ハンロンの剃刀
私は空調の音しか響かない会議室で、静かに人を待っていた。座りもせず、椅子や机は壁側に避けたまま。ひとりで突っ立って腕を組み、ドアをじっと見つめて。約束の時間ぴったりにノックが響き、「どうぞ」と答える。がらがらと引き戸が開き、よく知った顔が私を見つめた。
「コロネ・ココロ二等兵……」
「ご機嫌よう、ソメヤ・イストゥール中尉。なんだか……1ヶ月も経ってないのに、すごく久しぶりに感じるね」
人払いを済ませた小会議室。念のためボイスレコーダーは持っているが、それは向こうも同じだろう。コロネは後ろ手に扉を閉じて微笑み、スマートフォンで、あの日の動画を見せてくる。
「これがあなたの出した結論……ソラージルさえも助けると」
「うん。……助けを必要とする人なら、誰でも助けたい。そのために授かった力だと思うから」
「もっと弱い人たちよりも先に助けるのね。おのれの名声のために……ねぇ、勇者と呼ばれるのは気持ちよかった?」
「居心地悪いよ。コロネの言うとおりだから。でも、名声を得れば得るほど、もっと手を広げられる」
私は腕を開き、ジェスチャーでそれを示す。もっともっと……大きな力が欲しい。
「コロネ……、自分がソラージルの工作員だと確実視されてるのはわかってるよね? どうしてあんなにバレバレの挙動を? 私にピックアップ隊の話をリークしたのも、私がいない間の挙動も……変人であることを加味しても、変すぎる。帰った頃には、あなたを取り調べることが、上層部で決まってた。まるで、わざとやってるみたい」
「私が馬鹿だから……それじゃ、理由として足りないかしら?」
「足りないね。コロネは馬鹿じゃない」
「数日間しか一緒にいなかったのに、そんなことわかるの? 10年経っても、人と人とは分かり合えないものよ……工作員って仕事があることからも、わかるでしょ?」
コロネはつかつかとこちらへ歩み、私と触れ合う寸前で止まる。
「ソメヤ様……その腕で私を抱きしめて。私と主従の契りを交わしてくださいません? 誰でも助けてくれるのでしょう?」
私は腕を下ろし、拒否をする。
「ダメ。……本気の目じゃないから」
「あら。ふふふ……どうして私が本気でないなんて言えるの? あぁ……あの固有魔法を使えば、簡単か。どうして使わないの?」
「弾かれるでしょう? 自分の心を秘匿できる人間でないと、工作員は務まらない」
ははは、とコロネは笑い、私の耳元へくちびるを寄せる。鎖骨の下に人差し指を当て、つうっと胸へ向かわせる。私を艶かしく抱きしめ、心臓の高さをそっと合わせる。私は何も抵抗をせず、しかし抱きしめ返しもしない。
「逆にあなたは……どうしてそんなに隙だらけなの? もっと心を頑なにした方が良いのではなくて? すぐ人に心を許し……誰とでも仲良くなり……ソラージルの兵にさえ手を差し伸べる。それともすべてが計算なのかしら……ズィギズを助ける前に、ソラージルを助けるのだもの。そうよね。彼らを手懐けて、何に使うつもり?」
「コロネ……バレてるよ。あなたが仲間意識ではなく……能無しという意味で、その言葉を使っているの。……最初から」
「あはは、あはは……ははは!」
彼女は私を突き飛ばし、私はなされるがまま壁に体を打ちつける。
「コロネ……あなたは何が話したくて、私を呼んだの? 周りからは止められた……けれど私が、コロネに応じたいと言った。私は逃げも隠れもしない。心が定まらないなら、また今度でもいい」
「さっき言ったでしょ……契りをかわしてほしかった。愚かな工作員は、あの動画を見て主を変えようと思った……そして命乞いしにきたのよ。また今度なんてない……私はこれから捕まるんだもの」
「じゃあ面会に行くよ。友達でしょ?」
「馬鹿みたい……なら助けたら?」
「信頼できない友達はいても……信頼できない僕はいらない。他の僕に不義理だから」
「あら、悲しい……」
くすくす笑う彼女は、むしろこの展開を望んでいたように見える。ピグイタンは愚かなのだ、ソメヤ・イストゥールは愚かなのだ、善人面して全員助けると言いながら、その実、そうではない……それを証明したい。そんな様子。私の深読みかもしれない……しかし、彼女の振る舞いひとつひとつが、今やそれを自白していた。
「コロネ、あなたはわざと怪しげな発言をして、自ら疑われる種を蒔いて、自ら終わりに向かっていった……」
「それは私の頭が悪いから。無能で済むことを深読みするのは、愚かだわ」
「それによって、他の仲間から目を逸らさせた」
「!」
コロネがわずかに動揺する。普通の人なら気づかない程度に、わずかに。しかし私の勘は冴えていた……ンプァクトに来てから、確実に。私視点、世界の可読性は、高まり続けている……。私はゆっくりと体勢を立て直し、コロネの方へ歩いていく。
「私が特別な存在なのは入隊時から気づいていた……だから私に近づいた。私を通じてピグトニャや上層部に、あなたへの不信感を植え付けた。拷問の後、死罪となることも覚悟して……仲間のミスを庇うために」
「妄想よ」
「これを見て」
私はスマートフォンで、まだ軍上層部でしか共有されていない文書を見せた。コロネはじっとそれを見る。
セクレタ・スピオノ軍曹──退職。
「もう意味ないよ。露悪的に振る舞う意味はないの。あなたが庇った人は……元々目をつけられていた。あなたのボヤ騒ぎじゃ、隠しきれなかった」
「……妄想よ」
「コロネ、」
「妄想。大体、どうして他人のミスなんか庇わなくてはならないの? 工作員はずっとひとりなの。孤独なの。同じ国の工作員でさえ……二重スパイを疑って、協力はしない。自分しか信じられない。私という、ヘマをした馬鹿がここにひとり。それ以外、信じられることは何もないわ」
私はファーニャのことを思い出していた。敵国でできてしまった友が救われ、心から感涙していた彼のことを。人は心を捨てきれない……魔法で簡単に乱されるような脆弱なシステムではあるけれど、全く無くしてしまうことはできない。なのにブレない態度のコロネは、きっと、すごく優秀な工作員だ。
──欲しい。こちらの陣営に。
「あなたへの疑いの火の粉は払えない……払う必要もない。あなたが工作員であることを、私たちは信じている。ほら、信じられること、あったでしょ?」
「なんて詭弁……」
「だから、信じられることは何もないなんて、悲しいことを言う暇があったら……これ書いて」
だから、私はコロネに手を差し伸べる。1枚の紙を持った手を。
「何? 辞表? ピグイタンってこういうときも形式を重視するのね……」
コロネはその紙をとって、見つめる。そして、不可解な顔をした……全くもって、意味がわからない。そんな顔だった。
「多国籍隊の自己紹介カード。急で悪いけど、明日の午前中締め切りね!」




