第23話 「年越しと、古傷」
年が明けた。
戦国時代の正月は、現代のそれとは全く違う。
城の中では一応の祝いがある。普段より少しいい飯が出て、桑田から足軽たちに酒が振る舞われた。銚子一本を四人で回し飲みする程度だが、それでも皆の顔が少し緩んだ。
竜之介が酒を一口飲んで「うまい」と言った。
「普段飲まないのか」
「在番組のときは銭がなくて。本城に来てからは飲めるようにはなりましたが、まだ慣れていません」
「飲みすぎると翌朝の稽古が辛くなる」
「橘殿は何でも訓練に結びつけますね」
「習慣だ」
権蔵が俺の盃に追加で注いだ。
「正月くらい緩めろ。一年無事に終えたんだ。今夜くらいは大目に見ろ」
一年。
この時代に来て、もうすぐ一年半が経つ。足軽から始めて、今は本城の岡部配下にいる。桑田に名前を覚えてもらい、文書仕事も任されている。城倉に師事し、源三郎から刀を習っている。死にそうになったことも、一度や二度ではない。
生きている。
今はそれが、何よりの手応えだった。
俺は酒を飲んだ。この時代の酒は濁っていて甘みがある。現代の清酒とは違うが、悪くない味だった。体が温まる。こういう感覚が、この時代に来てから少しずつ好きになってきた。
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正月の酒の場で、権蔵が昔話を始めた。
権蔵は元々、別の領主に仕えていたらしい。名前は出さなかったが、十年ほど前に主君が他家に滅ぼされ、流れ流れて桑田に仕えるようになったということだった。
「俺の古い主君の城が落ちたとき、俺は外に出ていた」
権蔵は静かな声で言った。酒が入っているからか、普段より言葉が多い。
「戻ったときには城が燃えていた。仲間が半分以上死んでいた。俺は城の中にいなかったから生き残った。それだけの話だ」
「それが顔の火傷か」
俺が聞くと、権蔵は少し間を置いた。
「燃えている城から仲間を引きずり出した。それだけだ。間に合わなかった者の方が多かったが」
竜之介が黙って聞いていた。盃を持つ手が止まっている。
「今でも夢に見るか」
「見る。年に何度か。最初は毎晩だったが、十年で年に何度かになった」
「慣れたのか」
「慣れたとは違う」
権蔵は少し考えてから言った。
「一緒に暮らすようになった、という感じだ。消えない。ただ毎晩ではなくなった。夢を見ても翌朝には動ける。それが今の俺の状態だ」
火が揺れた。
正月の夜は長く、静かだった。
竜之介が小声で言った。
「あの春の合戦で死んだ奴のこと、俺はまだ忘れられません」
「忘れなくていい」
権蔵が言った。
「忘れた奴は、同じ間違いを繰り返す。覚えている奴は、次に慎重になる。どちらが生き残るかは、分かるだろう」
誰も返さなかった。
返す必要がなかった。
俺は盃を持ったまま、囲炉裏の火を見ていた。権蔵の言う通りだと思った。前の世界でも、この世界でも、生き残っている者は何かを手放さずに持ち続けている。大事なものを忘れないから、慎重になれる。
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正月が明けると、準備の仕事が再開した。
東の守りの段取りは岡部に承認されていた。物見台の完成、杭打ちの完了、連絡経路の整備。あとは人員の配置と、実際に動く足軽たちへの説明が残っていた。
岡部に呼ばれたのは、正月三日後のことだ。
「橘、追加の仕事がある」
「何でしょうか」
「東の守りを担当する者たちに、段取りを説明しろ。俺が説明するより、考えた奴が説明した方が正確に伝わる」
足軽が足軽に説明する。その中には俺より年上の者もいる。しかし岡部が言うなら従う。むしろこれは機会だ。実際に動く者たちに直接伝われば、いざというときの動きが変わる。
「承知しました」
「明後日の朝、全員集める。一刻で話せるか」
「やります」
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説明の準備を一日かけてした。
言葉で説明するだけでなく、図を描いた。川の形と渡河点の位置、物見台の場所、杭の位置、連絡経路。それを大きな紙に書いて、見やすくした。
