第5話
古びた紙。
細かく並んだ文字。
見たこともない書き方。
「これ……」
思わず声が出る。
「聖書の写本です」
昭人くんが静かに言った。
私はガラス越しに、それを見つめた。
(これが……?)
頭の中で、いくつかの言葉が浮かぶ。
授業で聞いたこと。
教科書に載っていた名前。
でも――
それは、ただの“知識”だった。
目の前にあるものは、違う。
古い。
触れられない距離にあるのに、
なぜか“近い”気がした。
「……これ、本物なんだ」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
美月が小さく頷く。
昭人くんは、何も言わなかった。
ガラスの向こうの文字を、もう一度見る。
読めない。
意味も分からない。
それでも――
なぜか、目を離せなかった。
(ずっと、残ってきたんだ)
ふと、そんな疑問が浮かぶ。
誰かが書いて。
誰かが写して。
また誰かが写して。
それを、ずっと繰り返してきた。
気の遠くなるような時間の中で、
一字一句、間違えないように。
(……人間にできるの?)
思わず、そう思った。
誰かに命令されたわけでもない。
強制されているわけでもない。
それなのに。
どうして、そこまでして残してきたんだろう。
ガラス越しに、その文字を見つめる。
読めない。
意味も分からない。
それでも――
そこに“何か”がある気がした。
(そんなに大事なものだったの?)
胸の奥で、小さな疑問が広がっていく。
確かに、いい言葉はたくさんあったはずだ。
「神様は愛である」とか。
……他にも、いろいろ。
(……あれ?)
思い出そうとして、止まる。
うまく出てこない。
ついさっきまで知っていたはずなのに、
言葉が、手の中からこぼれていくようだった。
「……はは」
思わず、小さく笑ってしまう。
(こんなもんか)
自分でも少し呆れる。
あれだけ“知っているつもり”だったのに、
いざとなると、何も出てこない。
それでも。
なぜか、その場を離れられなかった。
言葉にできない何かが、胸の奥に残っている。
理解したわけでもない。
信じたわけでもない。
ただ――
今まで感じたことのない感覚だけが、そこにあった。
私はしばらくの間、動けなかった。
「奈々」
美月の声に、私はふっと我に返った。
いつの間にか、立ち止まったままだった。
「……あ」
「なんか、すごく見入ってたね」
少しだけ楽しそうに、美月が言う。
「うん……」
私はもう一度、ガラスの向こうを見た。
「なんか……本物を見るとさ」
言葉を探す。
うまくまとまらない。
「今まで、神話みたいに思ってた世界が……ちょっとだけ、近くに来る感じ」
自分でも、曖昧な言い方だと思う。
でも、美月は小さく頷いた。
どこか、嬉しそうだった。
ホテルに戻ると、ロビーで明日の予定を軽く確認した。
移動の時間。
行き先。
細かい段取り。
それを終えてから、近くのレストランで食事をした。
どれも美味しくて、でも少しだけ疲れていて、
全部がぼんやりと心地よかった。
部屋に戻ると、私と美月は窓際に並んだ。
ロンドンの夜景が広がっている。
静かな光。
グラスに注いだワインを、少しだけ口に含む。
「……疲れたね」
「うん。でも、充実してた」
自然と、そんな言葉が出る。
しばらく、何も言わずに景色を見ていた。
「ねえ」
ふいに、美月が口を開いた。
「私ね――神様って、いると思うんだ」
「え?」
思わず振り返る。
その言い方が、あまりにも自然だったから。
でも、驚きはしなかった。
(やっぱり、そうなんだ)
どこかで、そう感じていたから。
「なんでって聞かれると、うまく言えないんだけどね」
美月は少しだけ笑った。
「ただ……いてほしいなって思うの」
私は何も言わずに、頷いた。
「学校で習ってきたことってさ」
美月が続ける。
「正直、形だけだったじゃない?」
「……うん」
「アーメンって言っても、意味なんて考えたことなかったし」
私は苦笑した。
「でも――」
少しだけ、間を置いてから。
「神様がいてくれないと、救われないこともあるなって思う」
その言葉は、静かだった。
でも、どこかまっすぐだった。
「私ね」
美月は窓の外を見たまま、話し続ける。
「昔、家族で山のコテージに行ったことがあって」
「うん」
「その時、満天の星を見たの」
少しだけ、声が柔らかくなる。
「すごくきれいで……なんか、言葉にならなくて」
私は黙って聞いていた。
「理性とか、知性とか……そんな感じがしたの。
光ってるのに、主張しすぎなくて、でも奥が深くて」
(……分かる気がする)
そう思った。
「それから、ちょっとだけ興味が出て。
ミッションスクールに来たんだけど……」
言葉が、少しだけ途切れる。
「……分かるよ」
私は小さく言った。
「すごく分かる」
美月の方を見る。
「私は、美月ほどじゃないけど」
正直な気持ちだった。
でも――
「今日さ」
ふと思い出す。
「シナイ写本見たときに……」
少しだけ照れくさくなる。
「なんか、ありがとうって思ったんだよね」
「え?」
「私たちに、ここまで残してくれて――って」
言いながら、自分でも少し可笑しくなってくる。
「ははっ」
思わず笑ってしまう。
「初めて、神様少し感じたかも」
美月もつられて笑った。
「なにそれ」
「でしょ?」
二人で顔を見合わせて、また笑う。
しばらくして、美月が言った。
「昭人くん、一緒だけどさ」
「うん」
「部屋は二人だし、こうやって話せるの、いいよね」
私は頷いた。
「……うん。結果的に、よかったかも」
「ね」
また、小さく笑い合う。
窓の外には、変わらずロンドンの夜景が広がっていた。
静かな光。
その中で、私はふと思った。
(……ちょっとだけ)
ほんの少しだけ。
(神様に、ありがとうって思ったかも)
その気持ちは、まだはっきりしたものじゃなかった。
でも確かに、そこにあった。




