第五十話 創造神は見てしまった
神界の神殿は、朝から静かだった。
白い柱が並ぶ回廊を、創造神ターディオンはゆっくりと歩いていた。
世界を創り、光の三神教の主神として地上を見守る神である。
ここ数日、彼の頭を悩ませているのは、一柱の女神の行動だった。
「……また、いないのか!!」
ファリーナの執務室の前で、ターディオンは足を止めた。
扉の向こうには、書きかけの神務書類が山のように積まれている。
その傍らで、記録係の神官が青い顔をして立っていた。
「そ、創造神様……!」
「ファリーナはどうした」
「その……ただいま、食文化の研究中でして……」
「研究?」
「はい。目を閉じたまま、じっと動かれないのです」
ターディオンは眉をひそめた。
食文化の研究。確かにファリーナの管轄ではある。
だが、ここ最近の彼女は明らかにおかしい。
神務を後回しにしている。
水鏡の前から離れない。
何かを見ては、頬を緩ませている。
そして先日は、小さな声で「おかわり……」と呟いていたという報告まで上がっている。
「……何を見ているのだ、あれは」
「それが、私どもにも……」
神官は視線を泳がせた。
本当に分からないのか。それとも、分かっていて言いたくないのか。
どちらにせよ、まともな答えは期待できそうになかった。
水鏡の間は、神界の中でも特別な場所だった。
神殿の最奥に位置するこの部屋には、世界各地の出来事を映し出す神聖な水鏡が置かれている。
神々はこれを通じて地上の様子を見守ることができるのだ。
その中央で、金色の髪の女神は水面を覗き込んでいた。
水鏡の周囲には神聖な光が淡く漂い、水面には遠く離れた地上の風景が映し出されている。
そこに映っているのは、食卓を囲む人々と、湯気の立つ料理だった。
「ふふ……ふふふ……」
怪しい。
どう見ても怪しい。
女神は水鏡に映る料理を食い入るように見つめ、口元を押さえては肩を震わせていた。
ときおり頬を緩ませ、何かを思い出すように目を細める。
まるで、目の前に料理があるかのように、時折小さく唇を動かしている。
麦穂の冠を戴いたその姿は、生命と慈愛、そして豊穣と食文化を司る女神ファリーナそのものだ。
だが、今の彼女からは神々しい威厳よりも、おいしいものを前にした子供のような無邪気さがにじみ出ていた。
しかも、彼女はここしばらくこの水鏡の間に入り浸っている。
神務を片づけるどころか、書類を放り出して地上の様子を眺め続けているのだ。
食事の時間が終わっても水鏡から離れず、地上の少女が次の一口を運ぶたびに、嬉しそうに頬を緩めている。
そんな女神の背後に、足音を立てずに近づく影があった。
創造神ターディオンである。
白い衣をまとった彼は、しばらくファリーナの様子を観察していたが、やがて静かに声をかけた。
「ファリーナ」
「ひゃあっ!?」
女神の肩が跳ね上がった。
慌てて振り返った拍子に、麦穂の冠がわずかに傾く。
「そ、そそ、創造神様!?いつからそこに!?」
「少し前からだ」
「そ、そうですか……いえ、これは違うのです!」
「何が違う」
「これは、その……食文化の研究でして!」
ファリーナは慌てて両手を広げ、水鏡を背中に隠した。
もちろん、隠しきれてはいない。
そもそも、水鏡は彼女の背丈ほどもある。両手を広げたところで、映し出されている光景を覆い隠せるはずもなかった。
水面には、白い湯気の立つ料理が映っていた。
その前に座っているのは、まだ幼い小さな少女だ。
少女は両手で器を支えながら、料理を一口ずつ幸せそうに頬張っている。
口元には笑みが浮かび、食べるたびに頬が緩んでいた。
ときには目を細め、満足そうに頷いている。
その無邪気な姿を見つめるファリーナの表情も、まるで自分が食べているかのように幸せそうだった。
ファリーナは、まさにその様子に夢中になっていたのだ。
「……ファリーナ」
「はい……」
「見せなさい」
「…………はい」
女神は観念したように、そっと身を引いた。
水鏡の前から退いたファリーナは、叱られるのを待つ子供のように、両手を胸の前でぎゅっと握りしめた。
水鏡の中では、食堂のような店の一角で銀色の耳を持つ少女や少年たちが食卓を囲んでいた。
木製のテーブルには食器や帳簿が並び、食事の合間にも忙しなく人が行き交っている。
店内には活気が満ちており、料理から立ち上る湯気が、食卓を温かな雰囲気で包んでいた。
その中心にいるのは、黒髪の少年。
目の前には料理が並んでいるというのに、少年はそれを気にする様子もなく、帳簿を前に頭を抱えている。
時折、数字を指で追いながら何かを考え込んでは、深いため息をついていた。
その隣では、小さな少女が一生懸命に紙へ向かっていた。
まだ幼い手でペンを握り、慣れない様子で文字を書きつけている。
