第六十三話 麹と蔵と最初の一樽
十一月も半ばを過ぎた朝。
新居の台所で、俺は空っぽの樽をのぞき込んでいた。
「……やっぱり、ないな」
底に残っているのは、白いカビがうっすらと付いた米粒がほんの少し。
カビ米。
醤油にも味噌にも欠かせない、麹の元だ。
「ラメルさん、カビ米がどうかしたんですか?」
シオが朝食のスープを運びながら首をかしげた。
「ああ。ちょっと困ったことになってな」
「何かあったんですか?」
「在庫が底をついたんだ」
「えっ、もうですか?」
シオが樽の中をのぞき込む。
「買いに行けばいいんじゃないですか?前の穀物倉庫なら、ただ同然で譲ってくれますよね?」
「それなんだけどな」
俺は樽を置いて腕を組んだ。
「あの倉庫のカビ米は、湿気で傷んだ米が偶然カビただけだ。毎回、同じ品質のものが手に入るとは限らない」
「確かに……。あれは売り物にならないから譲ってもらえたんでしたね」
「そうだ。今までは量が少なかったから何とかなった。でも、これから醤油や味噌をもっと作るとなると話は別だ」
俺は空っぽの樽を軽く叩いた。
工房ができて、麺は安定して作れるようになった。
醤油と味噌も、店の看板を支えている。
なのに、その土台となる麹だけが、他人の倉庫の『運』任せだ。
「せっかく醤油や味噌を増やしても、麹が手に入らなかったら作れなくなっちゃいますね」
シオが心配そうに樽を見つめる。
「そういうことだ。仕入れ先の都合で生産が止まるようじゃ困る」
「それって、ちょっと危なくないですか?」
ユウがパンをかじりながら話に加わった。
「ああ。だから今日から麹を自分たちで作る」
「自分たちで、ですか?」
「ああ。カビ米を種にして増やすんだ」
「えっ、カビ米を増やすんですか?」
ショーも興味深そうに身を乗り出した。
「正確には、カビ米に付いている麹菌を増やすんだ。今ある分を種にすれば、次からは新しい米を使って麹を作れる」
「じゃあ、最初に少しだけあればいいんですね!」
「そういうことだ」
俺は残ったカビ米を、大事にひとつまみ小皿に取った。
「ラーメンWalkerの歩数醸造があれば、きっとできる」
「また、歩くんですね……」
ユウがいつもの遠い目をした。
「今回は、三万歩だ」
「三万なら、まあ……」
「お?ユウがだんだん慣れてきたな」
「慣れたくなかったです」
「でも、三万歩なら一日で終わるだろう。みんなで街を歩けば、あっという間だ」
「その『あっという間』が長いんですよ……」
ユウが小さくため息をついた。
「まあまあ。歩いた分だけ、おいしいものができるんだから!」
ショーがユウの肩を叩く。
「ショーは気楽でいいですね……」
麹作りに使うのは、ふくら米だ。
カレーのときに見つけた、炊くとべちゃっとする米。
普段の食事には少し使いにくいが、麹にするには向いている。
粒が水を吸いやすく、麹菌がしっかり入り込めるからだ。
「まずは、ふくら米を洗って水に浸す。それから蒸すんだ」
「いつものご飯とは違うんですね」
シオが蒸し器をのぞき込む。
「ああ。炊くんじゃなくて蒸す。水っぽくなりすぎないようにするんだ」
「なるほど。だから蒸し器なんですね」
大きな蒸し器から、白い湯気がもうもうと上がった。
新居の庭が、一気にお米の甘い匂いに包まれる。
「いいにおい……」
ミソラが蒸し器の前で鼻をひくひくさせている。
「ミソラ、つまみ食いはまだだぞ?」
「してないもん!みてるだけ!」
「本当か?さっきからお米のほうに顔が近づいているぞ」
「だって、いいにおいがするんだもん」
ミソラが少しだけ頬を膨らませた。
「もう少し待てば、ちゃんと食べられるものもできるからな」
「ほんと?」
「ああ。だから今はお手伝いを頼むぞ」
「おてつだい!」
蒸し上がった米を広げて、人肌まで冷ます。
熱いままでは麹菌がうまく働けない。かといって冷ましすぎてもいけない。
温度を確かめながら、米をほぐしていく。
「よし。このくらいなら大丈夫だ」
そこへ、種になるカビ米をぱらぱらと振りかけた。
「ミソラ、これを混ぜる係だ」
「まぜまぜ!」
「ただし、力いっぱい混ぜちゃ駄目だぞ。米粒を潰さないように、全体に行き渡らせるんだ」
「つぶさないで、まぜまぜ?」
「そうだ。優しくな」
ミソラは小さな手をそっと米の中に入れた。
最初は恐る恐るだったが、少しずつ慣れてくると、両手で米をすくいながら丁寧に混ぜ始める。
「こう?」
「そうそう。上手だぞ」
「ミソラ、じょうず?」
「ああ。とても上手だ」
「えへへ!」
褒められたミソラは、嬉しそうに頬を緩めた。
「ラメルさん。ミソラに任せて大丈夫なんですか?」
シオが少し心配そうに尋ねる。
