第16話 「本城の足軽」
本城への引き越しは、拍子抜けするほど地味だった。
荷物は少なかった。防具と着替えの着物が二枚、槍の手入れ道具、金瘡薬の小瓶、貯めた銭の入った小袋。それだけだ。一年前に自分が持っていたものは何一つない。
あの夜のことを考えると、今でも不思議な気持ちになる。
しかし今はそれより目の前のことだ。
竜之介と二人、桑田城の足軽長屋に入った。在番組の陣屋より広い。板間に藁を敷いた寝床だが、一人あたりの場所が広くなった。隣の寝床との距離が、こぶし二つ分ほどある。
「広いですね」
竜之介が言った。
「在番組より人数が多いから、それほどでもないぞ」
声をかけてきたのは三十代の足軽だった。がっしりした体つきで、顔に古い火傷の痕がある。名前を権蔵といった。
「新入りか。どこから来た」
「桑田様の在番組から、岡部様の配下に」
「ああ、聞いた。丘の戦と春の合戦で働いた奴か」
俺のことが知れ渡っていた。城内は意外と狭い。
「権蔵だ。何かあれば聞いてくれ」
権蔵は愛想がよかった。しかし目は観察している。新入りをどう見るか、値踏みしているのが分かった。
「橘蓮です。よろしくお願いします」
「丁寧な奴だな。まあ、ここは在番組より上の連中が多い。馴れ馴れしくするより、それくらいでいい」
権蔵は言い終えると、俺の返事を待たずに自分の荷物を整え始めた。この男、口は立つが態度は正直だ。
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本城の足軽組は、在番組とは空気が違った。
まず腕が違う。在番組は農民出身の者が多かったが、本城の足軽組には若い頃から武家奉公をしてきた者が混じっている。動き方が洗練されている。素振り一つ見ても、重さの使い方が違う。腰の入り方、足の運び方。そういう細かいところに年月が出る。
最初の朝の稽古で、俺はただ構えた。
足軽組の朝稽古は組み稽古形式で、新入りは必ず古参と一手合わせることになっているらしい。権蔵が相手になった。
権蔵は構えが大きい。腕力に頼る突きをする。体の軸がやや右に傾く癖がある。戦略眼で一目で見えた。
一合目、権蔵が踏み込んできた。俺は半歩右に開いて受け流し、穂先を肩口に当てた。
権蔵が止まった。
「今の、どうやった」
「受け流しただけです」
「俺の踏み込みを読んでいた。最初から分かっていたみたいに動いた」
「少し癖が見えたので」
権蔵は俺を見て、それから笑った。
「面白い奴が来た」
周りで見ていた足軽たちの目が変わった。歓迎でも敵意でもない。どういう奴かを見極めようとする目だ。
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本城での仕事は、在番組より多岐にわたった。
巡回、伝令、門番、荷運び、文書の仕分け。それに合わせて、桑田直属の文書仕事が加わった。石渡を通じて広瀬から指示が来て、帳面の整理や書状の写しを頼まれる。
文書仕事は、城の中の情報が自然と集まってくる仕組みだ。
桑田家の石高、近隣の勢力図、今年の年貢の見通し、隣接する三田や北の浅野という大名との関係。それらが断片的に、しかし確実に見えてきた。
桑田家の状況は、楽ではない。
石高は八千石。小さい。三田との合戦で一定の決着はついたが、北の浅野が少しずつ圧力をかけてきている。年貢は安定しているが、合戦の出費が重なって蓄えが薄い。
(数字を見ていると、先が読める)
収支のバランスが崩れ続ければ、いずれ給金が滞り、家臣が離れる。そうなれば外からの圧力に耐えられなくなる。小領主が傾くとき、いつも同じ崩れ方をする。
俺の読みでは、数年以内に大きな変動が来る。
桑田が浅野に吸収されるか、どこかと手を組んで対抗するか。足軽の俺には今すぐ動かせるものは何もない。しかし流れを読んでおくことだけは、今からできる。大波に飲まれる前に、自分の立ち位置を確かめておく。