水鏡の水面が揺れるたびに、少女の真剣な横顔が淡く揺らいだ。
「……この少女は」
ターディオンが水鏡を見つめたまま尋ねた。
「ミソラです」
ファリーナは小さな声で答えた。
「私の、分身です……」
ターディオンはしばらく黙っていた。
水鏡に映る少女と、その隣で帳簿に頭を悩ませている黒髪の少年を交互に見やる。やがて、何かを察したように眉間へわずかに皺を寄せた。
「……分身を下ろしたのか」
「はい」
「神託も下さずに」
「だって、ラーメンが食べたかったのです……」
「食べたかった?」
「はい」
あまりにも正直な答えだった。
言い訳の一つでも用意しているかと思えば、まったくそんな様子はない。ファリーナは叱られると分かっているのか、麦穂の冠にそっと手を添えながら、気まずそうに視線を落としていた。
ターディオンは目を閉じ、静かに息を吐いた。
「ファリーナ。私は、お前が地上へ分身を下ろすことそのものを咎めるつもりはない」
「ほ、本当ですか!?」
ファリーナの顔がぱっと明るくなった。
「ただし」
ターディオンは目を開けた。
「ほどほどにしておけよ」
「…………はい」
先ほどまでの明るい表情が、あっという間にしぼんだ。
「神務の書類が積み上がっているのも、知っている」
「うっ……」
ファリーナの視線が泳いだ。
彼女の執務室には、まだ目を通していない書類が山のように残されている。
神官たちが何度催促に訪れても、ファリーナはそのたびに「あとで確認しますわ」と笑顔で返し、水鏡の間へ戻ってきていたのだ。
「それに、感覚を共有しているのだろう。仕事中に食事の感想で震えるのはやめなさい」
「ど、どうしてそれを……!」
「神官たちが報告に来ている」
水鏡の間の隅で、記録係の神官がそっと顔をそむけた。
どうやら、女神の奇行は神界でもすでに知られているらしい。
「……分かりましたわ」
ファリーナは両手を胸の前で組み、しょんぼりと頷いた。
もっとも、その目はまだ水鏡をちらちらと追っていた。
地上の少女が食事をするたび、彼女の視線もそちらへ吸い寄せられてしまうのだ。
ターディオンはそんな様子を見て、もう一度小さく息を吐いた。
「ところで創造神様」
「何だ?」
「先ほどの料理ですが、カレーライスと言いまして……」
「聞いていない」
「ライスの甘みと香辛料の刺激が、お肉の旨味と絶妙に調和して……」
「聞いていない」
「とても、おいしかったのです……」
「…………」
ファリーナはうっとりと目を細めた。地上で味わったおいしさを思い出しているのだろう。
本人は神界にいるというのに、その表情には、まるで今も目の前でカレーライスを食べているかのような幸福感が浮かんでいた。
ターディオンはほんの少しだけ、その料理に興味を持ってしまった自分に気づいた。
慌てて咳払いをし、そんな考えを追い払う。
ミソラを分身として地上に下ろした件は、ひとまず許すことにした。
だが、ターディオンが気になったのは別のことだった。
水鏡に映る、あの黒髪の少年。
「ファリーナ。あの少年は何者だ」
「ラメルです。ラーメンという料理を作っている少年で……」
「ラーメン」
「はい。とてもおいしいのです」
「それは聞いた。そうではなく、少年の素性を聞いている」
「素性、ですか?」
ファリーナはきょとんと首をかしげた。
「そういえば、くわしくは存じませんわ。ラーメンのことばかり見ていて……」
「…………」
ターディオンは額を押さえた。
「……お前は本当に、食べ物のことしか頭にないのだな」
「そ、そんなことはありませんわ!」
即座に否定するファリーナだったが、言葉とは裏腹に、その視線は再び水鏡へと向かっていた。
ターディオンは深く息を吐いた。
「調べる」
「え?」
「あの少年の素性を、だ」
ターディオンは水鏡へ手をかざした。すると、水面に波紋が広がり、ラメルの経歴が光の文字となって浮かび上がった。
貴族の長男として生まれたこと。
成人の儀で授かったスキルを、神官たちに「無価値」と断じられたこと。
そして、父親に追放され、家を出たこと。
淡々と浮かび上がる記録を追っていたターディオンの目が、ある項目で止まった。
そこに記されていたのは、授かったスキルの名だった。
『ラーメンWalker』
「……ラーメンWalker?」
ターディオンの声が低くなった。
「そんなスキルは、私の世界には存在しない」
「え?」
「私が定めた権能の中に、そのようなものはない。少なくとも、この世界の神々が与えるスキルではない」
ターディオンが水鏡に目を向けると、光の文字がさらに浮かび上がった。
ラーメンに関する情報が載った書物。食材の適性判定。保管の力。
どれも、この世界の理とは異なる仕組みだった。
