愛していた
ピグトニャの感情が流れ込んでくる。怒り、悲しみ、苦しみ、憤り、憎しみ、不満、などなど、ありとあらゆる負の感情を煮詰めて煮詰めて一塊にしたような、強い感情。
「ソメヤ……大丈夫か……?」
彼の話によれば、感情を与えているときは、自分もほとんどそれに同化しなければならないという。そんな中、私の心配をするなんて、あまりにも……優しすぎる。
「……それ、こっちのセリフ……」
ヴェーラに対する私の感情が、彼の感情で上書きされていく。生の感情そのもの、どろどろの汚泥が体内に満たされていくような感覚に加え、おそらくは今まで彼が内心で考え、秘めてきた悪口が、頭の中に流れ込む。自分の意思とは無関係に、眉間に皺が寄り、目を押し出すほどの圧力をかけてしまう、そんな強い感情。
──殺す殺す殺す殺す殺す。何がなんでも殺してやる。恩知らずの穀潰し。不幸しか運ばない悪魔が。死んでしまえ。死ね。早く死んでくれ。どこかに出ていってくれ。姉さんの邪魔をするな。俺たちの邪魔をするな。邪魔するな邪魔するな邪魔するな……ユーシャのことも。お前が出しゃばったから……お前が出しゃばったからだったんだな。殺してやる。ユーシャの分霊と幸せになんて、事実も知らずに呑気なことだ。姉さん、ユーシャ、オリバー、ソメヤにも、迷惑しかかけなかったくせに。早く追い出されて、愛する者に嫌われた絶望だけを友として、霊界の狭間に囚われたらいい。早くそうなってくれ。死んでくれ。お願いだから幸せになんかならないでくれ。惨めに死ね。できるだけ不幸になってくれ。苛々する。苛々する。苛々する……。
これを受けたのがあるいはチェレーゼだったら、打ち返すことができたかもしれない。ヴェーラへの強い愛情によって、その全てに反論できたかもしれない。しかし……私の心は、弱かった。そのことに、今は感謝するしかない。
──憎い。憎い。憎たらしい。おまえの代わりに姉さんが苦しみを引き受けただと? おまえなんかの代わりに、飢え、殴られ、悪口を浴び、犯されたのか? 姉さんが? どうして? どうしておまえの代わりに姉さんが、母さんから殴られなきゃならなかった? 父さんから犯されなきゃならなかった? 家でも外でも怯え続け、子供たちだけで身を守らなきゃならなかった? 泥水を啜り、屍肉を喰らわなきゃならなかった? どうしてどうしてどうしてどうしてどうして。その苦痛を全部押し付けたのに、『自分がチェレーゼになるはずだった』? 何を言っているのか意味がわからない。最低最悪のゴミクズ以下の人格だ。死んだほうがいい。許せない。許せない。許せない。許さない。
私の心も、徐々に憎しみで染まっていく。許せない……ヴェーラを許せない。ユーシャの分霊と永久追放なんて、あまりに優しすぎたかもしれない。もっと……精神を破壊する前提の策を、もっと……練るべきだったかもしれない。こんなに非情で自己中心的な人間が、他にいるだろうか? チェレーゼの愛も受け入れず……傲慢で不遜。死んだほうがいい。いいや、もっとだ。もっと、そう、生まれてこないほうが──
──ここで、思考に待ったがかかった。それは、おそらくピグトニャが紛れさせてしまった、ひとひらの感情……。
チェレーゼを産んだことに対する、感謝。
彼女が全てを引き受けていたら、チェレーゼは生まれていなかった。あの子はこの世にいなかった。幼い幼い子供が作り出した第二の人格、それがチェレーゼ、私たちの大好きなチェレーゼ。
それでもダメだ。憎しみは消えない。産んでくれたら、それだけで、罪がなくなるわけじゃない。当然のことだ。何よりもチェレーゼを苦しませ、オリバーを利用して苦しませ、ピグトニャを苦しませ、私も苦労させられた。許す道理はひとつもない。
恨まなければならない。
ぱちん、とスイッチが入ったときのように、あるいはパズルのピースがはまったときのように、私の感情は塗り替えられた。今や、ヴェーラに同情や親愛は湧いてこない。拘束している間、気晴らしにとしてみた雑談を思い出してみると……嫌悪感が走る。どうしてあんな人間と、仲良くしようとしていたのだろう。勿論これは、天啓によって作られた感情だ。仲良くしようとしていた私が、本物だ。理屈は理解しているが……心がヴェーラを完全に拒否している。考えたくもない……一刻も早くあのカスのことを忘れ、日常に帰りたい。
「……うまくいったみたい」
「……そうか」
ピグトニャは、私たちを見守っていた、チェレーゼの方へと振り向く。
「……もう一度聞くけど、姉さんはやらない?」
「……ごめんなさい。それだけはしたくありません。ヴェーラは私の存在意義でした。私は彼女を……愛していた。あの子も昔は、優しかったんですよ。私を労ってくれました……。でも、そう……過去形です。今は……もっと、愛すべき人たちがいますから。未来に進まなければ。……そうは思ってるんですが、上書きはしたくないんです。理屈で言えば、嫌いになった方が安全だと、わかっています。それでも……。どうか、愛を過去形にするだけで……許しては、くれませんか?」
チェレーゼは、膝を抱え込んだ。ピグトニャはそこに寄り添った。
「無理強いはしないよ……それは姉さんの、大事な感情だから。大切にしてほしい」
「……ありがとう、ピグトニャ」
今ならばわかる。彼がどれほど、ヴェーラが現れてから今まで、耐えに耐えに耐えてきたのか。本当は今だって、姉さんだって恨んでいいはずだ、どうしてあんなやつ愛せるんだ、そう叫びたくてたまらないはずなのに。彼がここまで耐えているなら……私も、耐えなければならないだろう。
「チェレーゼ。実は、渡したいものがあって」
「なんですか?」
私はポータルから、封の開いた手紙を取り出す。『愛しのチェレーゼへ』と書かれた、ユーシャ・リリヴェージュからの預かり物。
「ごめんね、ヴェーラがいたときに預かったから、念のためってことで、中身は見ちゃった。感情を刺激しそうだったから……今日まで、預かってた」
「この文字……ユーシャからですか?」
「うん。緊急性はないから、ゆっくり読んでもらって大丈夫……ただ、ひとつだけ。さっき会ったユーシャの分霊から……伝言があって」
「……なんでしょう」
チェレーゼは、何年も眠っている親友からの、時を超えた手紙を受け取り、かすかに手を振るわせている。緊張が伝わってくる……。私は、まんまと幸せをつかんだヴェーラへの嫌悪感や苛立ち、怒りを感じながらも、それを努めて押さえながら、ユーシャへの責務を果たすべく、口を開いた。
「……『愛している』って書いたのを、『愛していた』、に訂正させてほしいって。ヴェーラのことを知りたいから……、知った結果、未来にどうなるかは、わからないから。だってさ」




