性がある。年貢を少なく収めている疑いがある。
村の長に確認すると、のらりくらりとした答えが返ってきた。昔から大体この広さで、帳面の数字は先代から引き継いだもので、と言う。目が泳いでいた。
追及しなかった。
今日の目的は状況の確認だ。決定的な証拠もなく村人を問い詰めても逆効果になる。帳面に「要確認」と書き添えて、広瀬に判断を仰ぐのが正しい手順だ。
広瀬に報告すると、広瀬は「それは分かっていた」と言った。
「分かっていたんですか」
「三年前から把握している。ただ証明が難しかった。お前が現地で見てきたことを記録として残してくれれば、来年の取り立ての根拠になる」
「なぜ三年間放置していたんですか」
俺が聞くと、広瀬は少し間を置いた。
「その村の長は、桑田様の遠い縁にあたる。表立って動けなかった。しかし今は浅野も退き、三田との国境も落ち着いている。外が落ち着いた今、内を整える時期だ」
広瀬は内政の人間だ。外の戦が終わるのを待って、内部の整理に入ろうとしている。今回の村回りは、その準備の一環だった。
「俺は何をすればいいですか」
「帳面を作り直せ。現地で見た数字を全部書き起こして、旧帳面と比較できる形にしろ。証拠になる形で」
「承知しました」
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夜、城倉の稽古の帰り道に、城倉が言った。
「侍になったか」
「はい」
「そうか」
城倉の反応は、それきりだった。褒めも驚きもしない。
「城倉先生は嬉しくないですか」
「嬉しいかどうか、という感情とは違う。ただ、お前が一段上に行ったという事実がある。それを確認した」
「一段上に行くと、何が変わりますか」
「責任が増える。間違いの影響が大きくなる。以前は自分が死ぬだけだった。上に行けば、お前の間違いで別の者が死ぬ」
俺は返す言葉を探した。
「どうすればいいですか」
「判断の根拠を常に持て。なんとなくではなく、なぜそうするかを言えるようにしておけ。言えない判断はするな」
俺は頷いた。
「もう一つ。偉くなるほど、孤独になる。それを知っておけ」
「孤独になる理由は」
「正しいことを言っても、聞こえにくくなる。自分より立場の弱い者の声が届きにくくなる。逆に、立場の強い者の声だけが大きく聞こえる。それに流されると、判断が歪む」
城倉の目が遠くを見ていた。
「俺が若い頃に経験したことだ。何度も流されて、取り返しのつかないことをした。後から後悔しても遅い。お前は早めに知っておけ」
老人の声には、長い後悔が染み込んでいた。その後悔が長い年月の中で静まって、今は言葉になっている。そういう声だ。
俺は黙って聞いた。
夜道を歩きながら、俺は城倉の言葉を懐に入れた。
(続く)




