悪霊と妖怪 其ノ陸
少女はかつて、背後霊であった。
それは良く有る話。恋人に裏切られ命を絶ち、その男の背後霊となった少女の話だ。
ーー恨めしい。憎い。愛しい。
少女が背後霊であった時の感情は、そんなもので支配されていた。
そして自分の内なる感情だけでなく、周りの感情が少女の中に入り混じったことにより、少しずつ、少女は力を持った。
幽霊である少女は強すぎる力に苦しんだ。気を抜けば乗っ取られてしまいそうな闇が、少女をまるで、嬲るようにゆっくりと侵食していった。
そして闇が彼女を覆い尽くした時、少女は幽霊ではなくなった。
妖怪になったのだ。
しかし少女は不幸にも、理性を失うような事は無かった。自らの内の感情に苛まれてきたせいで、外からの感情にも、少なからず耐性が出来ていたのだ。
故に、闇が適合した。否、適合してしまった。
それからが少女にとっての地獄だ。
生前愛していた恋人が死んだ。
否、少女が殺した。
妖怪である少女はそれから、自らの定めから逃げるように日々を過ごした。人気の無い場所を当てもなく転々とし、自らを隠すことに勤しんだ。
しかし努力も虚しく、少女はその性質故、残酷にも男性を誘き寄せて取り憑き、殺めていった。全て少女の意志には関係無く。
自ら命を絶った自分への罰だと、少女は自分を責め、悶え苦しみ、暗れ惑って過ごす他に道は無かった。
◇◇◇◇◇
「明ちゃん、何してるかなぁ」
緩いウェーブのかかった綺麗な栗色の髪を悩ましげに揺らしながら、篠は本日三度目になる呟きを漏らした。
そんな言葉は、静かな、いつもよりも広く感じられる閑静な相談所の中に小さく響き、そのまま虚しく消えていく。
「……五月蝿いなぁ。あの犬神憑きと宜しくやってるだろう」
そのアンニュイな様子を見兼ねた柚月が、三度目にしてやっと溜め息混じりに応答する。
その答えになのか、それとも柚月がやっと口を開いたたことに対してなのか、篠は不服そうに頬を膨らませた。
「ゆーちゃーん。お見舞い行こうよー。行ーこーうーよーっ」
「ちょ、何なんだよ! 一人で行け!」
そう子供のように駄々を捏ねながらぺったりとくっ付いてくる篠に対して疎ましげに顔を顰め、柚月は抱き付いてくる篠の肩をぐいぐいと無遠慮に押す。押されようと引かれようと、篠は慣れているという様子で更に力を入れ、柚月に密着するばかりであるのだが。
「お留守番っていっても暇なんだもん……っ」
「だから、それなら一人で行けと……」
「また、柚ちゃん一人の時に刺客が来たらどうするのー!」
(こっちとしては一人の時の方が都合良いんだが……)
篠が豊満な胸部を自慢するかのように、ぎゅむぎゅむと柚月を抱き締めてくるのに対して、諦めたように大人しくしながら柚月は思った。あまり抵抗すると篠は益々力を入れるのだ。蛇かよ、と、柚月は内心悪態をつく。
口が軽そうな篠には、柚月の正体を隠しておくことにしてある。
口より出せば世間。その考えは、大事な場において一番賢明である。
「あのさ、留守番なんだから番しなきゃ駄目だろう。留守の間になけなしの依頼が入ったらどうするんだよ」
「そう言って一週間何も無かったよ! もう駄目だよこの事務所!」
明月がいないのを良いことに、言いたい放題である。
しかし確かに、この一週間、来る話といえば新聞の勧誘やら悪徳押し売りセールスマン。勿論それに対応するのは篠であり、彼女がどう対処したのか見ていた柚月は、彼女が侮れない存在であると心に刻まされることになったと、後に柚月本人の口から語られたというのは他愛も無い余談である。
故にこの一週間、二人が主に何をしていたかと聞かれると、偵察という名の散歩だ。しかし十二月の寒空の下は幾ら妖怪と言えど辛いもので、三十分程度の、本当にちょっとした散歩だった。つまりそれ以外は事務所でぬくぬくである。ぬくぬくする程に暖かい事務所でもなかったが、それでも当然屋外よりはぬくぬくできた。ぬくぬく。
最初の内はそのまま明月と浅香の病院に行ったりしていたのだが、五月蝿い上に事務所が心配だからと、明月に(心成し嬉しそうな顔をしながら)怒られたことにより、明月の退院まで事務所の留守番しようと柚月が提案した。無論、お見舞いをしないというのは、明月への嫌がらせも含んでいる。
「そんなに暇ならまた偵察でも行くぞ。気が紛れる」
「うぅ……、うん……」
篠は以前、明月に強請って買って貰った白いコートを羽織り、事務所の出入り口となる扉を開けた。一瞬にして、冷気が室内に入り込む。
「ひゃっ!」
「ーーってぇ……。」
そして扉から出ようとしたところ、何やら障害物にぶつかった。倒れはしないものの、篠はよろめき、室内へと強制的に戻される形となる。
ぶつかった障害物が人だと理解するまで一秒。更に人外だと理解するまで一秒。計二秒の沈黙が訪れた。
「おい、おねーさん。ぶつかっておいて謝罪も無し?」
「ぅえぇっ?」
と、その沈黙を破ったのは篠がぶつかった男だった。彼は三白眼をにやにやと細めて柄悪く笑うと、お決まりのような文句を付け始める。篠は、思わず怪訝な顔で後退った。
「つか、こんな怪しいとこで女の子二人何してんの?」
男は篠が後退ったのを良い事に、事務所内に入る。事務所の扉は大きく無い為見えなかったが、三人組であったようだ。
三人組は篠と柚月を交互に見やると、獰猛そうに目を光らせた。
「おねーさん達もしかして、俺達みたいに遊びに来る人待ってた? 可愛いし、遊んであげようか?」
そして篠の肩に手を置き、にやりと口元に悪意を湛えるように笑う。
(ちっ。一人なら、こんな連中……)
柚月は悟った。この男は女子供でも手を出すようなろくでもない連中であることを。
「ぁー……、えーっと。“表出やがれ”?」
「はっ!?」
篠は呑気に頬に人差し指を当てると、そう言って小首を傾げた。思わず柚月の目が点になる。
「な、篠、お前……」
「上等じゃねぇかおねーさん。その喧嘩買ってやるよぉ」
柚月の心配虚しく血の気だった男達は口々にそんな類のことを言うと、青筋を立てて扉を親指で差し、外に出るように促した。
篠、柚月、大ピンチである。




