第2話 「足軽の飯と刃の重さ」
朝は早い。
夜明け前に陣屋の庭に全員集合させられ、槍の素振りを百回やる。それが足軽の朝の始まりだった。
最初の三日間は地獄だった。
百回の素振りを終えると、腕が上がらなくなる。肩から首にかけて、石でも詰め込まれたような重さが残った。昼の訓練では走り込みと槍の組手もあり、夕方にはもはや何も考えられなくなる。飯を食って倒れるように眠る。毎日がその繰り返しだった。
五日目、俺は初めて足軽仲間と言葉を交わした。
隣の寝床を使っている若者で、名前を竜之介といった。十六歳で、百姓の三男坊だ。食えないから足軽になったと、何でもないことのように言った。
「橘殿はどこから来なすったんですか」
「遠いところから」
「はあ。そりゃ大変でしたね」
竜之介は特に気にした様子もなく、麦飯を口に押し込んだ。
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足軽の食事は、とにかく薄かった。
主食は麦飯か粟飯だ。米は高価で、足軽の口に入ることはほとんどない。麦飯は消化が悪く、腹は膨れるが力になる感じが薄い。粟は癖のある匂いがして、最初は喉を通らなかった。副食は味噌汁が多い。大豆と塩で作った田舎味噌を湯で溶いただけのものだ。具は大根の葉か、季節の野草。たまに干し魚が一切れ入ることがあった。
最初の七日間、俺は胃腸を壊した。腹がごろごろと鳴り、下痢が続いた。竜之介に聞くと「新入りはみんなそうなりますよ」と言った。「一月もすれば慣れます」とも。
腹を壊したまま素振りをやると、冷や汗が出てくる。途中でこっそり厠に駆け込んで、また戻って素振りを続ける。情けない話だが、それが現実だった。
竜之介が梅干しをくれた。
「腹に効きますよ。うちの母が持たせてくれたんです」
一粒、口に入れると強烈な酸っぱさが広がった。塩がきつく、顔がひきつる。しかし確かに、胃の気持ち悪さが少し和らいだ。
「ありがとう。この梅干し、赤い葉っぱと一緒に漬けているか?」
「しそですか? 入れてますよ」
「それがいい。しそには腐りを抑える力がある。長く持ち歩いても傷みにくくなる。遠征のときに持って行くといい兵糧になる」
竜之介は目を丸くした。
「……そんなこと、どこで覚えたんですか」
「遠い国で聞いた話だ」
竜之介は首をかしげたが、それ以上聞かなかった。
「気にしないでください。橘殿、字が読めると聞きました。俺に教えてもらえませんか」
「俺でよければ」
それから、夕食後に少しの間、竜之介に文字を教えるようになった。竜之介は飲み込みが早く、七日もすると自分の名前を書けるようになった。
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足軽の装備について、正直に言うと、俺のそれはひどいものだった。
支給されたのは、くたびれた布の着込みと、白木の槍一本だけだ。着込みは綿を詰めた上着で、刀の斬り傷や矢の鏃をある程度弾くが、槍の突きを食らえばほぼ意味がない。頭を守るものは何もない。足元は草鞋で、雨が降ればすぐにびしょ濡れになる。
他の足軽も似たようなものだったが、伊助だけは違った。
伊助の装備は、足軽としては上等だった。胴丸は革と鉄板を組み合わせたもので、表面に漆が塗ってある。頭には鉢金を巻いていた。長年の武功で少しずつ揃えたものだと、後から聞いた。
「いい鎧ですね」
素直に言うと、伊助は「金と命を天秤にかけろ」と返した。
「鎧は高い。新品の胴丸なら銭五百文から千文はする。足軽の月給が百文だ。何月分だ。しかし鎧がなければ死ぬ確率が上がる。命の方が安ければ買わなくていい。そうでなければ死ぬ気で貯めろ」
厳しい話だが、筋は通っていた。
俺は月給の中から少しずつ貯めることにした。まず草履を丈夫なものに替え、次に膝当てを手に入れた。膝当ては革製で、転んだときに膝を守ってくれる。たった銭十五文だったが、最初の装備改善だった。
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槍の練習は続けた。