竜之介に話すと、首をひねった。
「難しいですね。俺には帳面を読んでも何も見えません」
「慣れだ。数字は嘘をつかない」
「橘殿は商人にもなれそうですね」
「そっちの方が楽だったかもしれない」
竜之介が笑った。
笑い話のように言ったが、半分は本気だ。商人の目と武士の目の両方を持てれば、どちらかしか見えない者より遠くまで見渡せる。
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引き越して十日目、広瀬が直接俺を呼んだ。
本城の一室に通されると、広瀬が書類を広げていた。前回と同じ、愛想のない顔だ。
「水路の補修の件だ。お前の見立てを元に、桑田様が実施を決めた。来月から工事に入る」
「それはよかったです」
「喜ぶのは早い。工事の段取りを書き起こせ。村ごとの補修箇所、必要な人手と日数、費用の見込みを整理しろ。三日でできるか」
三日。帳面を全部読み直して、現地の状況を確認して、村ごとに整理する。相当な仕事量だが、できないことはない。
「やります」
「できなければ別の者にやらせる。時間を無駄にするな」
広瀬は書類を押し付けて、部屋を出た。
俺は書類を手に取った。
(機会だ)
文書で結果を出せば、城の中での立場が変わる。広瀬は愛想がないが、仕事の結果には正直に反応する男だと見ていた。感情で動かない分、成果が通じる。
三日間、俺は寝る間を惜しんで書き続けた。
帳面を読み込み、水路の構造を想定し、工事に必要な人手を村の規模から逆算した。費用は過去の普請記録と照らし合わせて見当をつけた。竜之介に使い走りを頼み、現地の村に確認に行かせた。
さらに、段取りを組む際に一つ工夫をした。
三村を同時に着工するのではなく、最も効果の出やすい村から順番に手をつける段取りにした。先に成功例を作れば、次の村への説得が楽になる。百姓たちの疑念も薄れる。一度に全部やろうとして全部が中途半端になるより、一点を完成させて信頼を積み上げる方が早い。
(これも戦略だ。兵法でも普請でも、基本は変わらない)
三日目の夕刻、俺は書き上げた帳面を広瀬に渡した。
広瀬は黙って読んだ。一枚めくり、また一枚めくる。長い沈黙があった。
「……過不足ない。使える」
それだけだった。しかし広瀬が「使える」と言うのを、石渡が後ろで聞いていた。
その夜、石渡が俺に声をかけた。
「広瀬殿が使えると言うのは、滅多にないことだ。覚えておけ」
「ありがとうございます」
「礼はいらない。ただ、広瀬殿は認めた者を使い倒す。次からはもっと多くを求めてくる。準備しておけ」
使い倒す、か。
構わない。使われる中で学べるなら、それでいい。今の俺には積み上げることの方が大事だ。
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夜、長屋に戻ると権蔵が起きていた。
「遅かったな」
「文書仕事が長引きました」
「お前、戦うより書く方が得意か」
「両方やります」
権蔵は少し考えてから言った。
「珍しい足軽だな。書ける奴は戦を避ける。戦える奴は書くのを嫌がる。お前はどちらもやる」
「どちらも必要だと思っているので」
「なぜだ」
俺は少し間を置いた。
「槍だけでは、城持ちにはなれないと思っています」
権蔵が止まった。
「城持ち」
「はい」
権蔵はしばらく俺を見た。馬鹿にする目ではなかった。何か別の色があった。値踏みとも、驚きとも、少し違う。
「……本気で言っているんだな」
「本気です」
「そうか」
権蔵は横になった。それ以上は何も言わなかった。
しかし翌朝から、権蔵の俺に対する態度が少し変わった。馴れ馴れしさが消えて、代わりに一定の距離感が生まれた。馬鹿にするのでもなく、警戒するのでもない。対等なものに近い距離感だった。
権蔵は何も言わなかったが、俺は何かが変わったと感じていた。
(続く)




