第六十四話 ごま油と圧搾機
十二月に入った朝。
新居の庭には、うっすらと霜が降りていた。
吐く息は白く、朝の空気は肌を刺すように冷たい。
「さむっ……」
ショーが両腕をさすりながら、白い息を吐いた。
「今日の歩数は、日本酒が残り八十万歩だ」
「八十万……まだそんなにあるんですね」
ユウが、ため息まじりに空を見上げた。
「毎日五万歩ずつなら、あと十六日ですね」
シオが涼しい顔で計算する。
「それなら、年末には間に合うな」
「間に合ってしまうのが、つらいところです」
ユウがぼそりと呟いた。
文句を言いつつも、全員が防寒用の外套を羽織って玄関に集まっている。
どうせ歩くなら、目的がある日のほうがいい。
今日の目的は、ごま油だ。
「ごま油、ですか?」
「ああ。担々麺のラー油にも、味噌ラーメンの仕上げにも、あれがあると味が一段上がる」
菜種油なら、もう手に入る。
だが、あの香ばしい香りは、ごまを炒って搾らなければ出ない。
使うのは、黒ゴ草と白ゴ草の種だ。
孤児院の畑にも、ポルコの野原にも、雑草のように生えていた植物である。
ラーメンWalkerで確認すると、どちらも油を搾るのに適した素材だった。
『黒ゴ草の種(★★)香味向き』
『白ゴ草の種(★★)香味向き』
ラーメンマップには、街の北に広がる枯れ野に、星の印が点々と灯っていた。
「ごま、いっぱい?」
ミソラが、ぴょんぴょん跳ねながら先頭を歩く。
「いっぱいだと、いいんだけどな」
「いっぱいだよ!ミソラ、わかる!」
根拠のない自信だった。
「どうして分かるんだ?」
「なんとなく!」
ミソラは胸を張った。
その自信がどこから来るのかは分からないが、本人はすっかり確信しているらしい。
俺たちは笑いながら、街道を北へ進んだ。
そして、半日ほど歩いて辿り着いた枯れ野は、本当に黒と白のゴ草だらけだった。
「……すごい」
思わず足を止めた。
見渡す限り、枯れ茶色の茎が風に揺れている。
茎の先には、黒や白の小さな鞘がびっしりとついていた。
「ほんとに、いっぱいだ……」
ミソラが得意げに胸を張る。
「ね!」
「偶然だよな、ミソラ」
「ぐうぜん!」
ミソラは元気よく頷いた。
その胸元に飾られた麦の穂が、一瞬だけ金色にきらりと光った気がした。
……気のせいだ。
気のせいということにして、俺は袋を広げた。
収穫は、地味で根気のいる作業だった。
枯れた茎から鞘を摘み取り、指でしごいて中の種を袋に落としていく。
小さな種が、ぱらぱらと袋の底に溜まっていった。
「これ、本当に油になるんですか?」
ショーが手のひらに乗せた黒い粒を、疑わしそうに眺めている。
「なる。しかも、いい香りのやつがな」
「この粒から?」
「粒から、だ」
「まだ信じられませんね……」
「まあ、搾ってみれば分かるさ」
俺たちは手分けして収穫を続けた。
ショーとユウは鞘を集め、シオは袋の口を押さえながら種を受け止める。ミソラも小さな手で一生懸命に鞘を摘んでいた。
「ミソラ、いっぱい集めたよ!」
「おお、頑張ったな」
「えへへ!」
褒めると、ミソラは嬉しそうに笑った。
四人で作業を続け、日が傾く頃には、黒ゴ草が三袋。白ゴ草が三袋になっていた。
指の先が黒くなり、肩も少し重い。
それでも、袋の膨らみを見ると達成感があった。
「歩数、いくらですか?」
「今日で二万二千歩ほどだ。日本酒は、残り七十七万八千歩になった」
「ちゃんと稼げてますね……」
ユウが遠い目で頷いた。
どうやら、歩数が減ったことよりも、まだ七十七万歩以上残っていることのほうが気になるらしい。
翌日。
俺たちは、以前に黒ゴ草の油について尋ねた菜種油の工房へ向かった。
親方のボノさんは、持ち込んだ種の袋を覗いて目を丸くした。
「おう、あんたか。本当に集めてきたのか?」
「はい。これを搾っていただけますか?」
「搾るのは構わん。だが、そのまま搾っても油は出るが、香りは薄いぞ?」
「炒ってからにしたいんです」
「炒る?」
「はい。炒って香ばしくしてから搾るんです」
俺は工房の隅にある竈を借り、大きな鉄鍋に種を広げた。
火加減は弱火。
木べらで種を混ぜながら、じっくりと熱を通していく。
最初は、ただの黒い粒だった。
やがて、鍋の中で小さな音が鳴り始める。
ぷちぷちと、種が弾ける音だ。
「うわっ、跳ねた!」
「ミソラ、少し離れてろ」
「やだ!みる!」
「近づきすぎるなよ?熱いからな」
ミソラは不満そうに頬を膨らませたが、俺の隣からは離れた。
そして、しばらくすると、鍋から香ばしい匂いが立ちのぼってきた。
その瞬間、全員の動きが止まった。
「……なんですか、これ」
「いい匂い……」
香ばしくて、甘い。
