第六話 闇夜に靡く黒色の風
イグレット・アルトリエは、命の危機に瀕していた。
目の前の道を塞ぐのは、奴隷商人で戦闘能力を持つ相手。イグレットに武器はない。勝ち目もない。
だというのに──
死ぬ気はしない。
イグレットは脳内にいくつかの言葉が蘇る。
『好きに生きろ』
父はそう言ってくれた。
だから強くなることを目指した。
『強くなりなさい』
母は逃げ道をなくしてくれた。
だから強くなる夢に向かって走り続けられる。
『君の扱い方が悪い』
師匠はイグレットを一人の人物として見てくれた。
剣士になるには何が足りないかを、教えてくれた。
『今日から友達よ!』
初めての友達はイグレットを受け入れてくれた。
故に、彼女といる時に不安を感じることはない。
だから、だからこそ、今だからこそ思う。
絶対に死にたくない。生きるんだ。
生きねばならない。
そう思った時、すでにイグレットの体は痛みを忘れ、いつもと変わらず動けるようになっていた。
そして、短剣を手にしてイグレットに迫る飄々とした男。
「男のガキなんて所詮価値低いやろし殺すわァ!」
路地裏、道は一直線。先の巨漢と違って相手は素早い。それでも、一ヶ月以上キリートという師匠によって、何度も何度も叩かれ続けた彼は──
(……今!)
その短剣を避けるに至る。
「ッチィ! なんやっ!」
しゃがんで短剣を避けたイグレットは、飄々とした態度の男に対して体当たりをする。すると、相手は後ろに飛んでイグレットと距離を取った。
「すごいわイグレット!」
「う……うん」
イグレットはそう言いつつも、足を震わせている。
同時に、飄々とした態度の男はニヤニヤとしていた。
「へっ……ええ気になっちゃぁ困るなァ。いつ俺が本気やと言うた? なんも、力なんか出しとらんわ〜」
(え、え? 今のですら手を抜いてたの?)
相手の言葉を聞いたイグレットは、一気に気を落としてしまう。この上があると考えると、避けられる自信がないのである。
「クソガキィ……やっと追いついたぜ」
そして、後ろの道から先ほどの巨漢が現れた。
「イグレットっ……」
エパがその声を聞いて、自然とこちらに身を寄せてきた。イグレットも絶望を感じ始める。
(……武器があれば、どっちかは倒せたかもしれないのに……これじゃ、どうすれば……どうすれば──)
「おいガキ。そっちのデブが許すかはしらへんけど、今大人しく降参するなら少しくらいは楽に殺すで」
提案された。どうやら楽に死ねるようである。加えて自分は元々、苦しんで死ぬ予定だったのかと、ここで知った。
「それと、このお嬢様も傷はつけんといたるわ」
「テメェ! 俺が許すわけねえだろ!!」
「はは、だってよ」
そういうことらしい。イグレットは思う──
これは提案ではない。弄びだと。
(……黒い風。僕は……持ってるんだ。黒い風を)
「エパ……上に向かって水の球を放って」
「……? わ、わかったわ」
至近距離、コソコソと二人は話すと、短剣を構える男と巨漢はジリジリと近づいてくる。
「さっさと決めねえと、ぶっ殺すぞガキィ!」
巨漢がそう声を上げた瞬間、エパが上に両腕を向け、手のひらを開いて叫ぶ。
「水球!」
先のサイズよりも大きな水の球、それが周囲の建物を越えるほど高く発射される。
「なにしとるん……?」
(やり方はわからない。でも……出来なきゃ死ぬんだ。剣を振る時に、いつも黒い風は出るんだ。なら……ならあれと同じようにッ──)
「はぁあああ!」
『多くの剣士は、自身が宿す魔力を使って属性を剣に纏わせる。だから基本的に魔法使いより剣士の方が強いんだ』
ある日、キリートは言っていた。誰であろうと、魔法でなくても魔力を放出することはできる。それはイグレットの場合、魔法に劣らない威力を秘めている、と。
イグレットはエパと同じく上に右手を向け、力を一気に腕に込めると黒い風が放出された。
「何がしてえんだテメェ……!」
黒い風は水の球に直撃し、さらに高く水の球を押し上げる。そして、それは上空で音を立てて爆散する。
(隙……!)
