第17話 「広瀬の罠」
水路補修の段取りを出してから半月が経った頃、広瀬からまた呼び出しがあった。
今度は別の仕事だ。隣接する村々の境界線を示した図面を整理し、境界に関わる争いの記録をまとめろという。三田との合戦が終わった後、細かな境界の確認作業が残っていたらしい。
仕事は増えていく一方だったが、俺は断らなかった。
書類を読めば読むほど、桑田領内の地形と人の流れが頭に入る。どの村が水に恵まれ、どの村が道に近く、どこが攻められやすくどこが守りやすいか。足軽の俺には今すぐ使えない知識でも、積み重ねておく価値はある。戦場での戦略眼は、地形を知っているかどうかで精度が全く変わる。
三日かけて図面を整理し、境界争いの記録を時系列に並べ直した。書き上げた帳面を広瀬に渡すと、今度は前より早く「よし」と言った。広瀬が短く「続きを出せ」と言った。それだけだったが、俺には十分だった。
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問題が起きたのは、その翌日だった。
朝の稽古を終えて長屋に戻ると、権蔵が神妙な顔で待っていた。
「昨夜、お前の悪い噂が回った」
荷物を下ろしながら聞いた。
「どんな噂だ」
「広瀬殿の書類を、お前が無断で外に持ち出したという話だ」
俺は手を止めた。
「それは事実か」
「俺は知らない。ただ昨夜の飯の場でそういう話が出た。源は分からん。二、三人が聞いていた」
書類を外に持ち出した。
そんなことはしていない。書類は全て広瀬の部屋か、俺が仕事をする小部屋の中だけで扱った。外に持ち出す理由も機会もない。
しかし噂は事実かどうかと関係なく広がる。それがこういうものの恐ろしさだ。
伊助の言葉が頭に蘇った。出る杭は打たれる。
「誰が言っていた」
「名前は出ていなかった。誰かが誰かから聞いた、という話の伝わり方だ」
誰が仕掛けたか。書類を扱う仕事を知っている者は限られる。広瀬の周辺か、石渡の周辺か。あるいは——
鎌田が言っていた。広瀬は勘定を握る者として、俺が桑田様に近くなることを警戒している可能性がある、と。
「分かった。ありがとう」
「どうする気だ」
「動かない」
「それだけか」
「噂に反応すると本当らしく見える。証拠のない話には、証拠のない言い訳で返しても無駄だ。石渡殿が動けば自然に調べが入る。それを待つ」
権蔵は少し考えてから「そうか」と言った。それ以上は聞かなかった。
刀の手入れを再開した。金属の擦れる音が長屋に戻ってきた。その音が、妙に落ち着いた。
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その日の夕方、石渡に呼ばれた。
石渡の顔がいつもより硬かった。
「書類を外に持ち出したという話が出ている。事実か」
「事実ではありません」
「根拠は」
「書類は全て広瀬様の部屋か仕事部屋で扱いました。外に持ち出す理由がありません。もし本当に持ち出していたなら、どこで、いつ、何の書類を、という話が出るはずです。そこを確かめてください」
石渡はしばらく俺を見た。
「お前は落ち着いているな」
「身に覚えがないので」
「身に覚えがない者が落ち着いているとは限らない。逆に言えば、落ち着いているから身に覚えがないとも言えない」
石渡の目は鋭かった。この男は公正だが、甘くもない。窓の外で風が鳴った。沈黙が続いた。
「ならば調べてください。俺は結果を待ちます」
石渡は少し間を置いた。
「広瀬殿に確認を取る。それまでお前の文書仕事は止める」
「承知しました」
部屋を出ると、夕日が城壁を赤く染めていた。
足が少し鈍くなった。石渡の目が、頭から離れなかった。
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三日後、石渡から呼び出しがあった。
三日の間、俺は通常の仕事だけをして過ごした。見回りをして、稽古をして、飯を食った。余計なことを考えないようにした。しかし夜に横になると、石渡の目が浮かんだ。
「調べた。広瀬殿の部屋に出入りした者の記録を確認した。お前が書類を持ち出した証拠はない。噂の出処も追おうとしたが、辿れなかった」
「そうですか」
「ただ、出処が辿れないということは、誰かが意図的に流したということだ。心当たりはないか」
俺は少し考えた。
「藤兵衛という者に心当たりがあります。在番組にいた古参の足軽です。俺が城に呼ばれることを快く思っていなかった」
「藤兵衛か」
「確証はありません。ただ、口を作る動機があった者として」
石渡はしばらく黙っていた。
「分かった。文書仕事を再開していい」
「ありがとうございます」
「一つ言っておく」
石渡が俺を見た。
「城の中は戦場と同じだ。刃は見えないが、傷は深い。戦場の戦い方は分かってきた。しかし城の中の戦い方はまだ慣れていない。気をつけろ」
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長屋に戻る道で、頭を整理した。
城壁に夕日が当たっていた。石渡の言葉が耳の中で繰り返されている。
石渡が動いてくれた。この男は俺を信用しているわけではないが、公正に動く。城の中には俺の動きを面白く思わない者がいる。次は別の手で来るだろう。
しかしそれが分かっているだけで、対処できる。知らないまま食らうのと、知った上で備えるのとでは、まるで違う。
竜之介が長屋で待っていた。
「どうなりましたか」
「噂は否定された。仕事を再開できる」
「よかったです」
竜之介は大きく息を吐いた。
「俺、心配で飯が半分しか入りませんでした」
「お前が心配してどうする」
「だって俺を連れてきたのは橘殿じゃないですか。橘殿が落ちたら俺も落ちます」
竜之介の目が真剣だった。この一年で、俺との繋がりを命綱にしている。それだけの重さが、その目にあった。
飯を食えなかった男が、今こうして俺の前に座っている。心配していたのは分かる。しかしそれを言葉にして出せるようになった。それが変化だ。
「落ちない」
「約束ですか」
「約束だ」
竜之介は少し考えてから、「信じます」と言った。
俺は壁に背を預けた。
刃は見えないが、確かに存在する。石渡が教えてくれたことを、今日初めて体で覚えた。




