第8話「初めての、ありがとう」
薬が棚に並んだのは、翌朝だった。
『熱冷まし、あります』
品切れの木札が外され、代わりに小さな札が下がった。それだけのことに、朝から薬屋の前には列ができた。
あの母親も来た。
残りの三包の薬を受け取り、銀貨三枚を払い、何度も頭を下げて帰っていった。子供の熱の峠は越えたそうで、あとはこの薬を飲み切れば戻り熱は収まる、とバルドが言ったそうだ。
俺はその様子を、店の隅で帳簿をつけながら見ていた。
そして数日後――。
店の戸が開き、あの母親が、今度は子供の手を引いて入ってきた。子供はまだ少し顔が赤いが、自分の足で歩き、店の中をきょろきょろと見回していた。
母親は真っ直ぐ俺のところへ来た。
「バルドさんに聞きました。このお薬の草を、運んできてくれた方だって」
彼女は深く、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。あの子の熱、本当に下がったんです。ありがとうございます」
「……いや、俺は運んだだけだ。薬を作ったのはバルドさんで、草を採って、乾かしたのは集落の――」
言いかけて、止めた。母親はそんな俺の言葉など構わず、もう一度「ありがとうございます」と言った。隣で子供が「ありがとう」と真似をした。
前世で、俺が「ありがとう」と言われたことがなかったわけじゃない。
だが、商売で言われたことは、一度もなかった。
列で聞いた「転売ヤーは、許せない」という声。画面の向こうの罵声。金は稼げた。口座の数字は増えた。増えるたびに、なぜか何かが減っていく気がしていた。
あれは――この一言だったのかもしれない。
俺は、どう答えていいか分からず、ただ「……どういたしまして」と言った。下手くそな返事だった。
母親と子供が帰った後、バルドが笑った。
「商売人四十年でも、初めはそんなもんだ」
「……前は、感謝されることはなかった」
「じゃあ、初めての、『ありがとう』だな」
その日の夕方、俺は帳簿を締めた。
この一連の取引の収支は、笑ってしまうくらい地味だった。
魔石で得た四十五枚から始まり、案内料、馬車代、赤字八十五枚、借り二十五枚、信用四百枚の融資と返済。全部を精算して、手元に残った現金は、始まりとほぼ変わらない。
だが、帳簿の外に残ったものがあった。
商人ギルドの信用評価は、FからEに上がった。「納期遵守・申告正直」の注記つきで。
バルド薬舗からは、月光草の乾燥品について、毎月の定期発注をもらった。
集落からは、次回分の採取と乾燥の継続契約を取り付けた。集落長の言葉が忘れられない。
「ユナの仕事に、町の名前がついた」
そして、そのユナ本人が、店の入口に立っていた。
「話がある」
「条件、だったら聞こう」
「三つ。一つ、集落からの買い取り価格を、理由なく下げるな。二つ、品質で落とす時は、落とした理由を作った側に説明しろ。三つ――」
ユナは赤い紐の束を、俺の前に置いた。
「わたしを『雇う』な。品質の責任はわたしが持つ。あんたは値段と運ぶ側、わたしは作る側。対等に組む」
「……商会にするなら、品質責任者、ということか」
「肩書きは後でいい。約束できる?」
俺は頷いた。それが、リブラ商会という名前のない商会の、最初の契約だった。
ユナが帰った後、俺は帳簿の新しいページを開いた。
商会の名前は、まだない。だが今日の契約は、個人の取引の欄には収まりきらない気がした。
俺はページの頭に、仮の名前をたどたどしく書いた。
――リブラ商会。
この町の名前。天秤の名前。そして、俺の名前の「衡」の字の意味するもの。
傾いた天秤を、まっすぐに戻す商会。格好つけすぎだとは思った。だが、悪くない出発だった。
それから俺は市場を一人で歩いた。
天秤の石像は、今日もわずかに傾いている。この町の値段は、相変わらず店ごとにバラバラで、集落には相場表すら届いていない。俺が変えたのは、月光草一つの流れだけだ。世界は何も変わっていない。
だが、一つだけ確信があった。
この世界の値段がおかしいのは、誰かが悪いからじゃない。値段を決めるための仕組み――市場そのものが、まだ生まれていないからだ。
だったら、やることは一つだ。
(市場を、作る)
前世の俺なら、笑うような夢だった。だが今の俺の帳簿には、現金の代わりに、信用と、契約と、「ありがとう」が一つ、記されている。
出発点としては、悪くなかった。
――その頃、リブラの町外れにあるアウルム商会の支店では、一通の報告書が封をされていた。
『無名の個人商人、天瀬衡。ギルド信用にて月光草の流通を変更。要注意』
数日後、本部からの返信が届く。支店長はその文面を見て、しばらく黙り込んだ。
署名は――レオン・アウルム。
本文は、たった一文だった。
『その男の帳簿を、取り寄せよ』
(第1章 完。第2章へ続く)
読んでいただきありがとうございます。第1章はここまでです。明日から第2章が始まります。明日20時に第9話を投稿します。




