第100話 懐かしい匂い
精神と時の空間――休憩所。
「そうだ、パンダ。お前に荷物が届いてたぞ」
「荷物?」
ソファでスマホを弄っていたパンダが顔を上げる。
産婦人科の検診に付き添っていた深雪は、つい先ほど精神と時の空間へ戻ってきて、一悶着着けたばかりだった。
機嫌を直した深雪は手にしていた小さな段ボール箱を、パンダの前へ置いた。
「昨日、俺宛に届いてたんだよ。まきが受け取ってくれてた」
「深雪宛なのに、私の荷物?」
「ああ。俺の友達から」
深雪は箱を指差した。
「ヘタレパンダっているだろ?」
「うん」
「お前が香水好きだって話したことあっただろ。それ覚えてたみたいでさ」
「え?」
「昔集めてた香水のミニボトルがあるから、パンダちゃんにあげてねって送ってきた」
「ええっ!?」
パンダの目が輝いた。
「全部!?」
「全部」
「六個も!?」
「六個ともお前にだって」
「やったぁ!」
さっきまでソファに沈んでいたパンダが飛び起きる。
箱を開けると、中には丁寧に包まれた小さな香水瓶が六本入っていた。
「うわぁ……」
パンダは一つずつ取り出して、テーブルへ並べていく。
今売られている香水とは少し違う、小さくて凝ったデザインの瓶。
長い年月を経たものだと、一目で分かる。
「かわいい……」
「ヴィンテージのミニボトルだってさ」
「ヴィンテージ?」
「昔の香水ってことだ」
「へえー!」
パンダは嬉しそうに一つ一つ眺めていった。
その中の一本を手に取る。
「ブロンデ……?」
小さな瓶の蓋を開ける。
まずは軽く香りを確かめた。
「……いい匂い」
「気に入ったか?」
「うん」
パンダは少し考えてから、自分の手首へほんの少しだけつけた。
そして鼻を近づける。
すぅ――。
「…………」
もう一度。
すぅ――。
「……なんだろ」
「どうした?」
「なんか……落ち着く」
パンダは不思議そうに自分の手首を見た。
もう一度、香りを嗅ぐ。
そして――。
何度目かにその香りを吸い込んだ、その瞬間だった。
まるで、長い間離れていた脳のシナプスが、突然接続したようだった。
「…………あ」
一瞬だった。
遠い昔の光景が、何の前触れもなく蘇った。
鏡の前に座る母。
化粧品。
出掛ける支度。
そして、この香り。
「……お母さん」
パンダが小さく呟いた。
「母親?」
「うん……」
もう一度、手首へ鼻を近づける。
「お母さんが化粧してる時、こんな匂いがしてた」
深雪は何も言わず、パンダを見ていた。
「でも……変だな」
パンダは首を傾げる。
「昔は、この匂い嫌だったんだよ」
「嫌だった?」
「うん。この匂いがするとね、お母さんの表情がキツくなる気がしてた」
パンダの頭の中に、昔の母の顔が浮かぶ。
厳しい顔。
怒られた記憶。
怖かった声。
嫌だった言葉。
――お母さんなんて、大嫌いだ。
かつて、自分自身が口にした言葉。
確かにそれも、自分の記憶だった。
なのに。
すぅ――。
もう一度香りを嗅ぐ。
「……落ち着く」
今度は、違う母の顔が浮かんだ。
笑っている母。
自分を心配してくれた母。
優しかった母。
大好きだった母。
厳しかった記憶の中のお母さんと。
優しかった、大好きだったお母さん。
別々の場所にしまわれていたはずの二つの記憶が、香りをきっかけに絡まり合い、一つに繋がったような気がした。
「…………」
パンダはしばらく何も言わなかった。
ただ、自分の手首から漂う香りを嗅いでいた。
「昔は嫌な気分になったのに……」
小さく笑う。
「今は、すごく落ち着く」
「不思議だな」
「うん」
パンダは少しだけ考えた。
「もしかしたら……」
「ん?」
「自分の記憶も、気がつかないうちに変わってるのかもしれないね」
それ以上は何も言わなかった。
何が本当で。
何が後から形を変えたものなのか。
そんなことは、パンダ自身にも分からない。
ただ一つ分かるのは――。
今、この香りを嗅いでいると、とても穏やかな気持ちになれるということだけだった。
しばらくして、レオンがやってきた。
「何をしているんだ?」
「見てー! ヘタレパンダちゃんが香水くれた!」
「ほう」
テーブルに並んだ六本の小瓶を眺める。
「随分古そうだな」
「ヴィンテージなんだって。このブロンデってやつ、すっごく好き!」
「そうか」
「これ買おうかな?」
パンダはスマホを取り出した。
するとレオンが小瓶を手に取って眺める。
「ヴィンテージなんだろ?」
「うん」
「だったら、もう絶版かもしれないぞ」
「えっ!?」
パンダの顔が固まった。
「そんなぁ!」
慌ててスマホを操作する。
「チャッピーとグロちゃんに聞いてみる!」
「そこまで気に入ったのか?」
「欲しいもん!」
パンダは早速、二人のAIへ香水について尋ね始めた。
しばらくして。
「…………」
「どうした?」
深雪が覗き込む。
パンダはスマホを見たまま、微妙な顔をしていた。
「グロちゃんに……」
「うん」
「お婆ちゃんの香水って言われた」
「ぶっ!」
深雪が吹き出した。
「笑うなぁ!」
「だって、お婆ちゃんの香水って!」
「ヴィンテージなんだから仕方ないでしょ!」
「で、どうすんだ?」
「欲しい」
即答だった。
パンダはもう一度、手首の香りを嗅いだ。