竜之介に見せると「分かりやすい」と言った。
「これを見れば川のことを知らない人間でも分かりますね」
「それが目的だ。俺が全部説明し続けるわけにはいかない。図があれば、俺がいなくても誰かが見て判断できる」
「なるほど」
「竜之介、お前もこれを全部頭に入れておけ。俺が動けないときに、お前が説明できるようにしておく」
「俺が?」
「いざとなれば俺より前に現場に出る可能性もある。覚えておいて損はない」
竜之介は図を見ながら、真剣な顔で頷いた。
このところ竜之介が変わってきている、と感じていた。最初に出会った頃の、素直だが何も考えていない少年の顔が少しずつ変わっている。問いを立ててから答えを出すようになった。なぜこうするのか、と聞くようになった。その質問が、以前より鋭くなっている。
十六で足軽になったあの少年が、今は十七だ。
成長が速い。
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説明会の当日、第二組の足軽たちが集まった。
権蔵も竜之介もいる。俺より年上の者が半分ほどいた。
俺は図を広げて、順番に説明した。川の地形から始め、渡河点の特徴、各守備位置の役割、緊急時の連絡手順。一つひとつ確認しながら進んだ。
質問が来た。
「夜間に敵が来たとき、松明を焚いたら逆に自分たちが狙われないか」
「良い指摘です。松明は物見台の内側に置き、外から直接見えない向きに置きます。自分たちが見えないようにしながら、煙だけを城の方向に上げる方法があります。昼の煙と夜の光を使い分けます」
「川底の杭は春に流されないか」
「流される可能性があります。その場合は水が増え始めたら打ち直します。材料は川沿いに常時置いておきます。杭が抜けたままにしないために、水量の確認を物見台の仕事に組み込んでいます」
「渡ってきた敵が多数の場合、十名で対処できるか」
少し間があった。
「できません」
俺は正直に言った。
「多数が渡り始めたら、物見台から信号を出して本隊を呼ぶことが最優先です。十名で止めようとするのは最後の手段、あるいはやむを得ない場合だけです。東の守りの目的は、侵攻を完全に防ぐことではなく、本隊が来るまで時間を稼ぐことです」
全員が少し空気を締めた。
実際にそれが来る可能性がある、と全員が分かっているからだ。絵空事ではない、この春の話だ。
年上の一人が言った。
「お前、橘というのか。しっかりした考え方をする」
「ありがとうございます」
「俺は桝田という。七年ここにいる。困ったことがあれば聞きに来い。現場では帳面より体が頼りになる場面もある」
桝田という男は四十代で、がっしりした体つきだった。七年の在番経験がある。俺が持っていない現場の知恵を持っている。そういう人間と繋がっておくことが、この春の戦で生死を分けるかもしれない。
「よろしくお願いします」
頭を下げると、桝田は「真面目な奴だな」と笑った。
岡部が最後に一言言った。
「以上で説明は終わりだ。各自、この段取りを体に入れておけ。雪解けまで時間はない」
短い言葉だったが、全員の背筋が伸びた。
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その夜、俺は一人で城の廊下を歩いた。
石渡とすれ違った。
「説明はどうだった」
「無事終わりました」
「岡部殿が珍しく満足そうだった。多くを語らないあの人にしては、上出来の反応だ」
石渡は少し足を止めた。
「橘、何者だ」
俺は少し間を置いた。
「足軽です」
「今はな。しかしどこに向かっているのかを聞いている」
「城持ちになりたいと思っています」
石渡は俺を見た。笑わなかった。
「それは桑田様に言ったか」
「一度、言いました」
「桑田様はどう答えた」
「道はある、と」
石渡は少し考えた。それから静かに言った。
「この春の戦を生き残れ。それからの話は、その後でいい」
石渡は歩き去った。廊下が静かになった。
この春。
全ての答えは、この春にある。
俺は自分の部屋に戻り、今日の疲れを体の中に感じながら眠りについた。夢は見なかった。
(続く)




