第24話 「広瀬の本性」
二月に入った。
浅野の侵攻まで、ふた月を切った。
城の中の空気が変わってきた。足軽たちの顔が引き締まり、訓練の声が以前より張っている。武具の手入れをする者が増え、夜も稽古の音が聞こえるようになった。人が緊張すると空気が変わる。それがこの一年半で分かるようになってきた。
俺の文書仕事も増えていた。
広瀬から矢継ぎ早に仕事が来る。年貢の最終整理、村ごとの人手の確認、食料備蓄の記録。この春の合戦に備えた後方の準備だ。一日の半分を書き仕事に費やし、残り半分を稽古と川の見回りに使う日が続いた。
睡眠が削られていた。
それでも体は動いた。この一年半で鍛えた体は、多少の無理には耐えられるようになっていた。ただ頭が重くなる。判断が鈍る感覚が、夕方頃に出てくる。
竜之介が気にして声をかけてきた。
「寝ていますか」
「三、四刻は」
「短いです。もっと寝てください」
「仕事がある」
「死にますよ」
判断力が落ちた状態で戦場に出れば、それこそ死に直結する。竜之介の言葉は短かったが、正しかった。
岡部に相談して、文書仕事を少し後ろにずらしてもらった。岡部は「体が資本だ」と言って、即座に承知してくれた。
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問題が起きたのは、二月の半ばだった。
広瀬から呼ばれた。
部屋に入ると、広瀬の顔がいつもと違った。感情が表に出ていない。しかし目の奥に、何か計算するものがある。いつもの愛想のなさとは違う、意図的な抑制だ。
「座れ」
俺は座った。
「この春の合戦について、お前は岡部殿の配下として動くと聞いている」
「はい」
「しかし俺は別のことを考えている」
俺は黙って聞いた。
「お前の書いた川の地形の図面と段取りを、俺がまとめ直して桑田様に提出した」
俺は次の言葉を待った。
「俺の名前で出したのではないと」
「桑田様には広瀬の仕事として届いている」
俺は少し間を置いた。
川に入り、調べ、考え、書いた仕事を、広瀬が自分の仕事として桑田に提出した。事実としてそれが起きている。
「それで、俺に何を求めているんですか」
「引き続き仕事をしてほしい。ただし全ての成果は俺を通して出せ。そういう形で続けてもらう。それが条件だ」
俺は広瀬を見た。
広瀬の言いたいことは分かる。自分の配下として俺を使い、成果を上に通す。しかしそれを黙って受け入れれば、この戦の後に俺の立場がなくなる。
「一つ聞いていいですか」
「何だ」
「俺が調べた川の地形を、広瀬様が提出した。しかし実際に川に入って杭を打って守りの段取りを考えたのは俺です。それを桑田様が知っているかどうか、という話です」
「知らない。俺が提出したから」
「桑田様はいずれ知ります」
広瀬の目が険しくなった。
「何が言いたい」
「岡部様が知っています。石渡様も知っています。この春の戦で実際に俺が動けば、誰がその仕事をしたかは戦場に出た者全員が見ます。桑田様は人を見る目がある、と石渡様に聞きました。いずれ実際に誰が動いたかは、伝わります。そのとき、広瀬様の立場はどうなりますか」
長い沈黙があった。
広瀬は俺を見ていた。俺は静かに座って、広瀬の目を見ていた。脅しではない。事実を言っているだけだ。感情を入れず、計算として話している。広瀬が理解できる言葉で。
「……お前は賢い奴だな」
「いいえ」
「いや、賢い。そして厄介だ」
広瀬は少し椅子に深く掛けた。
「お前の言いたいことは分かった。逆らわないが、自分の実績も消させない、ということか」
「桑田様に正直に使ってもらいたい。それだけです。広瀬様の指示で動くことは変わりません」
また沈黙があった。
「分かった。次からは、お前の名前も添えて提出する」
広瀬は言った。
「ただし、俺を通すという原則は変わらない」
「承知しました」
俺は頭を下げて部屋を出た。
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廊下に出た。
広瀬は名前を添えると言った。しかし次にどう動いてくるか、まだ読めない。
石渡に話した。
石渡は俺の話を聞き終わって、少し考えた。
「お前、広瀬殿に直接そう言ったのか」
「はい」
「度胸があるな。広瀬殿は気に入らない者を静かに潰すことがある」
「覚悟はしています」
「なぜそこまで動いた」
「自分の仕事を消されたまま黙っていては、この戦の後で困ります。俺の実績が誰のものかが曖昧なまま戦になれば、戦後の扱いにも影響します」
石渡は俺を見た。
「戦の後まで計算しているのか」
「してなければ、ただ死ぬだけです」
石渡は少し笑った。珍しいことだった。
「お前らしい物の考え方だ。広瀬殿については、俺も見ておく」
「ありがとうございます」
「礼はいらない。ただ、広瀬殿を完全に敵に回すな。城の中の均衡は、一人が崩れると全体に響く。お前が広瀬殿を動かせる位置にいる方が、長い目で見れば桑田様のためにもなる」
石渡は歩いていった。
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長屋に戻ると、権蔵が起きていた。
「顔が疲れている」
「少し揉め事が」
「城の中か、外か」
「中です」
権蔵は刀の手入れをしながら言った。
「城の中の揉め事で疲れた顔をしている奴は、大抵どちらかだ。自分が悪いか、相手が悪いか。お前の場合は後者だろう」
「広瀬様の件です」
「あの人は癖がある。七年いるから分かる。しかし完全な悪人ではない。使いようがある人間だ」
「使いようがある、とは」
「自分の利益になることは徹底的にやる。つまり俺たちの仕事がそのまま広瀬の利益になる形を作れれば、向こうから動いてくれる。そういう人間だ。敵にするより、同じ方向を向かせる方が早い」
「七年でそこまで分かりますか」
「人を長く見れば、見えてくるものがある。お前は短い期間でたくさんのことを掴んでいる。頭が速いのか、それとも経験のある人間の頭をしているのか、俺には判断できないが」
権蔵は刀を鞘に納めた。
「どちらにせよ、ここまで生き残っているのは実力だ。この春も生き残れ」
権蔵はそう言って横になった。
俺も床に就いた。できることはやった。後は流れを見る。
外で風が鳴っている。
二月の風は冷たい。しかし春は確実に近づいている。
眠りは、意外と早く来た。
(続く)