百回の素振りに加えて、自主的に夜も百回振った。腕が上がらなくなっても、座った状態で穂先の操作だけを繰り返した。槍の扱いで一番大事なのは、腕力ではなく手首の返しと体の軸だ。腰の回転と足の踏み込みで、体全体で突く。それを体に叩き込んでいった。
三週間が経つ頃には、伊助に「少しはまともになった」と言われるようになった。褒め言葉の類は一切ない男なので、それで十分だった。
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一月が経ったある朝、俺は刀というものを初めて間近で見た。
陣屋の前で、侍の一人が刀の手入れをしていた。名前は確か清水という若い侍で、二十代の前半だった。鞘から抜いた刀を手に取り、紙に薄く打ち粉を叩いて刀身の脂を拭い取っていく。その刃は、朝日を受けて白く輝いた。
美しかった。
単純に、そう思った。刀の刃紋が波のように流れ、刃先には透き通るような光が宿っていた。それが命を奪うための道具だとは、少し信じられなかった。
「見たことないか」
清水に声をかけられた。
「はい」
「重さはどのくらいですか」
「この太刀か? 七百目ほどだ」
持たせてもらうと、刀は思った以上に重かった。長さも二尺五寸以上ある。これを片手で振り回すのは、相当な腕力が必要だ。
「足軽が刀を持てることはありますか」
清水はちらりと俺を見た。
「戦場で拾えばな。敵の武将や侍を討ち取れば、装備一式が手に入る。ただし死体から剥ぎ取る時間と余裕があればの話だ」
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ある夕方、薬箱について考えた。
陣屋の中に薬箱があった。開けてみると、中身は干した薬草と、包帯代わりの麻布だけだ。薬草は何種類かあり、伊助に聞くと「葛根は熱に効く、よもぎは傷口の止血に使う」と教えてくれた。
よもぎは確かに血を止める効果がある。傷の腐りを抑える力もある。
「傷を縫うことはありますか」
「大きな傷なら縫うこともある。糸と針で」
「縫う前に酒で傷を洗いますか」
伊助が首をひねった。
「酒で洗う?」
「酒の中に、傷を腐らせるものを殺す力があります。縫う前に酒を傷口に垂らしてから縫うと、後から膿みにくくなります」
伊助は半信半疑の顔をしたが、「そういうものか」と言った。
「お前、変わった知識を持ってるな」
「旅の途中で医術に詳しい者に会いまして」
この時代、傷口が腐って死ぬ者は、戦傷で死ぬ者よりも多い。槍で刺されても助かった命が、後から傷が膿んで失われる。そのほとんどは、傷口を汚いままにしているせいだ。
伊助が鎌田に話を通してくれたのは、その翌日だった。鎌田は俺を呼んで、「傷の手当てに酒を使うとはどういうことか」と聞いた。俺は分かりやすく説明した。傷口に見えない小さな虫がいて、それが傷を腐らせる。酒の強い成分がその虫を殺す、という話だ。鎌田はしばらく考えてから「試してみろ」と言った。
次に足軽が傷を負ったとき、俺が手当てをした。
左腕を石で切った傷だった。麻布で血を拭い取り、陣屋にあった焼酎を傷口に垂らした。男が「痛い」と叫んだが、構わず麻布を巻いた。
三日後、傷口は膿んでいなかった。
それだけのことだったが、伊助が俺を見る目が変わった。
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その夜、俺は一人で槍を振りながら考えた。
一月が経って、俺の体は少し変わっていた。腕が太くなった。飯が薄くても、毎日の鍛錬で筋肉がついてくる。足腰も強くなった。
完全には戦えない。まだだ。
竜之介がやってきた。
「橘殿、また夜練ですか」
「ああ」
「今日、鎌田様が褒めてましたよ」
「そうか」
「橘殿は、なぜ足軽になったんですか。字が読めて、医術も知ってて、地形も読めて。もったいなくないですか」
竜之介の問いは素直だった。
「下から始めるのが好きなんだ」
そう答えると、竜之介は不思議そうな顔をして、「変わった人だ」と言って自分の寝床に戻っていった。
夜風が涼しい。
俺は槍を振り続けた。