「大丈夫だ。最後は俺たちで確認するからな。それに、こういう作業は丁寧さが大事なんだ」
「じゃあ、私も手伝いますね」
シオも隣に座り、米の混ざり具合を確かめ始めた。
ショーとユウも加わり、全体に種が行き渡るように整えていく。
「これで全部混ざったかな?」
「ああ。十分だ」
全体が混ざったところで、木の箱に移した。
それをラーメンボックスに収納する。
『麹を造りますか? はい/いいえ』
「はい」
『醸造を開始します。残り歩数:30000歩』
「三万歩か。五人で歩けば、一日で終わるな」
「また森ですか?」
「いや、今日は街の中を歩く。買い物がてらだ」
歩数を稼ぐついでに、俺たちは街を回ることにした。
向かった先は、リウムさんの工房の隣にある空き地だ。
工房を買ったとき、隣の土地も一緒に売りに出ていた。
広さは、工房の半分ほど。
「ここに、蔵を建てようと思う」
「くら?」
「醤油と味噌と、それから麹を作って、寝かせておく建物だ」
今までは、新居の庭に樽を並べていた。
だが、これ以上増やせば庭が樽で埋まってしまう。
何より、醤油と味噌は店の命だ。
人目につかず、温度や湿度を管理しやすい建物で仕込みたい。
「工房の隣なら、リウムさんも見に来られる」
「麺の素と同じで、守りやすいですね」
シオが頷いた。
ダルクに紹介してもらった大工の親方に、さっそく相談した。
「蔵か。ずいぶん立派なことを考えとるな」
親方は図面を見ながら顎をさすった。
「石の土台に、分厚い壁。窓は小さく、風通しは確保。床は水を流せるように傾斜をつける……」
「できますか?」
「できるが、金はかかるぞ」
「いくらくらいでしょう」
親方が指を折った。
「金貨百五十枚だ」
「……」
ミヤン大球で貯えがほぼ底をついたばかりだ。
だが、くさうまラーメンとマシマシラーメンのおかげで、この一ヶ月の売り上げは過去最高を更新している。
「分割でもいいですか?」
「構わん。あんたの店は評判がいいからな」
親方は豪快に笑った。
「その代わり、完成したら一番に、あの黒い水を舐めさせてくれ」
「醤油ですね。もちろんです」
夕方になる頃には、三万歩を超えていた。
新居の庭に戻ると、視界に表示が浮かんだ。
『麹:残り歩数 0歩』
『醸造が完了しました』
「できた!」
ラーメンボックスから木の箱を取り出し、蓋を開ける。
白い米粒の表面が、ふわふわとした白いカビで覆われていた。
鼻を近づけると、栗のようなほのかに甘い香りがした。
「……これは、いい麹だ」
指でほぐすと、米粒が一粒ずつさらさらと離れる。
「うわあ、ふかふか」
ミソラが箱をのぞき込んだ。
「これが麹だ。もう、カビ米に頼らなくていい」
「やった!」
「しかも、これで次の麹を作れる。米さえあれば、いくらでも増やせるぞ」
俺は麹を一握りだけ別の瓶に取り分けた。
次の仕込みの種にするためだ。
さて、麹ができたとなると、もう一つやりたいことがある。
「ラメルさん!!」
シオがじとっとした目で、俺の顔を見た。
「その顔は、ろくでもないことを思いついた顔です!」
「ろくでもなくない」
「じゃあ、何を作る気ですか?」
「日本酒だ」
「にほん……しゅ?」
「米と麹と水で作る、お酒だ。まず白く濁ったどぶろくができる。それを濾して搾ると、清酒と酒粕に分かれる」
前世の俺は、あまりお酒を飲まなかった。
ラーメンを食べ歩くには、胃袋の余裕が必要だったからだ。
だが、日本酒は違う。
飲むためじゃない。
料理に使うんだ。
「みりんも日本酒もない世界で、カエシを作るのは苦労した」
砂糖と、市場で買った安い酒で何とかしてきた。
だが、きちんとした日本酒があれば、醤油ダレも煮豚もスープも、もう一段階上の味になる。
「それに、酒粕もできる。あれは使い道が多い」
「さけかす?」
「酒を搾ったあとに残る白いかすだ。甘酒にもなるし、粕汁にもなる」
「甘酒……!」
ミソラが目を輝かせた。
「聞いたことないのに、おいしそうな気がする」
「正解だ。冬にぴったりの飲み物だ」
日本酒の仕込みは、麹作りよりも大がかりだった。
蒸したふくら米。
出来立ての麹。
そして、新居の井戸水。
「井戸水が、いいんですか?」
「ああ。この水は柔らかくて雑味がない。酒造りにはうってつけだ」
大きな樽に、米と麹と水を順番に入れる。
手でていねいに混ぜ合わせると、白く濁った液が樽の中でゆらゆらと揺れた。
「……見た目は、ちょっと不気味ですね」
ショーがおそるおそるのぞき込んだ。
「これが、もろみだ。ここからお酒になる」
ラーメンボックスに収納する。
『どぶろくを醸造しますか? はい/いいえ』
「はい」
『醸造を開始します。残り歩数:1000000歩』
「百万歩だ」
その数字を聞いた途端、ユウの顔からさっと血の気が引いた。