さらに、ラメルの魂の記録には、この世界では見られない印が刻まれていた。
「……地球」
「地球、ですか?」
「別の世界だ。この少年は、そこから来た転生者だ」
ファリーナが小さく息を呑んだ。
「だから、ラーメンという見たこともない料理を……」
「そういうことだ」
ターディオンは水鏡に浮かぶ記録を見つめたまま、静かに続けた。
「転生者がこの世界に来ること自体は、あり得ない話ではない。だが……」
この少年には、こちらの世界の神々が与えたものではないスキルが備わっている。
その使い方も知らされないまま地上に生まれ、周囲には理解されず、挙げ句の果てに追放されていた。
ターディオンの表情が険しくなった。
「…………」
やがて、彼は水鏡に刻まれた魂の記録へと視線を移した。
「ファリーナ」
「はい」
「この少年にスキルを与えた神の名は、記録にあるか」
ターディオンが手をかざすと、水鏡が静かに揺らいだ。ラメルの魂に刻まれた加護の痕跡が、淡い光となって浮かび上がる。
その光を目にした瞬間、ターディオンは静かに目を閉じた。
見覚えのある気配だった。軽薄で、雑で、悪気のかけらもない。
「……アイツの仕業だな」
「アイツ?」
「同期だ」
ターディオンは深いため息をついた。
遠い昔、創造神として世界を創り始めた頃。同じ時期に別の世界を任された、一柱の神がいた。
陽気で、気さくで、悪い奴ではない。
ただ、人の話を聞かない。
「またあの男か……」
「どなたのことですの?」
「後で話す」
ターディオンは水鏡から手を離した。浮かび上がっていた光の文字が消え、水面には再び、湯気の立つ食卓が映し出された。
その食卓では、ミソラが嬉しそうにカレーライスを頬張っていた。
「……ファリーナ」
「はい」
「あの少年と、ミソラは、よく見ておきなさい」
「それは、もちろん」
「ただし、神務は怠るな」
「……はい」
返事は、少しだけ小さかった。
同じ頃。地上のミヤンの街「銀の耳の食卓」の厨房。
閉店後の片付けを終え、ラメルは残った鍋を一つずつ洗っていた。
店内はすっかり静まり返り、聞こえるのは水の流れる音だけだった。
……ふと、背中に視線を感じた。
「…………?」
手を止めて振り返る。
誰もいない。
窓の外は、もう暗い。夜風がそっと吹き込み、窓辺に飾られた麦の穂を揺らした。
「気のせいか」
首をかしげ、鍋に向き直る。
「ラメルおにいちゃん!」
「うおっ!」
不意に背後から声がして、ラメルは思わず肩を跳ねさせた。振り返ると、すぐ後ろにミソラが立っていた。
「……びっくりした。どうした?もう寝る時間だぞ」
「あのね」
ミソラは小さな手で、自分のお腹をぽんぽんと叩いた。
「さっき、カレーいっぱいたべたの!」
「ああ。おかわりまでしたな」
「でもね、なんか、おなかすいた~!」
「……は?」
「へんなの。たべたのに、すいてるの!」
ミソラは不思議そうに首をかしげた。
ラメルも思わず首をかしげる。あれだけ食べたのに、もうお腹が空いたというのか。
「……明日の朝、ちゃんと食べような!」
「うん!あとね!」
「ん?」
「だれかが『もういっぱいおかわり!』って、いってるきがする」
「…………」
ラメルは返事に困り、もう一度だけ窓の外へ目を向けた。
夜空には、星が一つ瞬いている。
「……気のせい、だよな?」
誰に言い聞かせるでもなく呟き、ラメルは再び鍋を洗い始めた。これ以上考えても、答えが出るとは思えなかった。
そのとき、ミソラの胸元にある麦の穂がほんの一瞬、かすかに金色の光を放った。
ターディオンは水鏡の間を後にした。
神殿の回廊を歩きながら、彼は遠く離れた別世界の方角へ目を向けた。
「地球の創造神、クロノヴェル」
その名を口にすると、ターディオンはこめかみを押さえた。
「今度は、何をしてくれた」
答える者はいない。
神界の空はただ静かに輝いていた。
その静寂の向こう。
遠い別世界のどこかで、誰かがくしゃみをした気配がした。……ような気がした。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
第五十話は、神界が舞台のお話でした。
ミソラの分身を通じてカレーライスを堪能していたファリーナ様ですが、ついに創造神ターディオン様に見つかってしまいました。
ラメルの素性を知ったターディオンは、ラーメンWalkerの出どころにも気づいた様子。
「アイツの仕業だな」
……クロノヴェル、おそらくくしゃみをしていると思います。
同じ頃、地上ではミソラが「もういっぱいおかわり!」という声を聞いたようです。
ファリーナ様、感覚共有のせいで空腹になっているのでしょうか。
それとも、まだカレーライスが食べ足りないのでしょうか……?
次回もよろしくお願いします!




