第12話 「本格合戦、開幕」
出陣の朝は、雨だった。
叩きつけるような強い雨ではなく、じっとりと降り続ける春雨だ。地面が柔らかくなり、草鞋が泥を拾う。出発前から足が重かった。
岡部率いる本城の増援五十名と、在番組の俺たちが合流すると、総勢六十五名になった。対する三田側はおよそ百名と聞いた。
数で負けている。
しかし岡部は表情一つ変えなかった。
「戦は数だけじゃない。地形と機を読んだ方が勝つ」
俺は岡部の配下として、その横に付いた。使い走りと地形の報告が役割だ。
行軍の途中で、俺は戦略眼を全力で働かせた。
道の左右の地形を読み続ける。田んぼ、林、水路、丘の起伏。三田側が伏兵を置くとしたらどこか、どの方向から側面を突かれる可能性があるか。情報が地図のように頭に広がる。
川沿いの林が気になった。
三田側が百名なら正面に七十、三十を隠せる計算になる。伏兵を置くとすれば、この地形で最も目立たないのが川沿いの林だ。そこから出れば我々の左側面を突ける。機動力より奇襲を選ぶなら、ここしかない。戦略眼が林の内側を見るように情報を集めた。木々の密度、地面の踏みしめ方、鳥の気配。何かがいる。
「岡部様、左手の川沿いの林に伏兵がいるかもしれません」
岡部が俺を見た。
「根拠は」
「三田側が百名なら、正面に七十出して三十を隠せます。この地形なら川沿いの林が最も目立たない伏兵位置です。そこから出れば我々の左側面を突けます」
岡部は少し考えた。
「確認できるか」
「遠回りになりますが、斥候を一人林の手前まで走らせれば、気配だけは分かると思います」
岡部は足軽の一人を呼んで、林の確認を命じた。
小半刻後、斥候が戻ってきた。
「人の気配があります。草が踏まれた跡が新しかった」
岡部の目が光った。
「読んだな」
俺を見て言った。
「では先に仕掛ける。伏兵を動けなくさせてから正面に当たる」
岡部は足軽十名を分けて、川沿いの林の後方に回らせた。林の中の伏兵を挟み込む形だ。俺もその十名に加わった。
泥の中を走った。
春雨の中、腰を落として林の外縁を迂回する。草が濡れていて、足元が滑る。胴丸が雨を吸って重くなっていた。右手の甲がかじかんでいる。しかし槍を握る感触だけは確かめながら走った。
林の後方に回り込んだとき、正面でどよめきが起きた。岡部の本隊が三田の正面軍と接触したのだ。
林の中が動いた。
伏兵が出ようとしている。
俺は隣の足軽に小声で言った。
「今だ。林の縁から声を上げろ。囲まれたと思わせる」
「声だけでいいか」
「いい。大きな声で」
全員で一斉に大声を上げた。
「囲んだぞ!」
「三田の者、逃げ場はない!」
林の中が動揺した。声と気配だけで、実際の囲みはできていない。しかしこの状況で後ろから声が来れば、伏兵は動けなくなる。前に出れば本隊と戦い、後ろを気にすれば前に出られない。どちらを選んでも不利だ。
少しの静寂が続いた。
林の中で声が飛んでいる。誰かが指示を出している。しかしその声に迷いがある。判断できていない。
そして林の中から、白旗ではなく逃げ足の音が聞こえた。川の向こうへ渡って撤退したのだ。
伏兵が消えた。
俺は息を吐いた。声だけで三十人を動けなくした。消耗ゼロで、側面の脅威を一つ消せた。
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しかし正面の戦いは、そう簡単にはいかなかった。
林から本隊に合流すると、すでに激戦になっていた。
雨の中、泥だらけの足軽たちが入り乱れて戦っている。叫び声、槍の激突音、金属の擦れる音。湿った土の匂いと、血の匂いが混じっていた。
前回の丘の戦とは規模が違う。
人が多すぎて、全体の状況が見えない。戦略眼を使っても、近距離の混戦では個々の動きまでは追えない。情報が多すぎて、かえって処理が追いつかない。
目の前の一人に集中するしかない。
三田の足軽が俺に突っ込んできた。槍を正面から突いてくる。城倉に習った構えで受けた。相手の槍の柄を自分の槍で外側に流し、踏み込んで穂先を腹に向ける。
男が叫んだ。
穂先が腹の脇に入った。深くはない。しかし男は槍を落として後退した。
次。
別の男が横から来た。刀を持っている。侍か。
俺は体を横に開いた。刀が空を切った。踏み込んで、槍の柄で顎を打った。男がぐらついた。追撃で穂先を肩に刺す。男が声を上げて倒れた。
考えてから動くのではなく、体が先に動いている。あの老人が言っていた。脳を通さずに体が動く。その感覚だ。
戦いの中で、最悪の場面に遭遇した。
竜之介が囲まれていた。
