第五十一話 カレーは広めるもの
ミニカレー騒動から三日が過ぎた。
銀の耳の食卓の前には、今日も妙な客が立っていた。
鼻をひくひくさせながら店内を覗き込む者。窓の下で立ち止まる者。通りの向こうで腕を組み、こちらの様子を窺う者。
冒険者ではない。エプロン姿の中年男や前掛けをした老人たちだ。
「……偵察ですね」
シオが小声で言った。
「ああ。同業者だな」
俺は鍋をかき混ぜながら頷いた。
無理もない。
この三日で、街の食堂は客がごっそり減ったらしい。カレーの匂いに誘われた連中が、こぞってうちに流れてきたのだから。
昼の営業が終わる頃、様子を窺っていた同業者たちが、意を決したように店へ入ってきた。
先頭に立つのは、北門通りで食堂を営むガロ爺さん。
白い眉毛の下から、鋭い目で俺を睨んでいる。
「店主。ちょっと話がある」
「はい。何でしょう」
「あの『カレー』とかいう料理だ。あれは何だ。ウチの常連が三日も来ねえ」
「すみません。ご迷惑をおかけして……」
「迷惑じゃねえ!」
ガロ爺さんは机を叩いた。
「教えろ!」
「……え?」
「あの味だ!ウチの客が毎日あれの話しかしやがらねえ!悔しいが、うまかった!」
後ろに並ぶ店主たちも、うんうんと頷いている。
どうやら、怒鳴り込みに来たのではなく、カレーの作り方を教わりに来たらしい。
「あの、俺たちも!」
別の声が割り込んだ。穀物屋の店主だ。
以前、ふくら米を安く売ってくれた人である。
「ふくら米が突然売れ出して、倉庫が空になったんだ。ありがてえ話だが、客に『炊くとべちゃっとするぞ』と言うたび、胸が痛くてな……。あんたが炊いたのは、粒が立っていたそうじゃないか」
「ああ。炊き方にコツがあるのと、水加減を控えめにするだけですよ」
「それだ!それを教えてくれ!」
穀物屋は深々と頭を下げた。
俺は少し考えた。
ここが分かれ道だな。
麺の秘密は、絶対に守る。
それは決めている。重曹を焼いたかん水もどきは、銀の耳の食卓の命だ。
男爵の件で、その重みは嫌というほど思い知った。
だが、カレーは違う。
香辛料は、獣人の国でも孤児院の畑でも雑草として生えていた。
調合の比率と、ご飯にかけて食べるという発想は確かに俺が持ち込んだものだ。だが、それが広まったところで、ラーメンの価値が減るわけじゃない。
むしろ、だ。
カレーが街中に広まれば、香辛料を求める流れができる。ふくら米の需要も増える。香りの強い食べ物に慣れた人が増えれば、いつか担々麺もみそカレー牛乳ラーメンも、もっと自然に受け入れてもらえるだろう。
それに、何よりも大きな理由が一つ。
「……うちの厨房が、カレーで回らなくなってるんだよな」
思わず本音が漏れた。
ラーメン屋の厨房が、おまけのカレーに振り回されている。これ以上は本末転倒だ。
「分かりました」
俺は顔を上げ、店主たちを見渡した。
「カレーは、お教えします」
「本当か!?」
ガロ爺さんが身を乗り出した。後ろにいた店主たちも、驚いたように顔を見合わせる。
「ただし、条件が二つあります」
俺は指を二本立てた。
「一つは、ご自分の店で出すカレーに、ご自身の工夫を加えることです」
「工夫、だと?」
「はい。俺が教えるのは、あくまで基本の作り方です。出汁を変えるなり、具材を工夫するなり、店ごとの味を作ってほしいんです。同じ味のカレーばかりになったら、街がつまらなくなりますから」
せっかくカレーが広まるのなら、どの店でも同じものが出てくるより、それぞれの店らしい味が生まれたほうが面白い。
ガロ爺さんは腕を組み、しばらく考え込んだ。