炒った種の香りが、鼻の奥まで届く。
菜種油を搾るときにも独特の香りはあったが、これはまるで違う。
これこそ、ごま油の香りだ。
焦がさないように色を確かめながら、火を止める。
「これを冷ましてから搾ってください」
「分かった。やってみよう」
ボノさんは炒った種を布に包み、圧搾機の中へ入れた。
工房の中央に、その圧搾機は据えられていた。
太い木の梁に、鉄の歯車と軸を組み合わせた大きな機械だ。
ハンドルを回すと歯車が噛み合い、押さえ板がゆっくりと降りてくる。
布に包まれた種が、少しずつ圧縮されていく。
菜種を搾る様子は前にも見た。
だが、今日は機械そのものをじっくりと観察した。
歯車の噛み合わせに、がたつきがない。
鉄の軸は真っすぐで、驚くほど滑らかだ。
これだけ大きな機械なのに、ハンドルは少しの力で回る。
「……精巧ですね」
思わず呟くと、ボノさんは鼻を鳴らした。
「当たり前だ。十年前に王都から取り寄せたやつだからな」
「王都から?」
「ああ。ドワーフの職人の作だ」
「ドワーフ?」
その単語に、シオの耳がぴくりと動いた。
「ドワーフは、鍛冶や細工が得意な種族ですよね」
「そうだ。王都の鍛冶街には、腕のいい工房がいくつかある。この機械も、そのうちの一つの作だぞ」
「作った方の名前は、分かりますか?」
「さあな。買ったときに、ちらりと聞いたが……」
ボノさんは腕を組んで天井を見上げた。
「頑固な親方だと聞いたぞ?気に入らん客には、一切機械を売らんそうだ」
「気に入る条件は?」
「酒だ」
「……酒?」
「ああ。酒好きでな。うまい酒を持ってきた客の話なら、一晩中でも聞くそうだな」
酒。
俺は庭で眠る樽のことを思った。
百万歩の歩数を、今もこつこつと進めている、あのどぶろくだ。
搾って濾せば、清酒になる。
年末には、できあがる。
「……ボノさん。その話、もう少し詳しく教えてもらえませんか?」
「なんだ?急に目が怖いぞ」
「気のせいです!」
俺は笑顔で答えた。
油が搾れたのは、昼を過ぎた頃だった。
機械の下に置かれた壺に、琥珀色の油がゆっくりと垂れていく。
工房中に、あの香ばしい香りが満ちていた。
「できたぞ!」
ボノさんが小さな匙で油をすくい、俺に渡してくれた。
指先に垂らして、舐めてみる。
「…………」
濃い。
香ばしい。
そして、ほのかに甘い。
「ごま油だ」
思わず声が震えた。
「ラメルさん、また泣いてます」
「泣いてない。香りが目に染みただけだ」
「香りが目に染みるんですか?」
「染みる」
シオがくすくすと笑った。
黒ゴ草からは濃い茶色の油。
白ゴ草からは、やや淡い黄金色の油が搾れた。
黒のほうが香りが強く、白のほうが軽やかだ。
これなら料理によって使い分けられそうだった。
「合わせて、壺で十個分か。なかなかの量だな」
「ありがとうございます。残りの種は、またお願いするかもしれません」
「構わん。搾るだけなら、いつでも来い」
ボノさんは、搾りかすを指さした。
「こいつは家畜の餌にするが、欲しければ持っていけ」
「それは、いただきます」
搾りかすも、何かに使えるかもしれない。
俺は油の入った壺と搾りかすを、ラーメンボックスに収納した。
その夜。
新居の台所で、さっそく試作を始めた。
まずは、ごま油を使ったラー油だ。
カラチの実を細かく砕いて耐熱の器に入れる。
別の鍋で、ごま油をじっくり温めた。
油が十分に熱くなったところで、器に注ぐ。
じゅわあっと派手な音が響いた。
カラチの赤い色が、油にじわじわと溶け出していく。
「……すごい匂いだ」
ユウが少し咳き込みながら言った。
「ごまの香りと辛みが合わさって……お腹が鳴ります」
「まだ食べてないのに、もうお腹が空いたの?」
ショーが笑う。
「だって、いい匂いがするんですから!」
次に、担々麺のスープを作る。
ゴマダレに肉味噌。そこへウルフ出汁を加える。
最後に、仕上げのラー油を垂らした。
今までは菜種油で作っていたものを、ごま油に替えただけだ。
だが、一口すすった瞬間、全員の目が丸くなった。
「……全然違う!」
ショーが声を上げた。
「香りが、ぜんぜん違います!」
「ふわって、ごまが来ます!」
シオも汗をかきながら夢中ですすっている。
「辛いけど、おいしい……!」
ミソラはラー油抜きの小さなどんぶりを抱え、ごまダレの香りを楽しんでいた。
「いいにおい……ごまの、においだ……」
みんなの顔に笑みが浮かぶ。
やがて、ふわりと全員の体が橙色に光った。
ごまは、自分たちの手で集めたものだ。
だから、今回も効果はちゃんと残る。
「これは、店でも出せるな」
俺は確信した。
ごま油があれば、担々麺はもちろん、味噌ラーメンの香り付けにも使える。ラー油も自家製にできる。
