第1話 「見知らぬ空の下へ」
気づいたとき、俺は泥の中にいた。
顔の半分が土に埋まっている。息をするたびに、湿った腐葉土の匂いが鼻を突いた。体のあちこちが痛い。とくに右肩と腰が、高いところから叩きつけられたように鈍く疼く。
橘蓮、二十八歳。東京の中堅メーカーに勤める会社員だ。
昨夜まで、俺は残業を終えた帰り道を歩いていた。終電に乗り遅れたせいで、駅から四十分近い道のりをぼんやりと歩いていたのを覚えている。そして気づいたら、ここだ。
ゆっくりと頭を上げる。
視界に飛び込んできたのは、見渡す限りの田んぼだった。青々とした稲が風に揺れ、遠くに低い山の稜線が連なっている。空は驚くほど高く、白い雲がゆっくりと流れていた。
電柱がない。車の音がない。道の舗装もない。
どこを見回しても、見慣れたものが何一つない。
「……どこだ、ここ」
声に出して初めて、自分がどれだけ動揺しているかを自覚した。喉が震えている。手が震えている。足の裏に伝わる土の感触が妙にリアルで、夢ではないと本能が告げていた。
立ち上がろうとして、ふらついた。着ているものを見下ろすと、スーツはボロボロで泥と血に汚れていた。血? 右の手のひらに目を向けると、石で切ったような浅い傷が走っている。じくじくと痛んだ。
深呼吸を一つ。
パニックになっても何も解決しない。まず状況を整理しろ、と頭の中で声がする。
周囲を観察する。田んぼの向こうに、茅葺き屋根の集落が見えた。五、六軒の小さな家が肩を寄せ合うように並んでいる。細く煙が上がっていた。炊事の煙だ。
俺は歩き始めた。
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田んぼの畦道を歩きながら、頭の中で状況を整理した。
電柱がない。舗装道路がない。稲の刈り方、家の作り、全部が見慣れない。過去の時代に飛ばされた、としか思えない。しかしいつの時代かが分からない。江戸か、戦国か、もっと古い時代か。
確認できることから確認しろ。言葉は通じているか。建物の様式は何時代に近いか。武器や道具を見て時代を絞れるか。
頭の中でリストを作りながら歩いていると、畑仕事をしていた老人と目が合った。年の頃は六十を過ぎたくらいか。腰が曲がっていて、麻でできた粗末な着物を身に着けている。俺の姿を見て、目を丸くした。
「……お侍さんで?」
老人の言葉は、何とか聞き取れた。方言というより、古い言葉遣いに近い。しかし通じる。言葉の壁はなさそうだ。
「違います。ただの通りがかりで……」
「通りがかり? この辺りで?」
老人は怪訝そうに俺を見た。スーツを着た見知らぬ男が泥まみれで田んぼの中から現れたら、誰だって怪しむ。
「道に迷いまして」
苦しい言い訳だったが、老人は少し考えてから「ならうちに来なされ」と言った。
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集落の一軒に通されて、囲炉裏の前に座らされた。
室内を見渡した。土間の作り、囲炉裏の道具、壁に掛けられた農具。何より、隅に立てかけてあった長い槍と錆びた刀が目に入った。
(侍の時代だ)
江戸時代にも刀は残っていたが、あの槍の長さと形状は戦場で使うものだ。江戸の太平の世ではなく、戦が日常にある時代。戦国か、それに近い時代と見ていい。
老人の家族が三人出てきた。みんな同じような粗末な麻の着物を着て、顔は日焼けで赤黒く、目の下に疲労の影が落ちていた。
出されたのは薄い雑炊だった。腹が減っていたから、ありがたく食べた。
「あんた、どこから来なすった?」
老人の息子らしき男が聞いてきた。三十代くらいで、体つきだけは頑丈そうだった。
「遠いところから」
「侍衆の下働きで? それにしちゃ変わった格好で」
スーツのことを聞いているのだろう。「着替えを失くしまして」と答えた。
ここで確認しておくべきことがある。
「この辺りは今、どこの領地ですか。それと、今は何年になりますか」
男が少し首をかしげた。
「年号でございますか。今は……正直、よう分かりませぬが。桑田様の御領地でございます。隣の村に在番の侍衆が詰めておりましての」
年号は分からなかった。しかし「桑田様の御領地」という言い方から、地方の小領主が割拠しているこの土地は、戦国の色が濃い。江戸の安定した行政が入っていれば、農民でも年号くらいは知っているはずだ。
ひとまず、俺は今、戦国時代に近い地方農村に放り込まれたらしい。
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その夜、小屋の隅を借りて横になりながら、自分の状況を整理した。
まず、戻る方法が分からない。転移の原因すら不明だ。歩いていたら気づいたらここにいた。理由は分からないままだ。
次に、食べていかなければならない。今夜は飯をもらえたが、いつまでも居候するわけにはいかない。この時代、食い扶持を稼ぐ方法は限られている。農民になるか、足軽になるか。農業の経験は皆無だ。
足軽しかない。
そう考えたとき、視覚に違和感を覚えた。目を開けると、小屋の壁が半透明に見えた。外の地形が頭の中に流れ込んでくるような感覚だった。田んぼの広がり方、集落の位置、遠くの山の稜線。そこに敵が潜んでいた場合の動き方。まるで絵図を見るように、立体的に情報が頭に流れ込んでくる。
俺は目をこすった。
幻覚か。いや、違う。目を閉じても、その情報は頭の中に残っていた。地形の細部まで、鮮明に。
——戦略眼。
なぜかその言葉が頭に浮かんだ。自分の中にそういうものが宿ったと、本能的に分かった。転移のついでに、何かをもらったらしい。地形を読む力は、戦場でも交渉でも活きる。