「ひゃ、ひゃくまん……!?」
聞き間違いではないかと確かめるようにユウが俺を見つめる。
「味噌が六十万だったからな。それよりも、もう少し時間がかかるらしい」
「六十万でも相当だったのに、さらに増えるんですか……」
ユウは頭を抱えた。どうやら味噌のときの苦労を思い出しているらしい。
「一人一日一万歩。五人で歩いても二十日ですね」
シオが指を折りながら計算する。相変わらずこういうときは冷静だ。
「そうだな。順調にいけば年末には完成するな」
「年末……。それまで毎日、一万歩ずつ……」
ユウが力なく呟いた。まだ始めてもいないのに疲れ切ったような顔をしている。
「冬は雪も降るし、大変だな!」
俺はこれからの道のりを想像しながら声を上げた。
雪の中を歩くのも悪くない。冬ならではの景色も楽しめるだろう。
「なんで嬉しそうなんですか?」
ショーが呆れたような顔で俺を見た。
「いや、歩くのは俺のスキルの本領だし」
「ラメルさんのスキルは、いつも俺たちの足で動いてます!!」
ショーが勢いよく突っ込んだ。
「その分、うまいものが食べられるだろう?」
俺は二人に向かって笑いかけた。
実際、これだけの歩数を稼ぐのは楽ではない。だが、その先には自分たちで仕込んだ醤油や味噌が待っている。さらに新しい料理だって作れるはずだ。
そう考えれば、多少の苦労は仕方がない。
ショーとユウは顔を見合わせた。
どうやら返す言葉が見つからなかったらしい。
二人は納得したような、まだ諦めきれないような顔で、しぶしぶ頷いた。
その夜。
皆が寝静まったあと、俺は台所の椅子に座った。
目を閉じる。
頭の中で、雑誌を開く。
『ラーメンWalker』
最近は、仕込みの合間にも読み返すのが癖になっていた。
塩。醤油。味噌。辛味。豚骨。
灰色のページは、まだまだ残っている。
最後のページを閉じたとき。
『ラーメンWalker 読了』
『全能力+1アップ』
ふわり、と全身が橙色に光る。
続けて、頭の中の雑誌が、ばさりとめくられた。
『新しいページが解放されました』
灰色だったページが、すうっと色を取り戻していく。
新しい見出しが現れた。
『製麺機のしくみ』
「……製麺機」
思わず、声が漏れた。
ページには、細かな図解が載っていた。
丸い胴体の中で回る、二枚の太いローラー。
生地を挟んで、薄く均一に押し伸ばす仕組み。
伸ばした生地を、刃のついたローラーで細く切り分ける仕組み。
歯車、ハンドル、刃の間隔を調整するダイヤル。
「これを作れば、リウムさんの負担がぐっと減る」
工房に働き手は増やした。
だが、全員が手打ちをしていては、生産量に限界がある。
それに、手打ちでは太さにばらつきも出てしまう。
機械なら、いつでも同じ麺が作れる。
「でも、作れる人がこの世界にいるのか」
ページに載っているのは、複雑な構造だ。
普通の鍛冶屋では、まず作れない。
それに、このページは俺にしか読めない。
「図解を、自分で描いて説明するしかないか……」
俺は自分の絵心のなさを思い出して、頭を抱えた。
前世の美術の成績は、ずっと二だった。
「……まあ、何とかなるだろう」
小さく呟いて、ページを閉じた。
そのとき、ふと昼間の光景が頭をよぎった。
菜種油の工房で、圧搾機を見たときのことだ。
職人が種を布に包み、てこの原理で強く押し込んでいた。
精巧に作られた機械で、歯車も軸もがたつきがなかった。
「あの圧搾機を作った人なら、もしかしたら……」
窓の外では、初冬の月が白く光っていた。
庭の隅では、日本酒の樽が静かに眠っている。
歩数を重ねるたびに、白く濁った液が少しずつ、どぶろくになっていく。
搾って濾せば、清酒と酒粕に分かれる。
製麺機。
日本酒。
そして、新しい蔵。
俺のラーメンの世界が、また一歩、広がろうとしていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
第六十三話は麹の自給化と日本酒の仕込み、そして製麺機のページ解放の回でした。
カビ米の在庫切れをきっかけに、ふくら米と種になるカビ米から麹を自作できるようになりました。
工房の隣には、醤油・味噌・麹の仕込み蔵を建てる計画も始まっています。
日本酒の仕込みは百万歩の醸造で、まずできるのはどぶろくです。
これを濾して搾り、清酒と酒粕に分けます。ラメルは飲むためではなく、料理のために作るようですね。
最後に解放されたのは製麺機のページ。ただ、読めるのはラメルだけで絵心には不安が残ります。
次回、ゴマ油づくりと、圧搾機を作ったドワーフ職人の情報集めです。
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