第25話 「春の足音」
三月に入ると、雪解けが始まった。
山の端の雪が解けて、川の水量が増え始めた。東の見回りに行くと、打った杭が水面近くまで沈んでいた。増水が予想より早い。
「打ち直します」
岡部に報告すると、岡部は眉をわずかに動かした。
「川の水量が戻るまで待つのか、今すぐ打つのか」
「今打つと、さらに増水したとき長さが足りなくなります。増水の最高潮を過ぎた頃に打ち直す方がいいです。ただしその間は杭なしで守る必要があります」
「物見台の警戒を厚くしろ。二名から四名に増やす」
「承知しました」
夜の見回りも強化した。川沿いに一刻おきに見回り隊を出して、異変がないかを確認する。竜之介と俺で交互に担当した。
夜の川は昼より別物だった。
水音が大きい。増水した川は流れが速く、白く濁った水が轟音を立てて流れる。暗闇の中でその音を聞いていると、底なしの何かが動いているような気がした。戦略眼で周囲を読もうとしても、川の音が全ての感覚を上塗りする。怖いというより、ひたすら圧倒される。
竜之介が見回りの後、囲炉裏に当たりながら言った。
「川の音が変わりましたね」
「増水している。来週辺りが山場だ」
「その頃に来ますか、浅野は」
「まだ早い。雪解けが終わって足場が固まってから来るはずだ。四月か五月だと源三郎さんは言っていた」
「あと一ヶ月か二ヶ月ですか」
「そうだ」
竜之介は火を見た。
「俺、最近また怖くなってきました。あの春の合戦が頭に戻ってきます」
「来る前はいつもそうなる。直前が一番辛い」
「橘殿も?」
「俺も同じだ」
竜之介は少し表情が緩んだ。
「同じですか」
「同じだ。ただ直前が怖いのは、体が本番に向けて準備しているからだとも言える。怖くない方がおかしい」
「そう考えると少し楽ですね」
「準備は全部やった。あとは当日に体を動かすだけだ」
竜之介は返事をしなかった。火を見ていた。俺も火を見た。
言葉より、そういう沈黙の方が、このところ二人の間には多い。
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三月の半ば、源三郎が新しい情報を持ってきた。
浅野の動きが早まっている可能性があるという。
桑田の部屋に呼ばれたのは夕方だった。桑田、岡部、石渡、広瀬、源三郎が揃っていた。俺は末席に呼ばれた。
源三郎が話した。
「浅野側から流れた話によると、今月末か来月頭に動き始める可能性があります。雪解けを待たずに先手を取る考えがあるようです」
「雪解け前とは」
「道が泥濘になる前の方が、大軍の移動に向いている、という判断のようです。逆に言えば、桑田側が準備を整える前に動く、ということです」
岡部が地図を見ながら言った。
「二十から三十日間か。準備が前倒しになる」
室内が静まり返った。誰も何も言わない。数字の重さが全員に乗っかっている。
俺は頭の中で地形を展開した。
三月末。川の水量はまだ多い。東の杭の打ち直しが終わっていない。物見台は完成しているが、守備の人員の訓練がまだ途中だ。最悪の場合、準備が七割の状態で迎え撃つことになる。
「橘、東の準備状況は」
岡部が俺に振った。
「杭の打ち直しが未完了です。三月末に来た場合、増水中の川での渡河は困難ですが、上流の岩伝いの経路を使った少人数の先行は可能です。そこへの対応が間に合っていません」
「何が必要だ」
「上流の岩場に一名を常駐させる必要があります。夜通しです。ただし一名では危険です。二名を一組にして、二刻交代で張り付ける体制が必要です」
「やれるか」
「やります」
岡部が桑田を見た。桑田が静かに頷いた。
「人員を追加する。橘の判断に任せる」
広瀬がその場で何かを言いかけた。しかし岡部の目と合って、口を閉じた。
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会議が終わって廊下に出ると、広瀬が俺に声をかけた。
「橘」
「はい」
「今日の報告、筋が通っていた」
広瀬が俺を褒めるのは珍しい。俺は少し立ち止まった。
「ありがとうございます」
「この戦が終わったら、話がある」
それだけ言って、広瀬は去った。
石渡がすれ違いに言った。
「広瀬殿がお前に声をかけていたな」
「戦の後に話があると」
「そうか。広瀬殿が戦の後の話をするのは珍しい。あの人は目の前のことしか言わない」
「どういう意味でしょうか」
「お前を囲い込もうとしているのかもしれない。あるいはお前が思ったより大きく見えてきたのかもしれない。どちらにせよ、悪いことではない」
石渡は歩いていった。
俺は廊下に一人残った。夕日が窓から差し込んでいた。この戦が終わったら。誰もが、戦の後の話を前提に動いている。生き残らなければ、その話は全部消える。
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その夜遅く、源三郎が俺を訪ねてきた。
珍しいことだった。源三郎が自分から訪ねてくることはほとんどない。
「少し話せるか」
「どうぞ」
二人で城の廊下に出た。月が出ていた。
「今日の会議で、お前は東の準備が間に合っていないと正直に言った」
「事実ですので」
「普通の足軽は、準備ができていると言って体裁を保とうとする。お前はそうしなかった」
「体裁より実態の方が大事です。間に合っていないなら、追加の手を打てる。嘘をつけば後で死ぬ可能性が増えます」
「そういう考え方か」
源三郎は月を見た。
「俺が浅野にいた頃、似たことがあった。準備が整っていない状態で出陣することになり、部下が全員正直に言わなかった。俺一人が言ったが、通らなかった。結果として多くが死んだ」
源三郎の声は静かだった。しかし言葉の一つひとつが重かった。
「それが浅野を離れた理由の一つですか」
「一つだ。全てではない」
源三郎は俺を見た。
「伝えておきたいことがある。この戦で、俺は東に出る」
「東に?」
「浅野は東の牽制に、俺の顔を知っている者を使う可能性がある。俺が東にいれば、相手の動きを読む助けになる。岡部殿に申し出た。承諾された」
俺は少し考えた。
東の守りは、俺と源三郎が中心になる。俺の現場の読みと、源三郎の浅野に対する知識が合わさる。悪くない組み合わせだ。
「分かりました。よろしくお願いします」
「俺の動きを信じろと言いたいところだが、それはお前が決めることだ。ただ一つだけ言う」
源三郎は俺の目を見た。
「俺はここで死ぬつもりはない。目的がある」
「目的とは」
「それはまだ言わない」
源三郎は歩き去った。
月明かりの中、その背中が遠くなっていく。
源三郎の目的はまだ見えない。しかし何ヶ月か一緒にいて、嘘をついたことは確認できる範囲ではなかった。
信じる、と決めた。廊下に立ったまま、月を見て決めた。
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翌朝の稽古の後、城倉から文が来た。
城倉の家の村人が届けてくれた。文の内容は短かった。
「体は戻った。この戦が終わったら稽古を再開する。それまでよく動け」
俺は文を折って懐に入れた。
城倉は戦の後まで待っている。石渡も、広瀬も、源三郎も、城倉も、全員が戦の後の話をしている。
俺は槍を取り、素振りを始めた。
浅野が来るまで、二十から三十日。
(続く)




