第89話 付録1 ある女の話
2004年9月
その人と出逢ったのは職場の視察だった
四ノ海の下請け会社に勤務していた私からそれば雲の上の人
親会社のトップが来るものだから工場内は嵐の様に慌ただしかったのだ
彼の名前は四ノ海額蔵さん どんなお爺ちゃん社長が来るのかと思って身構えていれば
自分とあまり歳が変わらない好青年 四ノ海の人間は二十歳で社会に飛び込むんだって
スーツ姿で並ぶ視察団に私がどうこうする事は勿論無い
ただ真面目に仕事する姿勢を見せるくらいかな 社員一人の印象が社風になることもあるので
「栗田嬌音さんですね?」
「えっ……?」
私の名前だという認識が遅れ 目の前の四ノ海額蔵に粗相をしてしまう
「ここの仕事はどうだい? 働き心地の程は?」
「だ…… 大丈夫です……」
額蔵さんが私をジロジロ見ている
正確には背後のフライス盤の稼働具合とかだと思うけど
そして彼等は去ってしまった そしてお昼のチャイムが鳴る
食堂で一人寂しく弁当を食べていると またもや彼が近付いて来て
「席が空いてなくてね 相席良いかな?」
「はっ…… はい……」
まともに男性と話したことの無い私にとって 同じ男性と何度もお話する機会はこれが初めて
額蔵さんは外面も申し分ないので勿論周囲を見渡せば 他の女性社員は私を目の敵にしていた
「ここの食堂の料理は美味しいね!! 栗田さんは普段お弁当なのかい?」
「そう…… そうですね…… 手作りです……」
「君の弁当も美味しそうだ 結婚する相手は毎日が楽しいだろうな!」
「そっ…… そんなことはないですよ///」
「そんなことあるって! 俺が保証してやる」
楽しい時間だった 今までの人生でこの何気ない会話をしている自分が一番輝いていた
終了時刻になってタイムカードに記録し 退勤する足取りは重い
ーーもう会えないよねぇ…… こんな小さな工場に次いつ来るかも分からないし
泣きそうになっていたがこれが現実 社会の縮図など理解し切っているつもり
額蔵さんと私では住む世界が違い過ぎるんだと 飲み込む瞬間に躊躇は無い
「今日は定時なんですね栗田さん」
「うわぁっ!!」
思わず声を上げてしまう 周囲の人間に注目されてしまうが
私はただ一点だけを見てしまう 横に立っている額蔵さんが幻かとも思ってしまった
「一応出張だからさ 今晩は外食にしようかと思ってるんだけど
栗田さん…… 良い店知らないかい?」
「えっと…… どうでしょう…… ここ田舎ですし 額蔵さんの口に合うかどうか……」
「あっ…… 下の名前……」
「あぁごめんなさい!!!! 今の違うんです…… 遂……」
「…………」
「遂……///」
「……オススメの店 案内してくれますね?」
「はい…… 私でよろしければ……」
自宅に帰り バッチリおめかしすれば
家の前では黒い外車が待ってくれていた
人生の転換期 玉の輿なんて言葉は当然チラつく 物にしたい
邪だと言われようとも恋した相手は 自分に興味を持ってくれているのだから
紹介した店は個室を用意出来るってだけの 市内では庶民レベルでちょっと高い寿司屋さん
予約室にはすでに額蔵さんが先に寿司を食べて待っていたのだ 自分が入室すれば慌てだして
「あぁごめんね先に頂いて……!! ここの寿司がとても香ばしくてさ……」
「……フフッ」
ーーあぁヤバい…… 好きだわ……
彼を好きになったのは一目惚れも嘘ではない
だけど仮に金持ちだとか 良い会社の良い役職だとかどうでもよくなった
人柄が好き 愛そうと思えば永続出来る確証が目の前にある
「栗田さんは何が食べたい? 勿論俺の奢りだから遠慮は無しでお願いしますね?」
「私はそうですね……!! ここはいくらが美味しいんですよ!! ……四ノ海さんは何が気に入りました?」
「名前で呼ばれなくなっちゃったなぁ……」
「っ……!! 額蔵さんは何がお口に合いましたか?」
「丁度俺も何品か食べてねぇ いくらがすげぇ美味かった」
「そうですよね!! 私の家族も全員好きなんですよぉ!!」
寿司も進むがお酒も進む 店の前でちょっとクラクラしていると
そのフラついた身体を額蔵さんが優しく抱き寄せてくれた
「額蔵さんっ……?」
「確か…… バイパス沿いに良い場所があったよね?」
「あぅ…… えぇ……」
まさか一日だけで知り合った男性とラブホテルに行くなんて
自分の人生では予想だにしない出来事だった
彼のシャワー室から出て来る動きを只管目で追っているのが精一杯
酒は普段から飲まない方なので 自分がここまで弱いとは思わなかった
ベッドで寝ている私の隣に彼もやって来る
「……愛してるよ栗田ちゃん」
「ふえぇ…… ふえぇぇぇぇ????」
言葉は聴き取れる だけど理解が追いつかない
