俺の勇者
「姉さんは……ユーシャの申し出を受けた……俺は信じられない気持ちでその光景を見ていた。見ることしかできなかった……。ユーシャは姉さんを抱きしめた。その時……俺の頭の中に、声が響いた」
ピグトニャの手は震え、顔からは血の気が引き、声はどんどん小さくなった。私はただ、聞いていた。回想の中のピグトニャが、見つめる以外できなかったように。
「声は……天啓を授かったときと同じ声だった。それはこう言った──」
──お前はもう十分に奪われた。故にもう奪われる必要はない。見よ、お前は奪われた!
「……奪われた。俺は……姉さんを奪われた。そう思った。だって、俺は……俺は……」
彼は言い淀んだが、<リーダビリティ>など必要なかった。彼の本心を言い当てるのは、誰にだって……簡単なことだった。
「……愛しているんだね、チェレーゼのことを。……単なるきょうだいとしての枠を超えて」
「……」
ピグトニャの涙が、震える手をまばらに濡らしてゆく。
「気づいて……なかった……けど、自覚した……あのとき、はっきりと。異常者だとはわかってる……わかってる……姉さんだって、俺を受け入れはしない……! 奪われるも何も、最初から俺のものになる可能性なんかなかった。そんなことはわかっている……でも!」
彼は顔をあげた。
「やっぱりあの日の姉さんは、おかしかったんだよ……! あれは姉さんの本心じゃなかった! 選ぶのが俺じゃないにしろ……ユーシャでもないはずだった!」
狭い部屋に声が反響する。彼の痛みが、私の胸までも刺してゆく。
「醜い嫉妬かもしれない……禁忌的な、叶わない願いの末路……それでも、ユーシャを憎んだわけじゃなかった。ユーシャだって親友なんだ……スラムで食べていく術を教えてくれた、変態の暴漢から俺や姉さんを守ってくれた、良いものを手に入れたときには、俺らにも絶対、わけてくれた……かけがえのない家族だった。けれどユーシャはいつも線を引いてて、本当に大切なところには立ち入らせてくれなくて……それが、俺らが思ってたかたちとは違っても……やっと俺らを家族って……! 失いたくなかった! 俺らは3人で……ずっと、一緒に……何したかったんだろうな。わからないけど、一緒にいたかった……つまらない嫉妬で殺したりはしない。なのに……なのにあの声が……こう言った──」
──奪われた分は……奪い返すが良い!
「ユーシャは気絶して……崩れ落ちた。姉さんはハッと意識を取り戻したように表情を変えて、ユーシャの名前を呼んだ。俺も呼んだ。だって……こんなことは望んでなかった! あの日から、ユーシャ・リリヴェージュは行方不明ということになった……そして、俺と姉さんでずっと世話をしてる。必要なのかもわからないが……いつか目を覚ましたときに、髭も伸び放題で体も汚くて……そんなのって、嫌だろ」
「……そうだね」
「髪は姉さんが切りたがらなくて……信心深い人は、体毛を三つ編みにする文化があるから。その編み込みのひとつひとつが、祈りの仕草……姉さんの大事なことは、大事にしたい」
「うん」
「……姉さんには、この顛末を話せてないのに、こんな髪の毛で大事にしてる気になってんの……愚かだよな」
ユーシャの髪の毛はずっしりと重そうで、これを編みながら祈っているチェレーゼを想像した。ピグイタンの文化を知らなくても、いかにも神官らしく、宗教画のテーマにさえできそうだった。無信仰者がその光景をつくれるのなら、それは大事にしていると言っていいだろう。
「ユーシャ・リリヴェージュは俺が殺した。生きてるが……目覚めないのだから、少なくとも、目覚めていない期間中のユーシャは、俺が殺している……殺し続けているも同然だ」
「……」
「あれ以降、俺の天啓は失われた……神とやらに問いかけると、もう奪われる必要はない、とだけ返ってくる。確かに、平穏に過ごせるようになった。これが俺の天啓の完成だったのかもしれない……だとすれば、なんと醜い天啓なのか。これが神の意思なんて……そんな神などいるわけがない。数年間、神官を続けた……俺の信仰は、神官を続ければ続けるほど、ほつれた。きっかけとなる綻びは、この日……」
目覚めないユーシャを、甲斐甲斐しく介護し続ける彼が、醜いなんてことあるだろうか。自らの意思で殺したわけでもないのに。単なる失恋の痛みを……誰にだって生まれる当たり前の黒い感情を、内心を責め続ける痛ましさ……。人々の内心の自由を覗き見する天啓、<リーダビリティ>の方が、ずっとずっと醜い。だというのに彼は、勝手にどんどん思い詰めていく。崖の方へ吸い込まれていく自殺志願者のように。私はそこに、手を伸ばしたい。
「こんな……仲間殺しで……しかも異常性愛者と……手を組むかどうか。それはソメヤの自由意志に委ねる。無理だというなら、それでいい……」
「無理じゃない!」
私は彼の手を両手で取る。彼の涙で手のひらが濡れている。何も上手いことは言えない。でも、でも、本心だ。
「無理じゃないよ……!」
ピグトニャの口元が、涙を堪えようと歪む。その表情は痛々しくて、けれど美しくて、私も同じような顔で泣いて、彼の顔は滲んでいった。けれど声だけは明瞭に響き渡り、私の鼓膜を、確実に震わせる。
「ごめん……」
そしてゆっくりと、彼は笑った。
「ありがとう……俺の勇者」