料理の幅が一気に広がった。
だが、その喜びと同時に、一つの問題も見えていた。
数日後。
昼の営業が終わったあとの工房で、リウムさんが黙って麺の束を数えていた。
「……足りない」
「足りませんか?」
「……くさうまは、限定三十食だからいい。マシマシも、二十食」
「はい」
「……だが、醤油、味噌、塩、海鮮。通常のメニューが、昼夜ともに、ほぼ毎日売り切れる」
リウムさんは麺箱の底を指さした。
工房の職人たちも、休む間もなく麺を打ち続けている。
だが、人が増えても、手打ちには限界がある。
一玉ずつ生地をこね、伸ばして、切る。
太さを揃えるのは、熟練の職人でも簡単ではない。
「……もう少し、人を増やすか」
「それも考えました。でも、麺の素に触れる人間は増やしたくない」
「……そうだな」
俺は頭の中で、雑誌のページを思い出した。
『製麺機のしくみ』
丸い胴体の中で回るローラー。
生地を挟んで、薄く均一に伸ばす仕組み。
刃のついたローラーで、細く切り分ける仕組み。
「リウムさん。実は、機械で麺を打つことを考えています」
「…………機械?」
「はい。人の手の代わりに、歯車とローラーで生地を伸ばして、切るんです」
リウムさんが、ゆっくりと瞬きをした。
「……人の手の仕事が、なくなるのか?」
「なくなりません」
俺ははっきりと言った。
「生地をこねるのも、麺の素を調合するのも、茹で加減を見極めるのも、人にしかできません。機械は、その手間を減らすだけです。むしろ、リウムさんたちがもっと麺の改良に時間を使えるようになります」
リウムさんは、しばらく黙っていた。
分厚い手のひらを、じっと見つめている。
「…………面白い」
「面白いですか?」
「……俺にも、ひとつ頼みがある」
「何でしょう」
「……その機械、俺にも触らせてほしい!」
職人の血が騒いだらしい。
「もちろんです。一番に、リウムさんに触ってもらいます!」
その夜。
台所で、みんなに今日の話を伝えた。
「王都へ、行きたい!」
「おうと?」
ミソラが首をかしげる。
「この国で、いちばん大きな街だ。ドワーフの鍛冶屋さんがたくさんいる!」
「製麺機を作ってもらうんですね!」
シオが静かに頷いた。
「ああ。あと、寸胴や包丁や、麺を茹でるための道具も、まとめて頼みたい!」
「ミヤンの鍛冶屋さんじゃ、だめなんですか?」
「普通の鍛冶屋じゃ、あの精度は出せない。それに、図面を説明するのにも相当な根気がいる」
雑誌のページは、俺にしか読めない。
図面も、仕組みも、俺が自分の言葉と絵で伝えるしかない。
「……絵は、得意ですか?」
ユウが悪気なく尋ねた。
「……苦手だ」
「やっぱり」
「でも、何とかする!」
台所に笑い声が広がった。
「王都は、遠いですよね」
「馬車で二日ほどだそうだ」
「冬の旅ですね」
「寒いのは嫌いか?」
「寒いのは嫌いですけど……雪の中で食べるラーメンは、きっと最高です!」
ショーが楽しそうに肩を揺らした。
「それは、間違いないな」
王都へ行くのは、日本酒が完成してからだ。
清酒ができる年末が、旅立ちの目安になる。
手土産には、ラーメン屋の味をそのまま詰めた一樽を持っていこう。
酒好きの頑固なドワーフに通じるかは分からないが、試してみる価値はある。
「今日は、日本酒が残り七十五万歩だ。年末までに、しっかり歩くぞ」
「……はい」
全員が観念したように頷いた。
窓の外では、雪が静かに降り始めていた。
ラーメンボックスの隅では、日本酒の樽がひっそりと眠っている。
ごま油の香りが、台所にまだ残っていた。
製麺機。
王都。
ドワーフの親方。
新しい旅の輪郭が、少しずつ見えてきていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
第六十四話は、ごま油づくりと製麺機の必要性に気づく回でした。
黒ゴ草と白ゴ草の種を集めて炒り、菜種油の工房で搾ってもらいました。
炒ってから搾ることで、香ばしいごま油が完成!ラー油や担々麺の香りが、一段と豊かになりました。
そして、気になったのは圧搾機。
精巧な造りの機械を作ったのは、王都のドワーフの職人だそうです。
酒好きで頑固という、なんだか気になる情報も手に入りました。
一方、リウムさんの工房では、手打ちだけでは麺の生産が追いつかなくなってきています。製麺機を導入したいラメルに、リウムさんも職人の血を騒がせている様子です。
次回は、日本酒の完成と年越し。清酒と酒粕が、どんな活躍をするのか。お楽しみに!
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