敗北者は幸い
ピグトニャが両手を差し伸べるその様子は、牢の中のチェレーゼが、彼に謝ったあの日を想起させる。
『愛されたいって……本当は思ってるんでしょう? ごめんね……親代わりになれなくて』
『至らない姉でごめんなさい、ピグトニャ……』
全部全部どうしようもなかったことじゃないか。あなたたちが背負い込むことなんかない。部外者の私はそう叫びたくなるけれど、当事者からしたらそうもいかない、人生という時間の重さ。膨大すぎる選択肢から、最適を選べなかった後悔。あるいは、最適な選択肢なんて、なかったのかもしれないのに……ハズレクジしか入っていない、ひっくり返しても豪華な賞は当たらない、みじめな抽選箱。それでも人は後悔し続ける。「あのときあっちを選んでいれば」、と。
けれど、その葛藤自体は無駄ではないのだ。この葛藤、悶えが、どうにか伝わっていることもある。
「……逆だろ、逆……ピグトニャだけが……ずっと俺を見てくれてただろッ……」
「……そうか?」
「そうだよボケ……! ふざけんな! 謝るな! 謝るな……! なんならもっと怒れよ! 俺、おまえを殺しかけたこともあんのにッ……」
「それも……俺は怒ってない! ガキの頃のアレだろ? おまえ、8歳だったじゃないか。8歳! 気にしなくていい、どうでもいい! たかが左足の小指……! それより、オリバーの気持ちの、その手がかりになるなら安いものだと……本気で思って……あっ?」
ピグトニャが急に体勢を崩す。その手を取り上げて宙に浮かんでいたオリバーの手が、彼の背や頭を支える方へ向かう。私も慌てて彼の顔色をのぞいた。彼の水色の瞳が、まるで眩暈のしている人みたいに震えている。
「声が……する……」
「声?」
「静かに……しててくれ……」
私たちは口を閉じた。すると、テレパシーが脳に響くのがわかった。
[転送する……誰か、念の為メモを……]
「私取るよ」
[ありがとう……ちょっと、集中してくる……もう一度……]
ピグトニャはそっと目を閉じた。彫刻のように整った顔立ちが、時々ぴくぴくと痙攣する。その度に、私たちの脳には、声が……彼の声ではなく、天啓を持つものなら誰しも聞き覚えのある声……唯一の主の声が響いていた。不思議なことだ。普通……テレパシーは、送信者の声で聞こえてくるものなのに。
──敗北者よ、あなたは幸いである。天の国はあなたたちのものである。
──奪われ、人目につかず、認められず、悪口を浴びるあなたは幸いである。
──喜びなさい。大いに喜びなさい。喪失を喜びなさい。その報いを、あなたはすでに受けている……受け続けているのだから。
私はスマホで慌ててメモを取る。フリックも速くてよかった。これは……ほとんど、ピグトニャの天啓そのままだ。多少アレンジが加えられてはいるが。
「俺の……天啓は……まだ完成していなかった……?」
──もっと喜びなさい。
「でも、もう奪われる必要はないって……」
──もう奪われる必要はない。しかし、過去に思いを馳せることはできる。
「過去に……」
──左足の小指だけでない。忘れてしまったのか? 何を奪われてもいいようにと、常に煌びやかな装飾を身に纏わせてくれた、周囲の者の献身を。思惑通りそれらを失うたびに、失われるために身につけた品のはずなのに、悲しみ悶えた自分自身を。ある日、その努力虚しく片方の腎臓を失っていたと知ったとき……大いに喜んでしまったことを。いいや、忘れてなどいない。
「……覚えてる……悲しかった……ユーシャのくれたブレスレット……家族写真を入れたロケット……姉さんが開けてくれた、初めてのピアスも……色んな事情で<ルーザー>が強制発動するたびに……俺は……」
彼は天井を……いいや、天を見つめて語り続ける。彼の左の手が、天へよろよろと伸びてゆく。
「でも、自分のものを……爪……親知らず……指……腎臓……いつかこんなもんじゃない、取り返しのつかないものが奪われると思ってたのに……それでも自分のものを失ったときはいつも……」
そこで初めて、私は気がついた。ピグトニャの左薬指の爪が、人工物……それも、おそらくはなんの機能的意味もなさない、見た目の問題を解決するだけの、つけ爪であることに。ということは、指先に力が入りにくいはず。きっとタイピングにも影響が……。そういえば……彼がタイピングに使うのは、左の中指まで……。
『俺は詠唱の才能がない。速さも努力してこれで精一杯』
背中に怖気が走った。あれは単なる変則運指ではなく……爪を失ったことで、無理に迫られた運指だったのだ。彼の左足の小指が、作っても作っても失われるように……失われた爪は、二度と生えない。彼の左薬指は、二度と力めない。それは、運指変更だけで対応しきれる違和感ではない……。
彼はなんというハンデを背負って、S1の速さを保っていたのか。しかもそれを、『才能がない』と自嘲して……。私は知らなかったのだ……彼の人生を、何も。
それでも、彼の人間性は知っている。彼が次に続ける言葉は、きっと──。
「──喜びがそこにあった! 誰か……他の誰かのものでなく、俺のものでよかったって……感謝までした! ……心から……!」
そうして彼は起き上がり、キーボードを顕現させ、一心不乱に何かを打ち始める。何を詠唱するつもりかわからず、私とオリバーは呆然と見つめる。
「わかった……! 俺の天啓の……鍵……!」
大きく、エンターキーの音が響く。
「固有応用魔法……敗北者は幸い」




