第一話 強くならなきゃ
永獄1645年8月29日。
オラシオン王国から南西に下ると、小国が乱れて多くある紛争地帯へと入る。その中でもイグレットらが滞在することになったのは、ドミテオ王国。
「着いたわよ。イグレット」
馬車の中で眠っていたイグレットは、母のユラコアの声で目を覚まし、ゆっくりと立ち上がった。
すでに父のルカットは外へ出ているようで、ユラコアと共に外に向かう。
「ルカットさん。ご武運を」
「えぇ。ありがとうございます」
馬車の持ち主であり御者の男は、ルカットに対して別れの言葉を告げる。そして、馬車を動かして来た道を戻っていった。
「母さん……僕たち、ここで暮らすの?」
目の前に広がる風景、砂埃が風に吹かれて舞い上がり、それに塗られた建物が並んでいる町。
道端で倒れて寝ている戦士らしき者たちや、浮かない顔で物を売る人に、買う人。
イグレットは思う──
ここに活気など微塵も感じられない。
故に実感した。これから住まうところは、自身が想像している以上に、過酷でどんよりとした場所なのだと。
「住めば都よ! 大丈夫大丈夫! ここでも私たちは上手くやってけるわ! 頑張るわよ!」
ユラコアの声を聞きながら、イグレットは馬車を見送るルカットの背中を見た。いつもなら彼の大きな背中が、今日は小さく見える。
「はい……母さん」
ただ、今の自身に絶望はない。
むしろ、頑張ろう──イグレットはそう思った。今こそ。父や母だけが頑張るのではなく、自分がもっと頑張らなければいけない。頑張ろう、今日から、頑張ろう。
ーーー
ドミテオ王国で暮らし始め、一週間が経った。
イグレットは相変わらず、今日も剣を振るう。
ただ、環境がガラリと変わった。
今、自身が住まう家は、元々オラシオン王国で住んでいた家の半分以下の大きさ。部屋数は五つほどで、自室でイグレットは剣を振っている。
「っ! ふっ……!」
なぜ家の中なのか。父に聞いても理由は教えてくれなかった。
「はぁ……はぁっ」
腕で額に垂れる汗を拭い、壁を見つめる──
──イグレットは黒い風を剣に纏わせながら。
(父さんは最近全然帰ってこないし……母さんも全然笑顔じゃない。やっぱり……僕が頑張らなきゃな)
子供の自分に何が出来るだろうか。考えても彼の頭の中には、剣士として強くなること以外なかった。
「……強くならなきゃ」
イグレットはそのことだけを考える。
しかし、彼には同時に、抱えている悩みもあった。
(強く……強くならなきゃ、早く……)
ここ、ドミテオ王国では力こそ正義。
強い者だけが生き残る。
一週間もここで過ごして、イグレットは頭で理解していたのだ。時は待ってはくれない、早くしなければ、自身や両親の身が危なくなる。
そこから湧き出る、焦燥感。
それが悩みだ。
朝に素振りを終えて、イグレットは少し遅めの時間に朝食を取る。一週間経ったが、母のユラコアはここに来てから常に空元気である。
「母さん?」
鍋を煮ながらボーッとしているユラコア。イグレットはそんな母の姿に、少し不安を感じた。
「……ん、イグレット? 素振りが終わったのね! 今日もしっかりやってて偉いわよ」
声を掛けると振り返って笑顔を見せるユラコア、しかしその笑顔に、活力などは感じられない。
「うん……でも、べつに偉くないよ。母さんたちの方が頑張ってるから、僕が頑張るのは当然」
七歳のイグレットはそう言ってみせた。すると、ユラコアは少し口を開きかけて、すぐさま息を呑み込むように閉じ、乾いた笑いをこぼす。
「……ご飯はもう出来てるから! ささっと食べちゃいましょ?」
自身の言葉に対して、ユラコアは話題を逸らすように言葉を発した。なので、イグレットも無言のまま机に向かって椅子に座ると、卓の上には質素な朝食が広がっていた。
「いただきます」
古来から全大陸に伝わる食前の挨拶、それを行なって食事を開始する。平たいパン、豆と肉をすり潰して焼いた物、そして綺麗な水を一杯。何の変哲もない質素な食事だ。
「……イグレット」
食べ始めてすぐ、イグレットはパンを咀嚼する中でユラコアから名を呼ばれる。彼女は自身と向かい合うように椅子に座る。
「っん、なに母さん?」
パンを飲み込めば、彼女はニコニコと言った。
「父さんに会えなくて寂しい?」
「うんさびしいよ……」
そう言うと、ユラコアは両手を机の上に置く。
「私も寂しいわ。でも……イグレットが居たら耐えられるの。だけど……今のままじゃいけない」
イグレットの手が止まる。
「母さんね。イグレットにはいつか、誰からも尊敬されて、誰からも憧れるような……立派な剣士になってほしいの」
ユラコアはいつもの空元気とは違い、微笑みながら話を続けた。
「イグレット、剣術の先生って欲しい?」
「先生? 父さんがいるけど……欲しいよ」
それを聞いて満足そうに、ふふっと言うユラコア。
「じゃあ決まりね。明日から先生が付くわよ!」
(先生……? いきなり……だけど、嬉しい。先生がいればもっとちゃんと強くなれるし……!)
