あの日の記憶
──あの日はユーシャがリリヴェージュ家から独立し、新たな爵位を得る儀式を翌日に控えていた。元々養子だったし、20歳になったのを機に……新たな名前を得て、家として独立しようとしてたわけだ。あいつはユーシャ・クルエラと名乗ろうとしていた……スラムに姓なんかない。クルエラは産みの母の名前らしい。とにかく、それが育ての親にも陛下にも認められ、新たな一歩を踏み出そうとしていた。その直前だった。
『ここも随分久しぶりに感じる……子どもの頃、勝手に忍び込んで怒られてたね』
『……独立すれば、ここにはもう来られないだろうと思ったから。3人で見ておきたくて』
ユーシャと姉さんと俺は、昔よく一緒に遊んでいた、リリヴェージュ家の屋上庭園……その隅にある、育苗室に来ていた。専門の庭師以外は立ち入らない場所だ。理路整然と並ぶタグのついた苗、その隙間をくぐり抜けていくと、鉢植えのバラが並んでいる場所がある。このバラは『リリヴェージュ』という品種で……勿論、リリヴェージュ家が品種改良したものだ。何代か前の当主がバラ好きで、独自に開発した美しい花……元々、園芸家の間ではそれなりに名が知れていたが、ユーシャの活躍によって、さらに需要は増えていた。すぐに咲かせたい、飾りたいって人のための、大苗のコーナーまで歩いたら、ちょうど開花期で……よい香りが立ち込めて、そこに日光が差し込んでいた。光っているのに薄暗いんだ……ユーシャに似合ってた。ユーシャはそういう男だった。
『栽培スペースが増えてる。まだ僕がユーシャ・リリヴェージュとして覚えられている今のうちに、売り切った方がいいだろうね』
『そうしたら、リリヴェージュを元に、クルエラって品種を開発したら? だって、世界は平和になったんだもの。園芸が趣味の勇者も面白いし』
『俺もそう思う。ユーシャは平和的な趣味が少なすぎるから』
『ピグトニャだって趣味なんかないじゃんか』
俺たちは笑っていた。これから起こることを知らないから……平和的な趣味を持ち、まずは自分を安定させ、それから先にだって何年も時間があると思ってた。俺たちが誓った、緩衝地帯の国家計画……それによる魔法差別の根絶だって、ピグイタンで地位を得ればやりやすいだろうと思っていた。だから、束の間の平和、ひとときの安らぎ、そういったものが欲しかった、そのときだけでも……。
『チェレーゼ』
ユーシャが姉さんの手を引いた。姉さんは急なことで躓いて、ユーシャの体にもたれかかる形になった。俺はユーシャの方を見つめ、ユーシャも俺を見つめて、笑った。逆光でほとんど顔はわからなかったけど、たしかに笑ってた。
『ピグトニャ。よかったら見ていてくれないかな』
『……何を?』
『僕の顛末を。どんな結果になっても。君は神官だろう? 立会人に相応しい』
どういうことかわからなかった。多分姉さんもわかっていなかった。けれど俺は頷いて、ユーシャの言葉を待つことにした。ユーシャは姉さんの体勢を整えてやってから、片膝をついて、姉さんの前に跪いた。
『冒険中……ずっと考えていた。三人で過ごす時間が、どれほど自由で、かけがえのないものかということについて』
『……ええ』
『僕は勇者になった……みんなが僕を慕ってくれる。けれど、僕には、今もなお……心の底から信用できる人間が、ふたりしかいない。チェレーゼと、ピグトニャだけだ』
ユーシャの疑り深い性格は、見た目だけ柔らかくなって、貴族然とした紳士的な口調になっても、変わることはなかった。ずっと昔からあいつはすべてを疑っていて、それ故に、あの地獄を生き抜くことができた。
『子どもの頃は、君たちはまだ友人止まりで……まだ信用できてなくて……僕はひとりでリリヴェージュ家に来た。口調も見た目も、こんな貴族様らしくなっちゃって……。けれど、遅いけれどやっと、冒険の中で、君たちを信じられた。あの日、家族同然だといって手を差し伸べてくれたことにも……今更感謝する気持ちが生まれてきた。今更……今更なんだ。僕はそういう人間なんだ』
ユーシャが何を言おうとしているか、俺には直感的にわかった。それをどうしても否定したかった。言わせてはいけないと思ったが、動けなかった。親友の頼みだったから……見届けてほしいと言われたから。
『僕はふたりと、改めて家族になりたい。幼かったあの日……その手を振り払った僕には資格がないと思うなら、否定してくれて構わない』
姉さんは困ったような声で返した。
『そんな……ユーシャ、私たちは元から、あなたがそう思ってない頃から、家族も同然で……』
『違うんだ、チェレーゼ』
心臓が嫌になるほどうるさくって、バラはもう視界に映らないほどで、俺の頭はガンガンと痛み始める始末だった。ダメだ、やめてくれ、その先は──。しかし止められるわけもなく、ユーシャの声が響き渡った。
『愛している。僕と結婚してほしい』
沈黙がしばらく続いた。あのとき、姉さんは確かに困惑していた。俺の妄想かも……都合の良い妄想かもしれないが、確かにそう感じた。困惑していたんだよ……姉さんはその申し出を断ろうとした! 絶対にそうだ! 間違いない!
『ユーシャ、気持ちは嬉しいけれど……』
姉さんはそこまで言ったんだ! 俺の妄想じゃなかったら! 俺はそのとき、心底ほっとした。あぁ、姉さんがユーシャと結婚することはないんだ、と。ユーシャだって、わかってるような顔をしてた。諦めがついたような笑顔だった。それなら、俺たちは何も変わらない……何も変わらないままでいられる。
けれどそのとき、姉さんの顔つきが急に変わった。頭を抑え、膝から崩れ落ち、ユーシャに支えられる形になった。俺は姉さんの元に行こうとしたが、その前に姉さんの目が開いたから、立ち止まった。
『ユーシャ……』
姉さんは……姉さんは、ユーシャの手を取った。愛おしげに。
『ありがとう……私も愛してる。その申し出、お受けします』




