第93話 世界で初めて
翌日。
精神と時の空間・第二実験場。
広い実験場の中央には、強固な結界が幾重にも張られていた。
その内側では、捕獲された十二体のダークスライムが、黒い瘴気を撒き散らしながら激しく蠢いている。
実験に参加するのは、パンダ、レオン、五十嵐薫、ポルガン、高橋、深雪。
さらに、ランスロット、ミカエラ、ユリウスも、新しい魔法の行方を見届けるために立ち会っていた。
深雪は少し離れた場所へカメラを設置し、何度も角度を確認している。
「こっちのカメラで全体を撮って、俺が持ってる方で表情を押さえる。高橋さん、魔獣たちは結界の外で待機させてください。」
「分かりました。」
高橋が振り返ると、七体の魔獣は素直にその場へ伏せた。
時折、結界の中のダークスライムを気にするように鼻を鳴らしている。
ポルガンは一体のダークスライムへ意識を集中させた。
普段なら、動物や知性のある魔獣の声は、言葉としてはっきり聞き取れる。
しかし、ダークスライムから流れ込んでくるのは、耳を塞ぎたくなるほど激しい感情ばかりだった。
「……駄目だ。」
「話せないのかにゃ?」
パンダが尋ねる。
「ああ。声になっていない。」
ポルガンは苦しそうに眉を寄せた。
「痛い、苦しい、怖い……そんな感情だけが、頭の中へ流れ込んでくる。」
高橋もダークスライムを見つめる。
「僕にも強い感情だけなら伝わります。怯えているのは間違いありません。」
ランスロットが腕を組み、険しい顔でダークスライムを見据えた。
「やはり危険ではないか?」
「魔物を癒やすなど、前代未聞じゃ。」
「暴れた場合は、僕が即座に浄化します。」
レオンは結界の前へ立った。
「何が起きても、ここから外へは出しません。」
パンダはレオンの袖を軽く引いた。
「でも、なるべく消さないでほしいにゃ。」
「ああ。」
レオンは短く答えた。
「僕も、成功してほしいと思っている。」
五十嵐が一歩前へ出る。
昨日の夜から何度も組み直した、複雑な魔法陣が足元へ広がった。
淡い金色の線が幾重にも重なり、花びらのような模様を作り上げていく。
「一応、形にはした。」
五十嵐は右手をダークスライムへ向けた。
「ただし、実際の魔物に使うのは初めてだ。俺にも、何が起きるか分からない。」
「やってみるにゃ。」
パンダが力強く頷く。
「失敗したら、また考えればいいにゃ。」
「簡単に言ってくれるな。」
五十嵐は小さく笑い、静かに息を整えた。
「始めるぞ。」
深雪がカメラを構える。
「撮影、回ってます!」
五十嵐の足元から、柔らかな光が溢れ出した。
「――Healing Radiance」
「ヒーリング・レイディアンス!」
癒やしの輝きが、十二体のダークスライムを包み込む。
攻撃魔法でも、浄化魔法でもない。
傷付いた心へ寄り添うために作られた、全く新しい魔法。
誰もが息を止め、その結果を見守った。
ダークスライムを覆っていた黒い瘴気が、一瞬だけ薄くなる。
しかし――。
「ギィィィィッ!」
ダークスライムたちは苦しそうに身体を震わせ、激しく結界へ体当たりを始めた。
薄くなった瘴気も、瞬く間に元へ戻ってしまう。
「下がってください!」
レオンが右手を上げる。
その掌に、浄化の光が集まり始めた。
「待ってにゃ!」
パンダがレオンの前へ飛び出す。
レオンは光を消し、暴れるダークスライムを見つめた。
「……やはり駄目か。」
五十嵐も魔法を止め、悔しそうに拳を握った。
「魔法の構成が間違っていたのか?」
「いや。」
レオンが首を横へ振る。
「僅かだが、瘴気は薄くなった。魔法そのものが完全に失敗したわけではない。」
「だったら、何が足りない?」