イグレットはユラコアの言葉に、大きな希望を抱く。これでもっと強くなれる。それだけが幸せなのである。
ーーー
永獄1645年9月4日。
イグレットは昨日ユラコアと約束した通り、剣術の先生がいる建物へ母と共に訪れた。
「母さん……あの奥にいる人が?」
「そうよ」
ユラコアは自身の手を握ったまま、奥で正座する女性の方へと歩いていく。
「キリートさん。ですよね。父から聞いてます」
「そうか。私はキリート、家名はユルドジアと申す」
女性はキリートという名であり、立ち上がると少し屈み、左手をイグレットに差し出してきた。握手をしたいのだろう。
「よろしく。イグレット少年」
「こ、これからよろしくお願いします!」
(かっこいい人だなぁ……本当に女の人なのかな)
キリートは赤黒い長い髪を持ち、灰色の瞳を持っていて、真っ黒な長着を着用し、袴を着ている。
加えて、自身よりもはるかに身長が高い。
イグレットは彼女と目を合わせた後、相手から手を離された。そして、キリートはユラコアに向かって一つ、確かめるようにあることを聞いた。
「奥様、再度聞くのはお節介でしょうが……よろしいのでしょうか? 正直、厳しいご決断かと」
(厳しい……? 何が? 稽古がキツいってこと? なら全然大丈夫……僕は耐えられるし……)
イグレットはそう思いながらも、振り返ってユラコアを見上げる。
「いいの。このままじゃ、私が甘えているだけ。この子は誰よりも良い子……だから、だからこそ私が甘やかしちゃ毒になっちゃうの」
何を話しているのかはわからない。ただ、母の顔色は悪く、とてもこれからの未来を喜んでいるようには感じられなかった。
「そう……ですか。尊重いたします」
「どうか、イグレットを頼みます。キリートさん」
(頼む……? どういうこと?)
イグレットは段々とこの状況に恐怖を覚え始める。
「責任を持って、私が面倒を見ましょう」
「……ありがとうございます」
深くお辞儀するユラコア。
「母さん……?」
思わず、そう声が漏れてしまう。
すると、ユラコアはしゃがみ、こちらの両肩にそっと両手を置いて、優しさ溢れる微笑みを見せた。
「イグレット」
「母さん……僕、どうなるの?」
「これからは、母さんとは一緒に住まないだけ」
「……! なんで? なんでそんな……!」
なんで。なんでだ。イグレットはその思いで頭がいっぱいになる。
「イグレットは、剣士になりたいんでしょ?」
「そうだけど……離れたくなんてないよ!」
「大丈夫よ……住む場所が変わるだけ。会おうと思えば会えるわ。本当に、住む場所が変わるだけ」
「それがいやだよ母さん! 離れたくないっ!」
必死にこれからに対して抵抗するイグレット。
「……イグレット、お願い。受け入れるのよ」
「いやだ……いやだよ母さん! いやだぁ!」
久しく駄々をこねた。イグレットは涙をボロボロと流しながら、必死にユラコアへと抱きつく。
そうしたら、母は呆気なく床へ崩れるように倒れた。
「わかってる。私も……離れたくなんてない。でも……でもあなたがこれから生きていくには……強くならなきゃいけないの。この世界はっ……危険で残酷なの」
ユラコアは涙声でこちらの頭をがっしりと抱きしめてくる。それなのに、窮屈さは全く感じられず、肌に伝わるのは温もりと、悲しさ混じりの心地良さだけ。
「母さん……っ」
「今のあなたは弱すぎるの。だから……だから強くなりなさい。誰にも負けないくらい……強く」
頭を撫でられる。自身の頭の上で、ユラコアの手が交互に動くたび、胸が締め付けられる。
「……強くなるのよ──
世界一大好きな……私の可愛いイグレット」
日差しが窓から入り込む中、日陰となる場所にて抱きしめ合う二人。キリートは無言のまま目を閉じて立ち尽くす中、時間はゆっくりと過ぎていく。
そして、ユラコアはイグレットを引き剥がすように、そっと横に退かした。こんなこと、初めてのことだった。
「母さん……母さんっ!」
涙で視界がボヤける。
それでもはっきり見える母の後ろ姿。
「私は……これで。あとはお願いします」
顔は見えなかった。
それでも泣いていることはわかった。
なら、自身も連れて帰ってくれと思う。
けれども、置いてけぼりにされるのだ。
「承知いたしました」
そうして、気がつくと自身の視界からは、母親の姿が消えていた。
その時、イグレットは実感する。
(僕は……強くならなきゃいけないんだ)
「……イグレット少年。午後から、早速修行だ」
七歳と言えど、退けぬ状況を察したイグレット。
「……はいっ」
彼は決意する。
強くなると。
誰にも負けないくらい。
そう思った時──
イグレットは涙を拭い、立ち上がっていた。