本気で言ってくれてるなら嬉しいけど 正直本音であって欲しい
「君からも聞きたいな……」
「……はい 私もです」
行為は三回と中々肉体的にしんどかったが ゴムを付けなかったことに愛を感じてしまっていた
そのまま朝を迎えると 何と机には書き置きが
『仕事が入ってしまい 大変申し訳なく思っている
また今度 こちらから連絡させて貰います 忘れられない夜でした』
「……そりゃぁ忙しいよね 四ノ海グループの御曹司だもん」
だけど ここからが地獄だった
数ヶ月経っても 彼から連絡が無い日々を過ごしていた私
そんなある日 工場長室に呼ばれる私を待っていたのはこの会社の社長と工場長と弁護士
「栗田さんですね? 私は弁護士の二又左衛門三郎と申します」
「えっ…… あぁはい……」
「……御懐妊ですか?」
「……え? まぁはい」
「そうですか…… それは良かったです」
机の上には見たこともない大金の山が積み重なっていた
「実は額蔵氏には正妻がおります」
「はっ?」
「彼は実に愛妻家でしてね 子供を何匹も産んで奥様に苦労をさせたくないと申してまして
しかし四ノ海グループを維持して行く為の跡取りは何人かいた方が もしもの時に途絶えなくて済む
なので方々で妾の子をストックとして蓄えて置くという英断をして貰いました」
「……あの 話が上手く…… 見えて来ません……」
「聞けばここの工場は赤字ギリギリだそうで
なのでここの二人からの提案で 君に妾の子を一人 育てて貰いたいんですよ」
「そんな…… 勝手に……」
私は絶望という言葉だけで自分を表現出来ないでいた
「あの二大財閥の内 四ノ海の血を継いだお子さんを養えるんだぞぉ?!
名誉なことですよねぇ社長?」
「あぁ!! うちの会社も潰れなくて済むし 派遣社員の君も苦労しない筈だ
経営不振で先に切らなければいけないのが派遣組からだなんて…… 私は心苦しいんだよぉ」
「だからって…… 一言くらい……」
目の前の三人が平気な顔をしているのが理解出来ないでいた
この場合はセクハラ? パワハラ? モラハラ?
違う 今 私が聞きたいのはただ一つ
「額蔵さんは…… 私を愛していなかったのでしょうか弁護士さん……?」
「そればっかりは私に聞かれても だけど君と彼はたった一日だけしか交流が無かったんだよね?
それなのにラブホテルに同行して性交渉も成立していたと額蔵氏はおっしゃっていますが?」
「だって…… だってそれは……」
「あくまで自分が被害者だと述べるなら私は否定しません
裁判に発展してもおかしくはないと思ってますので今日私はここにいるんです
その上で言わせて貰えますが 貴女の危機管理が甘かったの一言で済むと思うんですがね」
「っ……」
「因みにあちらはしっかり証拠も残しております ボイスレコーダーに一部始終を録音していました」
「……何が 何が起こってるの? 会社は…… 会社は訴えますから……!!」
「そう焦らずに テーブルに置かれているのは示談金です
貴女は今妊婦さんです 裁判は長い目で見積もってもその身体には害しかありませんよ?
弁護士として言わせて頂きますが 子供一人育てる為に必要以上の額です
悪い話ではありませんが?」
「えと…… えとぉ……」
泣き崩れなかったのは自分の強さだと それでやり過ごした
味方が一人もいないとき 為す術が無いのだと痛感した
結局流れに流されるまま私は 旦那もいない息子を生んでしまった
その後は即座に会社を辞めるが 社長や幹部達は面白いほど私を引き留めなかった
高層マンションで旦那もいないのに専業主婦で子育て生活
それでも一度は愛した人の子を育てる いつか額蔵さんが帰ってくると思って懸命に育てた
そして子が産まれて十九年後 何も変わらない それどころか悪化していた
息子の泉太郎は父親に似てしまったのだ それが溜らなく辛かった
限界を感じた私は目的もなく遠くへ逃げた
東京の新宿まで辿り着けば いよいよ覚醒剤に手を出してしまう
その日暮らしで頭もハイになって 息子のことなんてどうでもよくなっていた
「君…… 薬やってるね?」
「はえぇ??」
ーーお巡りたんに連れて行かれたのは~~ 病院でした~~ へへへ~~
アタチは何から逃げていたんでちょぉ~~
しごとぉ? おかねぇ? れんあいぃ? ……恋ぃ
「おいお前何をしている?!」
「東海林妖様にごたんが~~ん ごたんが~~んのダンスでちゅ~~!!」
「おい鎮痛剤持って来い!!」
「おねがいしましゅ~~!! おねがいしましゅ~~!!
あの頃に戻してぇ……!!!! あの一日に戻してぇ!!!!
あぁぁぁぁあああああああああああああああああああ!!!!!!!!!
あぅあぁ~~!!!! うぇぇっ!!!! うぇぇええええええええんっ!!!!」




