第14話
そのとき、神代さんが少しだけ真面目な表情になって言った。
「実は、私たちクリスチャンなんです。なので、食事の前に祈るのですが……」
少し間を置いて、やさしく続けた。
「私たちは黙って祈りますので、皆さんはそのまま食べ始めてくださいね」
すると、美月がすぐに言った。
「私たち、みんなミッションスクールなんです。だから……本物の祈りを聞いてみたいです」
「ね?」
私たちに視線が向けられる。
誰も反対しなかった。
「そうなんですね。それでは、声に出して祈りますね」
神代さんは静かに目を閉じた。
部屋の空気が、すっと変わる。
そして、祈りが始まった。
神様の名前を呼び、感謝を捧げる。
今日の食事への感謝。
私たちと出会えたことへの感謝。
そして、これからの旅の無事を祈る言葉。
一つひとつの言葉が、まっすぐで、飾り気がなくて、だからこそ心に届いた。
最後に「アーメン」と静かに結ばれる。
気がつくと、美月も私も泣いていた。
理由はうまく言えない。
ただ、心の奥に、何かが触れた気がした。
すると、サミラさんも涙を浮かべながら、私たちをそっと抱きしめてくれた。
温かかった。
――これが、本当の祈りなんだ。
そんな気がした。
少しして、静かな空気がほどけたとき。
ぐう、と小さな音が響いた。
昭人くんのお腹だった。
神代さんがすかさず言う。
「持ってるよな、昭人くん」
その一言で、また笑いが広がる。
ようやく食事が始まった。
美月はひと口食べるたびに
「このお肉と味付けのバランス、すごい……」 「おいしい……!」
と何度も繰り返していた。
――こんな性格だったっけ。
そう思いながらも、その変化がどこか嬉しかった。
食事は、あっという間に時間を忘れさせた。
そのあと、順番にシャワーを借りて。
明日の細かい予定は決めず、起きる時間だけを確認して。
私たちは、それぞれに用意された部屋へと入った。
ベッドに横になった瞬間、体がふっと軽くなる。
今日一日の出来事が、ゆっくりと心に沈んでいく。
――あたたかい。
その感覚に包まれながら、私は静かに目を閉じた。
その夜は、深く、やさしい眠りだった。
翌朝、スマートフォンのアラーム音が静かに部屋に響いた。
まどろみの中で、私は目を閉じたまま隣のベッドに声をかけた。
「美月……おはよう……」
返事がない。
もう一度呼んだ。
「おはよう……美月……」
それでも、何も返ってこなかった。
違和感が胸に引っかかり、私は勢いよく体を起こした。
視線の先――そこにあるはずの美月の姿はなく、ベッドの上には、きちんと整えられたシーツだけが残されていた。
「起きた?」
背後から声がした。
振り向くと、ドアのところに立つ美月が、いつもの調子でこちらを見ていた。
「……びっくりした。もう起きてたの?」
「うん。昨日、寝る前に昭人くんがさ、明日早く出て王家の谷に行くって言ってたでしょ。だから、私も早く起きたの」
「えっ?昭人くんのために?」
「まさかあ」
美月は笑いながら肩をすくめた。
「どうせサミラさんに迷惑かけるだろうから、起きてあげただけ」
「へぇー……怪しいなあ」
「何が?」
「別に」
軽口を叩きながらも、私は心の中で首をかしげていた。
——なんとなく、この二人。ただの友達には見えない。
根拠なんてない。けれど、そう感じてしまうのが、いわゆる“女の勘”というものなのかもしれない。
……ああ、こういうこと考えるあたり、ちょっとおばさんっぽいかも。
そんな自分に苦笑しながら、私はベッドを離れた。
正直なところ、私は今日、少し一人で自由に過ごしたいと思っていた。
王家の谷にも、それほど興味があるわけではない。
神代さんの家族がいれば安心だし――まあ、いいか。
そう思いながら着替えを済ませ、部屋を出た。
リビングに入ると、サミラさんがすでに朝食の支度を整えていた。
「おはようございます」
挨拶をすると、同時に、どこか懐かしい香りが鼻をくすぐった。
「今日はお味噌汁もあるわよ」
「えっ……?」
思わず声が漏れる。
「ご飯も?」
「そう。カイロでもお米は手に入るみたい。お味噌は神代さんのご実家から送ってもらったの。貴重なんだから、ちゃんと味わってね」
その横で、美月が得意げに言った。
「私も手伝ったんだから」
「へぇー。美月、お味噌汁なんて作れたっけ」
「ははは、半分サミラさんに教わったけどね」
「やっぱり」
自然と笑いがこぼれる。
——こんな場所で、日本の朝ごはんを食べるなんて。
不思議で、でもどこか安心する光景だった。
「……あっ、お祈りしなくっちゃ」
そう言いながら周りを見渡すと、他の人たちの姿がない。
「あれ?皆さんは?」
「もう、いただきました」
美月が即答した。
サミラさんは、そのやり取りを穏やかな表情で見つめながら、ふっと微笑んだ。
「二人は本当に仲良しね。それに、優しい」
その言葉は、静かに胸の奥に染みていった。
席に座り、私は手を合わせる。
そして――初めて、自分ひとりで祈った。
(神様……)
見知らぬ土地で、こんなにも温かい人たちに出会えたこと。
こうして美味しい食事をいただけること。
——それから、えっと……。
言葉が続かない。
でも、それでもいい気がした。
(ありがとうございます)
心の中でそうつぶやき、そっと目を開けた。
そのとき、スーツ姿の神代さんが部屋に入ってきた。
いつもと変わらない、柔らかな笑顔。
「昨日も今日も、ありがとうございます」
私が頭を下げると、神代さんは軽く手を振った。
「いいえ。ゆっくりしていってくださいね」
そう言って隣の部屋へ向かいかけたが、ふと思い出したように足を止め、こちらを振り返った。
「あの……今日の午後、クリスチャンの集まりがあるんです。よかったら、一緒にどうですか?妻も娘も行くので」
その言葉に、間髪入れずに反応したのは美月だった。
「行きます!」
即答だった。
そして、すぐに私の方を見る。
「奈々も行く?よね」
一瞬だけ考えて――私はうなずいた。
「うん、行く」
興味があった。
どんな人たちがいるんだろう。
本物のクリスチャンという人たちは、聖書とどう向き合っているんだろう。
……あれ?
こんなに興味あったっけ、私。
自分でも少し不思議だった。
昼前に神代さんは一度出かけ、再び戻ってきた。
昼食を終えたあと、私たちは皆で神代家を出た。
昭人くんからは、夕方まで戻らないという連絡が入っていた。
——これで、気兼ねなく行ける。
なぜか、胸が少し高鳴っている。
「なんか、ワクワクするね」
私が言うと、美月も同じように笑った。
「うん、わかる」
その感覚は、言葉にするよりも先に、心の奥で静かに広がっていた。
これから向かう場所で、何かが変わる。
そんな予感だけが、確かにそこにあった。
やがて車は、ルクソールの外れにある少し広めの一軒家の前で静かに止まった。
私は窓の外を見つめたまま、小さく首をかしげた。
――ここ?




