第3話 「初めての血」
小競り合いが起きたのは、足軽になって五週間目のことだった。
朝の素振りを終えて飯を食っていると、鎌田が陣屋に飛び込んできた。
「境の村で揉め事だ。騒ぎになっている。全員武装して集まれ」
静かな朝が、一瞬で別のものに変わった。
足軽たちが動き始めた。槍を手に取り、着込みを羽織る。みんなの顔が固い。竜之介の顔を見ると、唇を結んで黙って装備を整えていた。
俺も槍を手に取った。
手が微かに震えていた。腕が疲れているからではない。怖いのだ。鳥肌が立っていた。
集合した足軽は十名。鎌田の指揮の下、隣の村に向けて早足で移動した。俺は鎌田の横に付いた。指示通り、使い走りの役割だ。
道の左右の地形が頭に流れ込む。左手は田んぼで足場が悪い。道幅は三間ほど、馬は使いにくい。正面の村までの距離はおよそ四半刻。
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境の村は、小川を挟んで二つの集落が向かい合う地形だった。
俺たちが着いたとき、すでに対岸に相手側の武装した男たちが集まっていた。数は俺たちとほぼ同じ、十名前後。みんな槍や農具を持っている。本職の侍が二名混じっているのが見えた。
鎌田が前に出た。対岸の侍も前に出る。
言い合いが始まった。水利の話だ。小川の上流で相手側が水を引いたせいで、こちら側の田んぼに水が来なくなったという。両者は互いに正しいと主張し、声が大きくなっていく。
俺は後方から観察した。
対岸の男たちの中に、動きの怪しいのが一人いた。槍を持ちながら横に少しずつ移動している。橋に近づこうとしているのだ。橋を渡って後ろに回り込む腹か。戦略眼がすでに橋を中心とした地形を捉えていた。橋を押さえれば向こう岸に渡れない。橋を失えば相手の迂回路は、下流の浅瀬まで半刻はかかる。
俺は鎌田の袖を引いた。
「左の橋に一人動いています」
鎌田が目を動かした。すぐに確認したのだろう、背後に向かって手を一つ振った。足軽の二人が橋の方に回った。
橋に向かっていた男が止まった。
どちらも動かない。そのまま数分が経った。
対岸の侍が何か言い、相手側の男たちが引き始めた。小競り合いは、結局刃を交えることなく終わった。
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帰り道は静かだった。
足軽たちは無言で歩き、陣屋に戻ってから初めて声が出始めた。笑い声ではない。力の抜けたような、安堵の声だった。竜之介は肩で息をしていた。戦っていないのに、それだけ緊張していたということだ。
俺も同じだった。
全身から汗が出ていた。対岸の男たちを見ていた間、心拍が上がり、視野が狭くなる感覚があった。もし本当に戦いになっていたら、俺は槍を正しく扱えただろうか。体が思った通りに動いただろうか。
鎌田が俺を呼んだ。
「さっきの橋に気づいたのはお前か」
「はい」
「よく見ていた」
それだけだった。褒め言葉というより、確認するような口調だった。
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問題が起きたのは、その三日後だった。
夜の見回りに出た足軽の一人が、帰ってこなかった。
名前は半次といった。四十代の古参の足軽で、物静かな男だった。仕事は確かで、伊助とは顔なじみだった。
翌朝、村外れの林の中で半次が見つかった。
俺も現場を見に行った。
半次は仰向けに倒れていた。胸に刀傷がある。一太刀だ。深い。着物の前が真っ赤に染まっていて、地面にも血が広がっていた。
初めて人間の死体を見た。
胃がひっくり返るような感覚がした。同時に、目が離せなかった。半次の顔は、苦痛で歪んでいなかった。目が半開きで、ただそこに倒れているだけだ。生きている人間と死んでいる人間の差が、この静けさにあると初めて理解した。
竜之介が隣で顔を背けた。
「……見られますか」
「見た方がいい」
俺の言葉に、竜之介がゆっくりと死体に目を向けた。
「なんでですか」
「これが戦いだから」
傷口を見た。一太刀で深く、正確に心臓の近くを貫いている。短時間で失血死だ。苦しんだ時間は短かったはずだ。それだけが、少し救いだった。
伊助が来て、半次の傷を確認した。
「一太刀。相当な腕の者だ」
「侍ですか」
「足軽風情がここまで綺麗に仕留められない。隣領の間者か、もしくは浪人を雇ったか」
間者。小競り合いが起きた後、偵察か嫌がらせに来た者が、見回り中の半次と遭遇したのだろう。
鎌田が来て、状況を確認し、「全員夜の見回りは二人一組とする」と命じた。
半次の体が運ばれていくのを見ながら、俺は自分の手を見た。槍を握る手だ。これで人を刺すことになる日が、確実に近づいている。
槍を握り直した。
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夜の二人一組の見回りで、俺は竜之介と組んだ。
月明かりの下、村の外縁を歩いた。草が風に揺れる音、遠くで虫が鳴く声。静かな夜だったが、神経を研ぎ澄ませた。
戦略眼が周囲の地形を捉えている。視覚に見えないものでも、地形の起伏や死角が頭の中に浮かぶ。林の向こう、田んぼの影、水路の曲がり角。人間が隠れやすい場所を自然に意識した。
半次が殺された現場も、頭の中で再現した。林の中、道から外れた場所。見回りの経路を知られていたのか。あるいは半次が何かに気づいて林に踏み込んだのか。どちらにせよ、経路の変更か、複数人での見回りしか対策がない。二人一組にした鎌田の判断は正しい。
「半次さん、俺は好きでしたよ。無口だけど、酒をくれる人でした。俺が初めて来た日に、黙って一杯注いでくれて」
竜之介が静かに言った。
「そうか」
「死ぬって、あっという間ですね」
「そうだな」
竜之介はそれ以上言わなかった。俺も黙って歩いた。
半次の死体が、頭の中にこびりついていた。胸の刀傷。一太刀で、深く、確実に。相手は熟練していた。そしてその熟練した者と戦場で出会えば、俺は一合持たないだろう。
怖いと思った。腹の底に重石が沈んでいるような感覚は消えない。しかし恐怖は正直なものだ。怖いと感じているうちは、まだ生きている。
俺はもう一度槍を握り直した。柄の感触を確かめた。木の節が手のひらに当たる。
見回りを終えて陣屋に戻ると、竜之介が「明日もちゃんと起きられますかね」とぼんやり言った。
「起きられる」
「なんで分かるんですか」
「死ななかったから」
竜之介は少し笑った。緊張が少しほぐれた顔だった。
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翌朝の素振りの最中、俺の体に変化が起きた。
槍の百回目を振り終えた瞬間、今まで感じていた重さが少し軽くなった気がした。体の軸が定まっている。腰の回転が、昨日より滑らかだ。
伊助が見ていた。
「少し形が変わったな」
「そうですか」
「いい方向にだ。腕でなく腰で振っている。ちゃんと体が覚えてきた証拠だ」
毎日の繰り返しが、じわりと出始めている。
飯は今日も麦飯だ。味噌汁は昨日より薄い。竜之介が「また薄いですね」と小声で言い、俺は「体が慣れた」と答えた。
「嘘でしょ」
「半分は本当だ」
残り半分は我慢だ。しかし我慢にも慣れる。
俺は飯を食い終えて、槍を手に取った。