彼はこの機会を狙っていた。イグレットらを襲おうとする男らは上を見上げていた。
つまり、一撃を入れることができる。
イグレットは腕を即座に下ろし、ヤケクソではあるが、右手から同じように黒い風を正面に向かって放つ。
「……! しくった──」
飄々とした男は黒い風を目にし、咄嗟に動くことも出来ずに正面から受けることになってしまう。
……。
……。
しかし、何も起こらなかった。
「……え?」
腑抜けた声がイグレットの口から溢れる。
「……? ? なんやガキ……驚かせんなや」
黒い風。本来であればそこそこ威力はあっただろう。
しかし、今さっき水の球体を破裂させる際に、その威力を保つための魔力は使い切っている。
魔力が回復する時間を待たないことで起こる現象。
(なんで! なんでさっきは黒い風で斬れたのに!)
そんなことは知らないイグレット。
そして、手札が尽きた。
後ろには巨漢。
正面には素早い剣士。
詰み──
そう思った時、すでに避けられないところまで、短剣を持った男が迫って来ている。
(死ぬ……の?)
イグレットは目を閉じた。
……。……。……。
ガギンッ──
──生きている。
「……キリート師匠?」
音に驚いて目を開けたイグレット。
目の前には、背中を見せるキリートが居た。
「キリート!」
エパが嬉しそうに彼女の名を呼ぶ。
それに対し、キリートが短剣を赤い剣で防ぎながら、こちらにチラッと顔を見せる。
「後は任せてください」
彼女は相変わらず無表情であるが、今の二人にとっては、それが何よりも安心できるものだった。
「“赤冥”、キリートッ!?」
短剣を持つ男は青ざめてそう言うと、一瞬で後ろに下がって冷や汗をダラダラと額に浮かべ始める。
キリートは前を向く。
その瞬間、目の前から彼女が消えた。
すると二度ほど、空気が破裂するような音が聞こえると──
短剣を持つ男の右腕が斬り飛ばされる。
「ぁっぐ!?」
それでも、キリートの姿は見えない。
「ク、クソァア! テメェらだけでもッ!」
イグレットとエパは振り返る。巨漢がこちらを攻撃しようとしているのだろう。だから逃げようとした。
その必要はない。
「……ッァ」
巨漢は背中を深く斬りつけられ、血に塗れながらイグレットらの前に倒れる。
「な、なんなん! ツイてなさすぎやろッ!」
短剣を持っていた男が逃げ出す。
それと同時に、周囲の音が消えた。
「あ」
イグレットは逃げる男の声を耳にした時、その方向へと体を向けると──男の頭がストンと地面に落ち、体が倒れる瞬間を目にする。
そうして、一瞬のうちに全てが終わった。
(……初めて見た。人が死ぬ瞬間)
イグレットは少しだけ気分が悪かった。
そんな彼とは違って、エパは平気そうである。
「イグレット少年、エパお嬢様、遅れました」
キリートがいつのまにか、イグレットの背後から現れる。エパはすでに彼女に抱きついていた。
「キリートキリート! 助けに来てくれたのね!」
「えぇ。エパお嬢様の魔力を感じ取りましたので」
パッとエパがキリートの顔を見上げる。
「なにそれ! すっごいわね!」
「えぇ、すっごいです」
イグレットは軽く放心状態であり、緊張が解れたのかその場に膝から崩れ落ちた。
「……はぁっ」
すると、キリートがエパに抱きつかれながら、近くに歩み寄ってくる。
「イグレット少年、大丈夫か」
「なんだか……身体中痛いですし、疲れました」
全身打撲、骨も何本か折れているだろう。そう自覚した時、段々と痛みが身体中を走り始めた。
「キリート! イグレットはすごいのよ! 黒い風で敵を倒しかけてたのよ!」
「倒しかけて……ませっ──」
イグレットは意識を失う。
もう限界だったのだ。
最後に聞こえたのは、こちらを心配するエパの声。
彼女が何を言っていたかはわからない。
それほどまでに、疲弊し切っていたのである。
ーーー
永獄1645年10月8日。
エパ・ミルティア・ダッドアード誘拐事件。
この一件は、普段キリートのもとへエパを送り届ける護衛係が、彼女の父親を憎み、私怨によって引き起こしたものだった。
後日その者は捕まり、苛烈な拷問の末に死を迎えた。