五十嵐の問いに、パンダはダークスライムたちをじっと見つめた。
苦しんでいる。
怯えている。
そして――ひどく飢えているように見えた。
「諦めるのは、まだ早いにゃ。」
パンダは四次元ポシェットへ両手を突っ込んだ。
「五十嵐さんの癒やしの魔法だけじゃ、足りなかったんだにゃ。」
「何をするつもりだ?」
「日本の食べ物を、まだ食べさせてないにゃ!」
パンダが最初に取り出したのは、コンビニのおにぎりだった。
「鮭おにぎりにゃ!」
包装されたまま、結界の中へ投げ込む。
一体のダークスライムがおにぎりへ飛び付き、身体の中へ包み込んだ。
ビニールの包装ごと食べている。
深雪がカメラを向けながら呟いた。
「意外に賢いな。」
レオンも感心したように見ている。
「次はメロンパンにゃ!」
「唐揚げにゃ!」
「たまごサンドにゃ!」
「プリンも食べるにゃ!」
パンダは四次元ポシェットから次々と商品を取り出し、結界の中へ投げ込んでいく。
ダークスライムたちは最初こそ警戒していたものの、一体が美味しそうに食べ始めると、我先にと食べ物へ群がった。
黒い身体の中へ、おにぎりやパンが次々と消えていく。
高橋が目を細めた。
「嬉しいという感情が伝わってきます。」
「さっきより、怖がっていない。」
ポルガンも頷く。
「まだ言葉は聞こえないが、苦しみが少し薄くなってきた。」
「もっと食べるにゃ!」
パンダが勢いよく、もう一つ取り出した。
銀色の缶が空中を弧を描く。
深雪の目が大きく見開かれた。
「あっ……!」
缶ビールが、ダークスライムの群れの真ん中へ落ちた。
一体のダークスライムが缶を丸ごと身体へ取り込む。
直後――。
プシュッ!
黒い身体の中で缶が開き、白い泡が勢いよく噴き出した。
「俺のビールがあぁぁぁぁぁ!!」
深雪の絶叫が実験場に響き渡る。
レオンは冷静に訂正した。
「僕のだ。」
「いつも俺にくれるだろ!」
「今日はまだ、あげるとは言っていない。」
「レオンがいつもビールくれるから悪いんだ!」
「人のせいにするな。」
深雪が結界へ駆け寄ろうとする。
レオンが首根っこを掴み、簡単に引き戻した。
「放せ! まだ間に合うかもしれない!」
「もう飲まれている。」
缶ビールを取り込んだダークスライムは、嬉しそうに身体を揺らしていた。
黒い身体の中で、泡がぷくぷくと弾けている。
パンダは深雪の腹へ視線を落とした。
「また、お腹出てきてるにゃー。」
「ビール飲み過ぎにゃ。」
深雪は慌てて腹を引っ込めた。
「レオンがビールくれるから悪いんだ!」
「また僕のせいにするのか。」
「じゃあ、もうあげない。」
「それはないよ!」
張り詰めていた実験場に笑いが広がった。
ダークスライムたちも、人々の笑い声に合わせるように、ぷるぷると身体を揺らしている。
ポルガンが驚いたように目を見開いた。
「待ってくれ。」
「どうしたにゃ?」
「この子たちも……楽しいと感じている。」
高橋も頷いた。
「はい。嬉しい。美味しい。もっと欲しい……そんな強い感情が伝わってきます。」
パンダは五十嵐を振り返った。
「五十嵐さん。」
「ああ。」
五十嵐も、既に魔法陣の中央へ戻っていた。
「もう一度、魔法をかけてみてくれるかにゃ?」
「もちろんだ。」
五十嵐は両手を広げる。
先ほどよりも穏やかに。
食事を楽しむダークスライムたちを驚かせないよう、少しずつ魔力を高めていく。
「――Healing Radiance」
金色の光が、再び十二体を包み込んだ。
今度は、ダークスライムたちは暴れなかった。
食べ物を抱え込んだまま、柔らかな光を静かに受け入れている。
「効いている……。」