笑えない話だが、使えるものは使う。
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翌朝、老人に礼を言い、在番の侍衆がいるという隣の村へ向かった。
道は舗装などされていない。ぬかるんだ土の道を歩くと、足がずぶずぶ沈む。慣れない足には、それだけで相当な消耗だった。
歩きながら、戦略眼で周囲の地形を意識的に読んでみた。道の傾斜、水路の流れ、遠くの山の高低。雨が降れば水はどこに溜まるか。敵が来るとすればどの方角から動きやすいか。意識して見れば、地形が語りかけてくるようだった。
四半刻ほど歩いて、隣の村に着いた。
村はずれに、板塀で囲まれた簡素な陣屋があった。門番らしき男が槍を持って立っている。見るからに素朴な、二十歳そこそこの若者だ。
「足軽の募集はありますか」
俺が言うと、若者は上から下まで俺を眺めた。
「変な格好だな」
「着替えを失くしました」
「……待ってろ」
若者は中に入り、しばらくして年配の侍を連れて戻ってきた。五十代くらいで、顎髭を蓄えた目つきの鋭い男だった。着物は粗末だが、腰に差した刀は手入れが行き届いている。
「足軽志望か」
「はい」
「どこの者だ」
「旅の者です。身寄りがなく、仕事を探しております」
男は俺の体を見た。この時代では背が高い方だろう。体は痩せているが、筋はある。
「槍は使えるか」
「少々」
嘘だ。全く使えない。しかし「使えない」と言えばそこで終わりだ。
「字は読めるか」
「はい」
これは本当だ。老人の言葉が聞き取れたように、どういうわけかこの時代の言葉も読み書きできる感覚があった。転移の影響か。
男は目を細めた。
「字が読める足軽志望か。珍しいな」
「役に立てると思います」
男は少し考えてから、「明日から来い」と言った。
「給金は一日三合の米と、月に銭百文だ。いいか」
「承知しました」
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こうして俺の戦国時代が始まった。
翌朝から陣屋に通い始めた。
足軽は全部で十二人いた。年齢はまちまちで、一番若いのが十六、一番年長が四十過ぎくらいだった。みんな、どこかで野良仕事をやっていたような顔をしている。実際、足軽の多くは農民の次男や三男だ。食えないから槍を持った、それだけの話だった。
俺を案内してくれたのは、組頭の伊助という男だった。三十代半ば、背が低くて肩幅が広い。愛想はないが、仕事は丁寧に教えてくれた。
「まず槍の持ち方だ」
差し出されたのは、長さ三間ほどの足軽槍だった。柄は白木で、先端に鉄の穂先がついている。
「持ってみろ」
実際に手にして、思ったより重いと感じた。腕を伸ばして持つだけで、じわじわと腕が震えてくる。
「重いだろう。最初はみんなそうだ。毎日振れ。三月もすれば慣れる」
槍の扱い方を教わりながら、俺は周囲を観察し続けた。足軽の装備はひどいものだった。鎧と呼べるものを持っているのは半分以下で、残りは綿を詰めた胴丸か、布の着込みだけだ。
「これじゃ死んでしまいませんか」
率直に聞くと、伊助は「死ぬのが足軽だ」と言った。笑っていなかった。
背筋が冷えた。
三日目に、初めて戦の話を聞いた。陣屋の中で伊助が話してくれたのは、隣領との揉め事だった。水の利用を巡って、境界の村同士がぶつかり合い、それが領主同士の問題に発展したらしい。本格的な合戦ではなく、小競り合い程度のものが起きそうだということだった。
「俺たちも駆り出されるんですか」
「そうなれば、な。在番の侍衆だ、出ないわけにはいかん」
伊助はそう言って、槍の穂先を布で磨き始めた。
俺は自分の槍を見た。まだ満足に扱えない。
戦略眼を使ってみた。地形が頭に流れ込んでくる。陣屋の周辺、村の位置、道の走り方。敵が来るとしたらどの方向からか、地形上の弱点はどこか。
腕力や槍の腕前は三日では上がらない。しかし地形の読み方なら、今でも活かせる。
俺は伊助に話しかけた。
「伊助さん、もし敵が来るとしたら、北の峠道からではないですか」
伊助が手を止めた。
「なんでそれを知ってる」
「地形を見ていたら、そう思いまして。南は田んぼで足場が悪い、東は川がある。西は集落が密で動きにくい。となると北の峠道が一番通りやすい」
伊助は俺をじっと見た。その目が、それまでとは少し違った。
「……字が読めて、地形も読めるか」
「少しだけですが」
「少しどころじゃないな」
伊助は立ち上がり、組頭の鎌田という侍のところへ歩いていった。
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翌日の朝、鎌田に呼ばれた。陣屋の一室に通されると、簡素な机の前に座っていて、俺を見て「座れ」と言った。
「伊助から聞いた。地形が読めると」
「多少は」
「どこで覚えた」
「旅をしていたので、自然と」
鎌田は少し考えてから言った。
「次の小競り合いに出てもらう。ただし前の列ではない。俺の横で使い走りをしろ」
「ありがとうございます」
「感謝は早い。戦で役に立てれば続けてもらう。役に立たなければ前列に戻す。単純な話だ」
俺は頭を下げた。
「必ず役に立ちます」
陣屋を出ると、夕暮れが赤く空を染めていた。田んぼの向こうで農民たちが仕事を終えて帰っていく。子供の声が聞こえる。
槍はまだ重い。飯は薄い。体は痛い。
俺は陣屋に戻り、槍を手に取った。
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