三田の足軽三人に囲まれ、槍を弾かれて後退している。顔が青い。体が縮こまっている。足元が泥で滑って、体勢が崩れていた。
俺は走った。
距離を詰めながら、三人の位置と竜之介の体勢を頭の中に描いた。三人は横並びではなく、一人が前、二人が斜め後ろに広がっている。前の一人を排除すれば竜之介に逃げ道ができる。後ろの二人を先に狙えば前の一人が振り向く。
後ろの一人の背中に穂先を突いた。
肋骨に当たる感触。骨が槍の抵抗になった。俺は力を入れて押し込んだ。男が前に倒れた。倒れながら声を上げ、そして動かなくなった。
胸に穂先が入ったと分かった。致命傷だ。
その事実が、一瞬だけ頭の中に広がった。俺が人を殺した。初めてではない、あの丘の戦で傷を負わせた者もいた。しかし今回は、倒れた男が動かなくなる様子を見た。命が消える瞬間を見た。
瞬時に頭から追い出した。
残り二人が俺を向いた。俺はすでに次の構えに入っていた。
一人が突いてくる。受けて流す。もう一人が側面から来る。体を回転させて後退しながら、槍を横薙ぎに振った。穂先が男の顔を掠った。男が顔を押さえてよろめく。
竜之介が立ち直っていた。
「今だ」
俺の声に、竜之介が突いた。よろめいていた男の胸に槍が入った。男が倒れた。
残り一人が逃げた。
俺と竜之介は向き合った。二人とも息が荒い。竜之介の手が震えていた。全身が雨と泥と汗でびしょ濡れだ。
「大丈夫か」
「……生きてます」
「よかった」
竜之介の目が、倒れた男の顔に向いていた。目の色が変わっていくのを見たのだろう。槍を突いた手を、竜之介は見ていた。
俺には言えることが何もなかった。
ただ肩を叩いた。
次が来る。止まれない。
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戦いは午後まで続いた。
雨は降り続け、泥の中を走り続けた。体力が限界に近づく頃、三田側が崩れ始めた。後退が始まり、それが全体に広がって、撤退になった。
桑田側の勝利だった。
俺は泥だらけで座り込んだ。
全身が痛い。右の脇腹を掠られた傷がある。矢ではなく刀傷だ。深くはないが、じくじくと痛む。右手の甲にも切り傷が走っていた。雨の中でも傷口から血が流れてくるのが分かった。
竜之介が隣に座った。無言だった。
周囲に、動かない体がいくつか見えた。桑田側にも死者が出た。名前を知っている顔が、三つあった。朝飯を一緒に食った顔だ。今朝、飯を食いながら何を話したか、もう覚えていない。
泥の上に横たわっている。
戦の後というのは、不思議な静けさがある。さっきまであれだけの音と動きがあったのに、今は春雨の音だけが聞こえる。
岡部が来た。
「橘、伏兵を退けたのはお前か」
「声を上げただけです」
「声だけで三十を動けなくした。知恵だ」
岡部は俺の脇腹の傷を見た。
「手当てをしろ。生き残った者は全員だ」
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夜、野営の火の前で傷の手当てをした。
脇腹の傷を自分で焼酎で洗った。沁みて声が漏れた。竜之介に麻布を巻いてもらった。
「橘殿も痛いんですね」
「当たり前だ」
「痛みで声が出るんですね」
「出る」
竜之介は少し笑った。緊張が少しほぐれた笑い方だった。
「俺、今日二人やりました。一人は橘殿が引きつけてくれた時で、もう一人は自分で」
「そうか」
「まだ震えが止まりません」
「震えていていい」
俺は自分の手を見た。右手の甲に麻布を巻いた手だ。この手で今日、人を殺した。
前回より、感覚がある。
慣れていないからではない。慣れてきたからこそ、今日刺した男の手応えが手のひらに残っている。指の力を緩めても、その感触は消えなかった。
「橘殿は震えないんですか」
「震えている。見えないだけだ」
竜之介は火を見た。
「強くなれれば、震えなくなりますか」
「分からない。城倉先生に聞いてみろ」
「聞けますか、そんなこと」
「聞いてみる価値はある」
火が揺れた。
今日死んだ三人の顔が、また頭に浮かんだ。
その顔を、俺は覚えておくことにした。
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雨はまだ降り続けていた。
春の雨は冷たい。火に当たっても体の芯まで温まらない。それでも火の前にいれば、少しは生きている気がした。
竜之介がいつの間にか眠っていた。火を前に座ったまま、ぐったりと首が落ちている。
俺はその隣で、夜が明けるのをただ待った。