「なるほどな……。ウチなら、いつものウルフの出汁を使うのも面白そうだ」
「いいと思います。俺のカレーをそのまま再現する必要はありません。お客さんが喜ぶ味を考えてみてください」
「ふん、言われるまでもねえ。教わったからには、ウチの味にしてみせるさ」
ガロ爺さんは口元を緩めた。ほかの店主たちも、それぞれ自分の店ならどうするか、考え始めたようだった。
「もう一つは、ラーメンの麺については、何も聞かないことです」
その言葉に、店主たちの表情が変わった。
中でも、ガロ爺さんの眉がぴくりと動く。
「……麺、か」
「はい。カレーの作り方は教えますが、ラーメンの製法については別です。あれは俺たちが試行錯誤して作り上げた、大切な商売道具ですから」
重曹を焼いて作る、かん水もどき。
それを使って生み出す麺は、銀の耳の食卓の看板を支えるものだ。簡単に明かすつもりはない。
店主たちの間に、短い沈黙が流れた。
やがて、ガロ爺さんが豪快に笑った。
「はっはっは! そりゃそうだ! 商売の秘密まで全部さらせなんて、誰も言えねえよな!」
爺さんは俺を見据え、満足そうに頷いた。
「カレーは教える。だが、麺の作り方は教えない。なるほど、筋が通ってるじゃねえか」
「納得していただけましたか」
「当たり前だ。こっちだって、長年かけて作り上げた味がある。それを簡単に人に教えろと言われたら、いい気はしねえからな」
ガロ爺さんは、背後に並ぶ店主たちを振り返った。
「お前らもそうだろ?」
「ああ、そりゃそうだ」
「自分の店の味は、自分で守らなきゃな」
次々と賛同の声が上がる。
どうやら、話はまとまったらしい。
ガロ爺さんは改めて俺に向き直ると、右手を差し出した。
「よし。カレーの作り方、ありがたく教わろう。その代わり、ウチのカレーが完成したら、あんたにも食ってもらうぜ」
「それは楽しみですね」
俺はその手を握り返した。
カレーの作り方を教えることで、街の食堂が活気を取り戻す。しかも、店ごとに違う味が生まれれば、食べ歩きを楽しむ客も増えるはずだ。
ラーメンの秘密さえ守れれば、悪い話じゃない。
「では、まずは基本のカレー粉の配合から説明します」
俺がそう告げると、店主たちは一斉に身を乗り出した。
翌日から、店の入口の脇に小さな台を出した。
台の上には、布袋に詰めたカレー粉を並べ、その前に手書きの札を立てた。
『カレー粉 小袋 鉄貨二枚』
一袋で四人前。カレー粉だけでなく、ふくら米の炊き方とカレーの作り方を書いた紙も一緒に入れてある。初めて作る人でも、これさえ読めばひと通りのカレーが作れるようにするためだ。
レシピには、いくつか大事なコツも書き添えた。
米は水を控えめに。
具材は炒めてから煮る。
マルネギリは、じっくりと火を通す。
小麦粉はバターの代わりに油と練り、ダマにならないよう少しずつ鍋に溶かし入れる。
本当ならバターを使いたいところだが、この世界ではまだ手軽に手に入るものじゃない。どこの家庭でも作れるようにするなら、身近な油で代用するのが現実的だった。
これなら、特別な道具も珍しい食材も必要ない。材料さえ揃えば、街の食堂でも一般家庭でも作れるはずだ。
書き終えたレシピを読み返しながら、俺はふと懐かしい記憶を思い出した。
前世のカレールウの箱の裏に書いてあった作り方と、ほとんど同じだな。
肉や野菜を炒めて、水を加えて煮込む。別に油と小麦粉を練って、とろみをつける。最後にカレー粉を加えて仕上げる。
細かな違いはあっても、基本は変わらない。
ラーメンWalkerの付録を元にしているのだから、当然といえば当然か。
