第13話
少し躊躇うように、しかし決意を含んだ声で昭人くんが口を開いた。
「……神代さんに、電話してみますか?」
「うーん……」
思わず、美月と顔を見合わせた。
今日、出会ったばかりの人だ。
確かに、穏やかで親切そうだった。奥さんと小さな子どももいると言っていた。でも――それでも、異国の地で知らない人の家に泊まるというのは、簡単に決断できることではなかった。
言葉にできない不安が、胸の奥で引っかかる。
けれど。
気がつけば、街の灯りは少しずつ濃くなり、影が長く伸びていた。
――ここに、このままいる方が危ない。
そう思ったのは、きっと私だけではなかった。
その空気を感じ取ったのだろう。昭人くんが、静かに続けた。
「ここにいても危険ですし……とにかく、一度電話してみましょう。せっかく、そう言ってくださっていたので……」
そして、少しだけ目を伏せて言った。
「……こうなったのも、僕のせいですし」
「いやいや、昭人くんのせいだとは思ってないよ」
美月がすぐに言った。その声は、さっきよりも少し強かった。
私も、同じ気持ちだった。
「うん。お願いしてみよう」
そう言うと、昭人くんはすぐにスマートフォンを取り出し、番号を押した。
数回のコールのあと、電話はつながった。
「――あ、昼間、連絡先を教えていただいた昭人です。あの……やっぱりどこもホテルがいっぱいで……」
少し緊張した声。
けれど、次の瞬間。
「……はい。えっ?……そうなんですか?」
昭人くんの表情が、一気に変わった。
「わざわざすみません。本当にありがとうございます」
電話を切ったあと、こちらを向いた。
「……神代さん、泊めてくれるそうです。今から、奥さんとお子さんと一緒に迎えに来てくれるって」
「えっ……わざわざ?」
思わず声が漏れた。
そこまでしてくれるなんて、思ってもいなかった。
それから、しばらくして。
一台の車が、ゆっくりと私たちの前に止まった。
ドアが開き、神代さんが降りてくる。その後ろから、柔らかなスカーフをまとった女性と、小さな女の子が顔を出した。
「こんばんは」
神代さんが穏やかに笑う。
その隣に立つ女性も、やさしく微笑んだ。
「はじめまして。私はサミラです」
柔らかく、包み込むような声だった。
――サミラ。
その名前と同じように、彼女の存在はどこか温かく、安心感を与えてくれた。
そして。
次の瞬間、サミラさんはためらいなく私と美月を抱きしめた。
――ハグ。
思わず息を呑む。
うわあ……。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
日本にいるとき、練習はした。でも、こんなふうに自然に、心からのハグを交わす機会はなかった。
その温もりは、ただの挨拶じゃなかった。
「大丈夫よ」と言われているような気がした。
続いて、小さな女の子が、両手を大きく広げた。
「ナディアです!」
元気な声。
私は思わず笑って、少ししゃがみこんでその小さな体を抱きしめた。
軽くて、温かい。
――ああ。
一瞬で、わかってしまった。
この人たちは、大丈夫だ。
理由なんてない。ただ、そう感じた。
横を見ると、美月が泣いていた。
声を押し殺すように、でも止めきれない涙。
きっと、ずっと不安だったのだ。
異国の地で、言葉も文化も違う場所で、知らない夜を迎えようとしていたのだから。
サミラさんは、そんな美月の背中をやさしく撫でながら言った。
「大丈夫。もう安心して」
その言葉は、静かで、けれど確かに心に届いた。
エジプトの夜の空の下で。
私たちは初めて、「守られている」と感じていた。
昭人くんの方を見ると、神代さんとしっかりハグをしていた。
その光景に、なぜか少し笑ってしまう。
するとサミラさんが、やさしく言った。
「夫は、日本人の女性とはハグしないんです」
「日本には、そういう習慣がないから。特に異性には」
その言葉に、どこか誠実さを感じた。
相手のことを、ちゃんと考えている人の言葉だった。
――この家族の、こういう優しさは。
いったい、どこから来るんだろう。
車に乗り込むころには、私たちはすっかり打ち解けていた。
神代さんが運転席に座り、その隣には昭人くん。エンジンがかかると同時に、前の席から楽しそうな会話が聞こえてきた。
普段あまり話さない昭人くんが、笑っている。
それだけで、どこか不思議な気持ちになった。
神代さんは、昭人くんに次々と質問を投げかけていた。学校のこと、日本での生活、今回の旅のこと。昭人くんはそれに一つひとつ答えながら、時折声を上げて笑っている。
まるで、昔から知っている人同士のようだった。
後部座席では、サミラさんの膝の上にナディアちゃんがちょこんと座り、何かを楽しそうに話していた。
「お姉ちゃんたちは、ママのお友達?」
無邪気な声が車内に響く。
「お姉ちゃんたちはね、旅行で来たの。パパとママが昔住んでいた、日本から」
その言葉に、美月が身を乗り出した。
「えっ?サミラさんも日本に住んでたんですか?どうりで日本語がお上手なんですね」
すると前から、神代さんが笑いながら言った。
「二人は、日本で出会ったんです」
「へぇ……サミラさんが日本に。どうしてですか?」
美月がそう聞いた、そのときだった。
車はゆっくりと減速し、やがて一軒の家の前で止まった。
あたりはすでに薄暗くなっていたが、その家はどこか静かな存在感を放っていた。町の中にありながら、ひときわ落ち着いた空気をまとっている。
――大きい家だな。
思わずそう感じた。
「さあ、どうぞ」
神代さんに促されて中へ入ると、思わず声が漏れた。
「うわあ……素敵な部屋」
「ね」
美月も同じように目を輝かせている。
室内は整然としていた。無駄なものはなく、けれど無機質でもない。ところどころに置かれた花や植木が、空間にやさしい彩りを添えていた。
どこか、安心する空気。
「まあ、とにかく、食事にしましょう。どうぞ」
「えっ……?」
案内された先には、長めのテーブルがあり、その上にはすでに五、六人分の料理が並べられていた。
思わず足が止まる。
「どうぞ、座って」
サミラさんが、やさしく微笑んだ。
「これって……」
言葉が続かない。
「遠慮しなくていいのよ」
戸惑う私たちの様子を見て、サミラさんは少しだけ照れくさそうに続けた。
「彼がね、“きっと三人の友達が来るから”って。二人で作ったの」
「途中でね、心配になって、電話してみようかって、ずっとそわそわしていたのよ」
そう言われて、神代さんは少し照れたように笑った。
その光景を見ているだけで、胸の奥がじんわりと熱くなる。
ふと隣を見ると、美月が泣いていた。
「大丈夫?美月さん、どうしたの?」
サミラさんが心配そうに声をかける。
すると、なぜか昭人くんが先に答えた。
「お二人のお気遣いに、感動しているみたいです」
その言い方が少しだけおかしくて、思わず笑いそうになる。
「さあさあ、大したものじゃないですが、食べましょう」
神代さんが明るく言った。
――やっぱり、この家族は違う。
そう思った。
理由はわからない。ただ、二人を見ていると、自然と心がほどけていく。
テーブルの上に並ぶ料理に目を向ける。
色とりどりの野菜、薄い生地のパン、大きなボウルには肉やチーズ、そしてたっぷりの野菜が盛られていた。
「タコスだ。私、大好きなんです!」
美月がぱっと顔を明るくする。
「ビール、飲みます?」
「はい!」
笑い声が広がる。
もう、遠慮はなかった。