レオンが呟く。
黒い瘴気が、少しずつ身体から剝がれ落ちていく。
漆黒だった身体が、薄い灰色へ変わった。
さらに光が強まる。
灰色が白へ。
白が、透き通るような透明へ。
十二体のダークスライムは、まるで水晶で作られたような美しい姿へ変わっていった。
身体の中心には、淡い金色の光が宿っている。
「成功した……!」
深雪がカメラを構えたまま叫んだ。
「全部、透明になったぞ!」
透明なスライムたちは、もう結界へ体当たりをしなかった。
穏やかに跳ねながら、パンダや五十嵐のいる方向へ集まってくる。
パンダは満面の笑みを浮かべた。
「ポルガン!」
「ああ。」
ポルガンは一体のスライムの前へしゃがみ込んだ。
「今度は話せるかもしれない。」
そっと手を差し出す。
透明なスライムは、その掌へ身体を擦り寄せた。
ポルガンは目を閉じ、耳を澄ませる。
しばらくして、肩が小さく震え始めた。
「……聞こえる。」
「何と言っておる?」
ランスロットが尋ねる。
ポルガンは目を開いた。
その瞳には、涙が浮かんでいる。
「ありがとう……と。」
「お腹がいっぱいになった。」
「温かい。」
「もう、苦しくない……と言っている。」
パンダが透明なスライムの頭を撫でる。
スライムは嬉しそうに身体を揺らした。
しかし、ポルガンの表情は晴れなかった。
「まだ、何か言っている。」
「何だ?」
レオンが尋ねる。
ポルガンの頬を涙が伝った。
「白い光が来るたびに……仲間が消えていった。」
実験場から、全ての音が消えた。
「皆、怖がっていた。」
「逃げたくても逃げられなかった。」
「助けてと叫んでも、誰にも声が届かなかった。」
透明なスライムたちが、ポルガンの足元へ集まってくる。
「この子たちは、僕たちの浄化魔法を知っていたんだ。」
「白い光を……死の光だと思っていた。」
レオンは自分の右手を見つめた。
つい昨日、その手で十二体のダークスライムを消滅させた。
それ以前にも、数え切れないほどの闇の魔物を浄化してきた。
「僕は……。」
レオンの声が掠れた。
「救っているつもりだった。」
「闇に苦しむ生き物を、楽にしているのだと。」
「だが僕は……救えたかもしれない命まで、消していたのか。」
パンダはレオンの手を握った。
「レオンは悪くないにゃ。」
「だが――。」
「知らなかっただけにゃ。」
パンダは真っ直ぐレオンを見上げる。
「知らなかった方法を、今日みんなで見つけたにゃ。」
「これから救えばいいにゃ。」
「今までのことを後悔して立ち止まるより、これから一体でも多く助ける方が、レオンらしいにゃ。」
レオンはしばらく黙った後、パンダの手を強く握り返した。
「ああ。」
「そうだな。」
「これからは、可能な限り癒やす方法を試す。」
「すぐに浄化することは、もうしない。」
五十嵐は透明になったスライムたちを眺め、口元を上げた。
「面白ぇ。」
全員が五十嵐を見る。
「つまり俺は、世界で初めて――」
五十嵐の足元で、金色の魔法陣が静かに輝いている。
「魔物を救う魔法を作っちまったのか。」
「五十嵐さん、凄いにゃ!」
「発想を出したのは、お前だろ。」
「魔法にしたのは五十嵐さんにゃ。」
「だったら、二人で作った魔法だな。」
透明なスライムたちが、祝福するように五十嵐の周りを跳ね回った。
ポルガンはそのうちの一体へ、もう一度耳を傾ける。
「……何だって?」
「どうしたのじゃ?」
ランスロットが身を乗り出す。
ポルガンはゆっくりと立ち上がった。
「この子たちが、聞いている。」
「僕たちは……生きていてもいいのか、と。」
ランスロットは目を見開いた。