「ラメルおにいちゃん、これ、ぜんぶうれるの?」
ミソラが台の前にちょこんと座り、並んだ小袋を数えていた。
「たぶんな」
「かれー、いっぱいふえる?」
「ああ。街中がカレーの匂いになるかもな!」
「やったあ!」
ミソラは両手を挙げて喜んだ。
その拍子に、胸元をぽんぽんと押さえる。
「……ん?どうした」
「えへへ。なんかね、だれかもうれしそうなの」
「誰か?」
「うん。わかんない」
ミソラは首をかしげたまま、また小袋を数え始めた。
……最近、この子の言うことは時々よく分からない。
まあ、害はなさそうだし、気にしないでおこう。
カレー粉は飛ぶように売れた。
昼までに、用意した百袋が空になった。
慌てて追加の調合に取りかかる。
ウッコの根を削り、クミーの種を炒り、コリアの実を挽く。ユウの父も黙って石臼を回してくれた。
三日もすると、街のあちこちから香辛料の匂いが漂い始めた。
ガロ爺さんの食堂では、『ガロ流カレー』が看板になった。ウルフの骨でとった濃いめの出汁を使う、爺さんらしい力強い一品だ。
通りの屋台では、串焼き屋のおっちゃんが『カレー串』を売り出した。
角ウサギの肉にカレー粉をまぶして焼くだけの簡単な代物だが、これがまた酒に合うらしい。
穀物屋は店先に大きな札を出した。
『ふくら米炊き方の紙つき大安売り』
人々の家庭の食卓にも、じわじわとカレーが浸透していった。
ミヤンの街は、ちょっとしたカレーブームに包まれた。
問題は、冒険者たちだった。
「いや、絶対にカレーが上だ!」
夕方の店内で、ダルクが拳を握っていた。
「ライスにかけて食うんだぞ?あれは反則だ。腹に溜まるし、香りもいい。スプーン一本で食えるんだぞ!」
「何を言ってる!」
向かいの席にいた斥候の若者が立ち上がった。
「ラーメンは麺をすする楽しみがある!スープを飲み干す幸せがある!あれこそ至高だ!」
「カレーは仲間と鍋を囲める!野営に最高だ!」
「ラーメンだって囲めるわ!」
「カレー!」
「ラーメン!」
店内が真っ二つに割れた。
魔法使いの女は、カレーライスを頬張りながら冷静に言った。
「どっちもおいしいじゃない」
「いや、決着をつけるべきだ!ラメル、あんたはどっちだ!」
ダルクが俺を指さした。
全員の視線が集まる。
カレーを広めたのは俺だ。ここで曖昧な返事をすれば、収拾がつかなくなるだろう。
そんなことは分かっている。
だが、それ以前に答えなんて決まっていた。
俺は深く息を吸い込み、厨房から店内へ向かって叫んだ。
「ラーメンだ!!」
一瞬の静寂。
次の瞬間、ラーメン派から歓声が上がった。
「うおおおお!」
「さすが店主!」
「当たり前だ、ここはラーメン屋だぞ!」
「ぐぬぬ……」
ダルクが悔しそうに唸る。
「だが、カレーも教えてくれた兄ちゃんには感謝してる……」
「それは、どうも」
「だからラーメンも食う。ミニカレーも付ける」
「結局全部頼むんじゃないですか」
シオが呆れ顔で言った。
店内に笑いが広がった。
……どうやら、論争は平和的に終結したらしい。
冒険者たちの騒ぎが落ち着くと、俺は厨房に戻った。
カレー粉の調合に使う道具を片づけながら、棚に並べた材料を確認する。
ウッコの根も、クミーの種も、コリアの実も、残りがだいぶ少なくなっていた。
無理もない。
カレー粉は店頭に並べれば飛ぶように売れる。昼までに百袋が売り切れた日もあったのだ。
追加の調合を繰り返していれば、材料が減るのも当然だった。
「この調子だと、そろそろ仕入れを考えないとな……」
カレー粉を売るのは、街の食堂を活気づけるためにも悪くない。
