第7話
「この壁画には、ちゃんと意味があるの」
美月が、静かな声で言った。
私は顔を上げたまま、耳だけをそちらに向ける。
「天井は創世記。世界の始まりの話。
右側がキリストの物語で、左がモーセ。
で、あそこ――」
美月が少しだけ顎で示す。
「奥にあるのが、“最後の審判”。ミケランジェロが描いたやつ」
私はその先を見た。
広がる絵。
人の群れ。
光と影。
「……へぇ」
それしか言葉が出なかった。
「美月、詳しいね」
そう言うと、美月はただ小さく笑った。
何も誇る様子もなく、ただ楽しそうに。
(……やっぱり、好きなんだな)
聖書のこと。
その中に出てくる神様のこと。
改めて、そう思った。
私はもう一度、天井を見上げる。
創世記。
世界の始まり。
右へ視線を移せば、キリストの物語。
左には、モーセ。
(全部、繋がってるんだ)
そう思った瞬間、少しだけ現実味が増した気がした。
でも――
同時に、違和感もあった。
(……物語、だよね?)
ただの話。
授業で習っただけの。
それなのに。
どうして、ここまでできるんだろう。
これだけの時間をかけて。
これだけの人が関わって。
これだけのものを残して。
(そこまで、する?)
ロンドンでも思ったことが、また浮かぶ。
視線を奥へ向ける。
“最後の審判”。
一番有名な場所。
ミケランジェロの名は、私でも知っている。
その絵を、じっと見つめる。
(……この熱量、なに?)
ただ上手いとか、すごいとか、そういう話じゃない。
何かが、こもっている。
それが何なのかは分からない。
でも――
確実に、ある。
(私には、こんなのないな)
ふと、そう思った。
何かにここまで打ち込む熱も。
何かを信じてここまでやる力も。
壁画を見ていくうちに、
断片的に、授業で習ったことが頭に浮かんでくる。
創世記。
モーセ。
キリスト。
(ああ、やったな……)
そんな感覚。
でも、それだけだ。
(……もっとちゃんと、聞いておけばよかったかな)
ほんの少しだけ、後悔がよぎる。
あの時は、ただの授業だった。
覚えるための言葉でしかなかった。
「……ふぅ」
思わず、ため息がこぼれる。
疲れたわけじゃない。
でも、どこか圧倒されていた。
もう一度、ゆっくりと見上げる。
光。
色。
人の表情。
すべてが、そこにある。
(……これ、たぶん忘れないな)
理由は分からない。
でも――
この場所のことを、
この空気のことを、
私はきっと、ずっと覚えている。
「奈々」
壁画の余韻がまだ残る中で、美月が少し声を潜めて言った。
「ここにも、写本があるの」
「え?」
私は思わず顔を向ける。
「でもね、普段は見られないの。特別な人しか入れない場所に保管されてて」
「じゃあ、見れないってこと?」
そう聞くと、美月は少しだけ笑った。
「それが――今、特別展が開かれてて。少しだけ公開されてるんだって」
「えっ」
一瞬、言葉が止まる。
「それって……」
「うん、かなり珍しいこと」
「……私たち、超ラッキーじゃない?」
「だと思う」
美月は静かに頷いた。
案内に従って進んだ先、
少し人の流れが落ち着いた空間に、それはあった。
ガラス越しに守られた、古い写本。
ロンドンで見たものとは、また違う空気をまとっている。
(……これも)
大切にされてきたもの。
長い時間をかけて、残されてきたもの。
「やっぱり、すごいね……」
思わず、声が漏れる。
「うん」
美月も、小さく頷く。
二人とも、しばらく何も言えなかった。
少し離れた場所で、昭人くんが立っているのが見えた。
手を後ろで組んで、静かにこちらを見ている。
でも――
その時の私たちは、そこまで気が回らなかった。
「この写本があること自体、すごく貴重なんだよ」
美月が言う。
「どうして?」
「シナイ写本と比べられるから」
私は一瞬、考える。
(……ああ、そっか)
同じ内容が、別の場所にも残っている。
それを照らし合わせることで、
どれだけ正確に伝わってきたかが分かる。
(じゃあ……)
頭の中で、ゆっくり繋がっていく。
これ一つじゃない。
いくつもある。
それだけ――
残そうとしてきた人がいる。
(そんなに、大事だったんだ)
その感覚が、少しずつ現実味を帯びていく。
ロンドンで感じたもの。
さっき見た壁画。
全部が、どこかで繋がっている気がした。
胸の奥で、何かが静かに動く。
(……知りたい)
理由は分からない。
でも――
もっと知りたい、と思った。
(この旅行、来てよかったな)
ふと、そう思う。
美術館を出たあと、私たちは遅めの昼食をとった。
少し疲れているはずなのに、不思議と気分は軽かった。
そのまま、トレビの泉へ向かう。
トレビの泉
到着した頃には、空はすでに薄暗くなっていた。
「……わあ」
思わず、声が出る。
白い彫刻が、ライトに照らされて浮かび上がっている。
昼とは違う。
もっと幻想的で、どこか現実離れした光景。
「なるほどね」
私は小さく呟く。
「夜、正解かも」
昭人くんの方を見る。