過去に自分が消滅させてきた魔物たちを思い出したのか、唇を強く噛み締める。
やがて、透明なスライムたちの前へ歩み出た。
「当たり前じゃ。」
ランスロットは、その場に膝をついた。
「お主らは、何も悪いことをしておらぬ。」
「苦しみのあまり、己を制御できなかっただけじゃ。」
透明なスライムが、ランスロットの膝へ身体を擦り寄せる。
「今日から、お主らも魔王国の民じゃ。」
「我が名、ランスロットに懸けて、お主らの命と暮らしを守ろう。」
ミカエラも隣へしゃがみ、スライムを撫でた。
「歓迎するわ。」
「これからは、たくさん美味しい物を食べましょうね。」
ユリウスが穏やかに微笑む。
「新しい国民のために、住む場所も考えねばならぬの。」
透明なスライムたちが、一斉に嬉しそうに跳ねた。
深雪はカメラを向けたまま、目元を手の甲で拭う。
「ちゃんと撮れてるよな……。」
「この映像、絶対に消すなよ、俺。」
「自分で言ってどうするにゃ。」
「泣いてて頭が回んねぇんだよ!」
高橋も目を潤ませながら、透明なスライムたちから伝わる喜びを感じ取っていた。
「凄い……。」
「さっきまでとは、全く違う。」
「嬉しいという感情が、こんなに強く伝わってくるなんて。」
ポルガンは高橋を見つめた。
少し考えた後、胸元に着けていたネックレスを外す。
スワロフスキーがふんだんに散りばめられた、美しいネックレス。
中央には、淡い青色の魔石が埋め込まれている。
「高橋。」
「はい?」
「これを受け取ってくれ。」
高橋は差し出されたネックレスを見て、慌てて両手を振った。
「いえ、そんな高価そうな物、いただけません!」
「君に使ってほしいんだ。」
ポルガンはネックレスを高橋の手へ載せた。
「地球人が作った人造ダイヤモンドに、俺が魔力を込めた物だ。」
「これを身に着ければ、今までよりも動物や魔獣の感情を、はっきり感じ取れるようになる。」
高橋は中央の魔石を見つめる。
魔石は、高橋の手の中で呼吸するように明滅していた。
「これを使いこなせそうな奴が、俺以外に現れるとは思わなかった。」
ポルガンは穏やかに笑った。
「高橋。」
「君は、この能力に関しては俺よりセンスがいいかもしれないな。」
「ポルガン様……。」
「高橋でいい。」
「同じ力を持つ仲間だろ?」
高橋は大切そうにネックレスを握り締め、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。」
「必ず、この力で魔獣たちを助けます。」
「ああ。頼んだよ。」
高橋がネックレスを身に着けた瞬間、結界の外で待っていた七体の魔獣の感情が、これまで以上にはっきりと伝わってきた。
高橋は驚いて魔獣たちを振り返る。
「……皆、僕のことを心配して待っていたんですね。」
七体の魔獣が、一斉に嬉しそうな声を上げた。
透明なスライムたちも、高橋の足元へ集まってくる。
パンダはその光景を見渡し、満足そうに両手を腰へ当てた。
「日本の食べ物と、異世界の魔法。」
「両方があったから、この子たちは助かったにゃ。」
レオンが頷く。
「どちらか一つだけでは、成功しなかった。」
五十嵐も金色の魔法陣を見下ろす。
「魔法だけで何でも解決できるわけじゃないってことか。」
「そういうことにゃ。」
パンダは透明なスライムを抱き上げた。
スライムは、ぷるんと嬉しそうに揺れる。
「異世界日本化計画。」
「また一歩、前進にゃ。」
パンダの奴、レオンのビールをスライムの餌にするなんて!
まったくぷんぷんだぜ!
深雪
あれ、やっぱり僕のビールだよなぁ?
深雪、なにか間違えてるんじゃないのか?
お前の物は俺の物って奴か?
レオン




