悪霊と妖怪 其ノ肆
「ちょ、まじどうしようまじどうしよう」
「知るか。つーかてめェ、情けなさ過ぎだろ、最近」
「……っるせ、ここの空気、時化てんだよ……」
鞘の母の霊は、確実に鞘を狙っていた。鞘を、何処かに連れて行こうとしている。明月はそれを察し、歩治に鞘を守るように言った。明月は人間の体であるから鞘に触れることは出来ないからだ。
故に、歩治は文句を言いつつ、鞘を小脇に抱えて走り回ってくれている。華奢な浅香の体で鞘を抱える様は、酷く違和感を生み出したが、今はそんなことを構っている暇は無い。抱えられた鞘は、どうしようもない困惑のせいで、すでに放心していた。
ということで、二人…ではなく三人は、狭い霊安室を出て廊下を走っていた。取り敢えず策を考えつくまでは逃げながら話し合うことを、お互い現時点での得策だとした。
「あァ、良いこと思い付いたぞ明月ー」
「なんだ!?」
「尻文字……っつうか、尻で九字切れよ」
「……はぁ!? 出来るわけねぇだろ、んなこと!」
「おいおいプライドなんて言ってる場合じゃねェだろ。ふざけんじゃねェ」
「ふざけてんのはどっちだよ! 尻文字とかこの状況で!」
しかし明月が手を使えないし、歩治は愛用していた薙刀を持ってないしで、打開策が見当たらない。彼等は、悪霊という存在が具体的にどんな被害を及ぼすのか分からないのだ。“触れてはいけない気がする”。そんな雰囲気は、逃げ出したい程に醸し出しているのだが。
「おい! お前犬神として使役されてた時って、どう使役されてたんだよ……!」
「あー、夜中に噛みついて殺したりィ?」
「当てにならねぇー!」
明月は入院中の患者に聞こえないように配慮しつつも、悲痛の叫びを漏らす。どうなるかが分からなければ、どうしようもない。
そんな生産性の全く無い会議をしている間にも、後ろからは鞘の母親の悪霊が迫っていた。
追いかけて来るというよりは、背後にぴたりとくっ付いて付いてくるというような不気味な動き。そして、二人の走る速度に付いて来ているのにも関わらず、ぴくりとも揺れないその長い黒髪が、幽霊の恐ろしさを際立たせている。それどころか墨を塗ったくったような真っ黒なその髪は、三人の動きを封じようと、まるで蛇のような動きで視界の端に入って来ていた。
歩治は「ちっ」と舌打ちをして、ぴたりと足を止める。
「ーーしっつ……けェ!」
そしてそんな咆哮と共に繰り出された、悪霊の腹部目掛けての上段回し蹴りが、見事に決まった。
「ええぇぇ!?」
と、明月は驚愕を隠さずに目を見開く。歩治には、恐怖というものが存在しない。それは幽霊…妖怪に対しては勿論のこと、怪我や死についても同じであるようだ。
回し蹴りの際の遠心力のせいで鞘まで振り回され、飛んで行ってしまったが。
これで一つ、分かったこととしては、半妖である浅香の体は、妖怪である鞘の母親を物理的に攻撃するとができるらしい。
因みに妖怪や幽霊には基本的に重力という概念は存在しないのだが、半妖には関係する。彼等を介入すれば重力も遠心力も有効だ。具体的に言うと、半妖と幽霊だと半妖の方が強く、例えば、幽霊は半妖に押さえ付けられてビルの上から落下すれば、そのまま共に落下する。着地点での衝撃も有効だ。しかし半妖が妖怪を押さえ付けて落下したところ、妖怪が浮こうと思えば、半妖はそれにつられる形となる。つまり“異能力”の関係性、そして物理的な関係性は、幽霊>半妖>妖怪となるのだ。
そして、悪霊となった幽霊でもその力関係に変化は無いようで、歩治の見事な蹴りが入った悪霊は、その場でぱたりと倒れた。蹴りなどでは、所詮ヘリウムガス入りの風船を蹴ったようなもので、悪霊側への衝撃は少ないのであろうが。
そして、倒れる母とは逆に、反対側に飛ばされた鞘が起き上がり、母に近付く。
「おい、鞘……! あぶね……っ」
「お母さん。お化けになっちゃったんだね……」
明月の制止の声も聞かず、鞘は母親へと、その小さく細い足を、片方ずつ前に前にと突き出して行く。
母親は動かない。
「僕が苦しめたせいだよね。」
母親は動かない。
「僕を連れて行って。ずっと、一緒にいよう」
鞘の頬には、涙が伝い、恐怖で足は震えていた。しかし小さな少年は嗚咽もせず、叫びもせず、頼りない足取りだが確実に一歩一歩、母に近付いている。
母親の悪霊は唐突に起き上がり、その長い髪を鞘に向けて伸ばした。鞘はそれを気にすることなく、足を進める。
「おいガキ、駄目だ……! 止まれ!」
歩治は叫んだ。
「そのまま行くと、てめェまで悪霊になっちまうぞ……!意思に関係なく人殺しちまったりすンだぞ……!?傍迷惑も考えろ……!」
「じゃあ。」
少年は笑う。にっこりと、子供らしい屈託のない笑顔。
しかしその頬には、一筋の涙が伝った。
「今、僕も悪霊になったら、お母さんと一緒に祓って」
そう言って鞘は、母親に抱き着くように、その闇の中に呑まれていった。
ーーあぁあぁァあァァぁぁああァあああアぁあぁあああァァァああぁあァァアぁあァぁァぁあああぁぁァあああぁァぁあああァアぁあァあああぁァアぁぁああァア!!
叫び声。二重の叫び声。
親子は悲痛の叫び声を上げた。彼等の声は、明月と歩治にしか聞こえない。
だからこそ、二人はその叫びの重さを全て抱え込まなければいけない。
そして、そんな叫び声が止むと、親子は一つの妖怪になっていた。
「……ーーっ、」
明月は顔を歪めた。やり切れないという顔。親子はもう救われない。
もう二人に自我は無い。それは人間だったものではない。
“化け物”。自我の無い獣と同じだ。
そしてまるでそれを肯定するかのように、彼等は咆哮した。
明月は腕に巻かれた包帯を噛むと、包帯を解いた。包帯はしゅるしゅると床に落ちる。
「おい、明月……!?」
歩治の声を気にすることなく、明月は折れている筈の腕を力強く上げて、指を前に出した。
ーー臨。
彼等は祓われると、何も感じないまま消滅する。
ーー兵。
それでも人を殺めるよりはマシだと、明月は思う。
ーー闘。
鞘はどんな気持ちだったのだろう。
ーー者。
母に殺められ、母によって悪霊となった鞘。
ーー皆。
……それでも鞘は、母が好きだったのだろう。
ーー陳。
最後の笑顔。それは、そんな彼の気持ちを如実に表していた。
ーー裂。
せめて。せめて最後くらい。
ーー在。
母と笑顔で語り合えたなら、どれほど良かったのだろうか。
ーー前。
彼等だった化け物は、明月の目前でその姿を溶かした。
ーーありがと、と、鞘のあどけない声が、聞こえたような気がした。