だが、肝心のスパイスが手に入らなくなれば、カレーを作ることも、売ることもできなくなる。
そもそも、これらの香辛料は獣人の国でも孤児院の畑でも雑草扱いだったものだ。
今までは必要な分だけ集めればよかったが、街中でカレーが流行し始めた以上、これまでと同じ感覚ではいられない。
需要が増えれば、いずれ採取するだけでは足りなくなるかもしれない。栽培できるのか、安定して仕入れられるのか。そのあたりも考えておく必要がありそうだ。
「ラーメンの材料もあるし、カレーの材料もか……。商売ってのは、なかなか大変だなぁ……」
俺は小さく息を吐いた。
とはいえ、今すぐ材料が尽きるわけではない。まずは残りの在庫を確認して、次の仕入れを考えるところからだ。
そんなことを考えながら閉店の準備を進めていると、やがて店内の客も少なくなり、最後の客を見送る時間が近づいてきた。
そして閉店間際。
店の扉が静かに開いた。
入ってきたのは、見たことのない男だった。
背が高く、肩幅も広い。
金色の豊かな鬣のような髪や髭、鼻筋の通った精悍な顔立ちに琥珀色の瞳。
ライオン、獅子の獣人だった。
上等な布の外套を羽織り、後ろには二人の護衛を従えている。ただ者ではないと、一目で分かった。
「失礼。営業は、まだ間に合うだろうか」
低く、落ち着いた声だった。
「は、はい。まだお出しできます」
「ありがたい。では、失礼する……」
獅子の男は店内を見回したあと、入口脇の小さな台に目を留めた。
そこには『カレー粉 小袋 鉄貨二枚』と書かれた札と、売り物の小袋が並んでいる。
男はそちらへ歩み寄ると、小袋を一つ手に取った。
そして、袋の口に鼻を近づけ、そっと香りを嗅いだ。
「…………これは」
男の琥珀色の瞳が、わずかに見開かれた。
「どうかしましたか?」
俺が声をかけると、男は小袋を手にしたまま振り返った。
「失礼。少し、懐かしい香りがしたものでね」
男はもう一度、袋の中の粉末に目を落とした。
「これは、我が国のごく普通の雑草の香りだ」
店内が静まり返った。
「……雑草、ですか」
「ああ。畑の隅や道端に、いくらでも生えている。誰も見向きもしない草だ」
男は小袋をそっと台に戻し、俺をまっすぐに見つめた。
「その雑草が、この街では行列のできる料理に使われている。ミヤンに入って三日、どこへ行っても同じ香りがしてね。気になっていたところ、ここでカレー粉を売っていると聞いたのだ」
男は軽く胸に手を当てて一礼した。
「私はレオ。バナチャス獣王国の商人だ」
バナチャス。
シオの故郷の国だ。
「この粉を作ったのは、あなたかな?」
俺は、ごくりと唾を飲み込んだ。
シオの耳がぴんと立つ。ショーとユウも、ぴたりと動きを止めた。
どうやら、とんでもない客が来たらしい。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
今回は、カレーが街に広まっていくお話でした。
麺の秘密は絶対に守る。
でも、カレーは広める。ラメルの線引きがはっきりした回になりました。
そして、ラーメンVSカレー論争。
店主の答えはもちろん「ラーメンだ!」です。
ミソラの「だれかもうれしそうなの」は、きっと気のせいですね。たぶん。
そして最後に登場したのは、獅子獣人の商人レオ。バナチャスでは雑草扱いの香辛料が、ミヤンの街で大人気の料理になっていると知って現れました。
次回ラメルの手に、驚きの大金が……!
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