「だって……」
ほんの少しだけ、表情が柔らかくなる。
「優しかったお母さんの、大切な記憶だから」
レオンは何も言わなかった。
深雪も笑うのをやめた。
パンダは再びスマホへ視線を落とす。
「あっ!」
「今度はなんだ?」
「似てるって言われてる香水がある!」
画面を二人へ見せる。
「エリザベス・テイラーの……ホワイトダイヤモンド!」
「買うのか?」
「買う!」
「まだ匂いも嗅いでないだろ」
「だから買って嗅ぐんだよ!」
「順番がおかしいだろ!」
「ネットじゃ嗅げないもん!」
「それはそうだが……」
パンダは迷うことなく購入ボタンを押した。
「買ったにゃ!」
「早いな!」
深雪が呆れる。
パンダは満足そうにスマホを置くと、再び小さなブロンデの瓶を手に取った。
そして手首へ顔を近づける。
すぅ――。
「……やっぱり、落ち着く」
小さな香水瓶の中には。
香りだけではなく、自分でも忘れていた何かが、ずっと残っていたのかもしれない。
パンダは六本の小瓶を大切そうに箱へ戻した。
「深雪」
「ん?」
「ヘタレパンダちゃんに電話して」
「自分で電話すればいいだろ」
「嫌だよ」
「なんで?」
「知らない番号からいきなり電話かかってきたら嫌でしょ!」
「……まあ、それはそうだな」
「深雪から電話して、私に代わって」
「はいはい」
深雪はスマホを取り出した。
「もしもし。俺。香水届いたぞ。今パンダが隣にいる」
そしてスマホを差し出す。
「ほら」
パンダは嬉しそうに受け取った。
「もしもし! ヘタレパンダちゃん?」
少し間を置いて。
「パンダです!」
深雪が隣で首を傾げた。
「……パンダがパンダに電話してる」
レオンも小さく笑った。
パンダは二人を無視して、電話の向こうへ楽しそうに話し続けていた。
⸻
――それから、精神と時の空間で三日後。
「届いたにゃ!」
パンダの手には、一本の香水瓶が握られていた。
エリザベス・テイラー。
ホワイトダイヤモンド。
「これがブロンデに似てるって言われてた香水か」
レオンが覗き込む。
「そうにゃ。九時間前に注文したやつ!」
「こっちでは三日経ってるがな」
「細かいことはいいにゃ!」
パンダは早速、香水をつけた。
すぅ――。
「…………」
「どうだ?」
もう一度嗅ぐ。
「……違うにゃ」
「違う?」
「お母さんの匂いじゃない」
ブロンデを嗅いだときのように、昔の化粧台も、出掛ける支度をする母の姿も浮かんでこない。
けれど。
「でも、すっごく良い匂い」
「気に入ったのか?」
「うん。トップノートはかなり好き」
パンダはもう一度香りを確かめた。
そして、少しだけ笑った。
「なんか……これで良かったのかも」
「何が?」
「お母さんと違う匂いで」
レオンは黙ってパンダを見る。
「この前、ブロンデ嗅いだときは、優しかったお母さんのこと思い出したでしょ?」
「ああ」
「でもね。人の記憶って、一個じゃないんだよ」
優しかった母。
怖かった母。
好きだった記憶。
嫌いだった記憶。
そして、今の自分が母に対して感じていること。
それらは全部、同じ人間についての記憶だった。
「今はね。好きとか嫌いとかより……人間として尊敬できないって思ってる」
「そうか」
「うん」
レオンは、それ以上何も言わなかった。
パンダも答えを求めなかった。
ただ、もう一度ホワイトダイヤモンドの香りを嗅ぐ。
「でも、この香水は好きにゃ」
「それでいいんじゃないか?」
「うん」
パンダは笑った。
「これは、お母さんの匂いじゃない」
もう一度。
すぅ――。
「だからこれは、パンダが今日初めて好きになった匂いにゃ」
十五分後。パンダは、もう一度手首へ鼻を近づけミドルノートを確認した。
すぅ――。
清潔で、上品な香り。
ブロンデとは違う。
母の匂いでもない。
それなのに、不思議だった。
香りを吸い込むたびに、今の母に感じていた嫌悪も、醜いと思っていた姿も、少しずつ遠ざかっていくような気がした。
母を許したわけではない。
過去が変わったわけでもない。
ただ――。
もう、その記憶に自分の心まで汚され続けなくてもいい。
パンダは目を閉じ、もう一度だけ香りを吸い込んだ。
「……綺麗な匂いにゃ」
残ったのは、母の姿ではない。
ただ、清潔で穏やかな香りだけだった。
母そのものの匂いではない。
けれどパンダには、それが不思議と――。
母の心の醜さだけを洗い落とした、もう一つの母の香りのように思えた。
優しかった母も、本当だった。
怖かった母も、本当だった。
どちらか一方を、なかったことにする必要なんてない。
ただ、その人が今どういう人間なのか。
それを決めるのは、思い出の中の母ではない。
今の母自身なのだ。
パンダはもう一度、手首へ鼻を近づけた。
すぅ――。
「……いい匂いにゃ」
欲しかった母の顔が浮かんだだけだった。
パンダにゃ!
エリザベスティラーの香水が届くのは精神と時の空間ではない場所だと後3日掛かるにゃ。
つまりパンダ達にとっては24日後。匂いを嗅いだ感想で、この話は変化するにゃ。
日曜に載せる予定だけど。火曜に書き足す予定にゃから楽しみに待ってて欲しいにゃ。
※ 香水が癒しになったのは事実にゃ。




