第三十五話 降参の演技
七月十三日の夜。
ミヤンの街で一番高い宿の前に俺は立っていた。
後ろにはダルクが腕を組んで控えている。
宿の裏手の窓の下ではシオが物陰に潜んでいるはずだ。
獣人の耳なら部屋の中の声は全部聞こえる。
「いいのか、兄ちゃん一人で」
「大丈夫です。むしろ一人のほうがいい」
「何かあったらすぐ呼べよ」
「はい」
大きく息を吸い込む。
懐の中の薄灰色の小瓶と一通の羊皮紙を確かめた。
これから俺は世界一情けない男を演じる。
最上階の部屋の扉が開いた。
「男爵様がお会いになるそうです」
部屋は眩しかった。
壁も柱も燭台も金ピカ。床には毛皮の絨毯。
机の上には金の食器が並び骨付きの肉の山が築かれている。
その中央で巨大な体が椅子に埋まっていた。
ボッタ・クルード男爵。
噂以上の太りようだ。
指の宝石が燭台の火を反射してぎらぎらしている。
「ほう」
男爵は肉を噛みちぎりながら俺をじろじろ見た。
「貴様が銀の耳の食卓の店主か。思ったよりみすぼらしいのう」
隣にガリと呼ばれる男と包帯を巻いた若い男が立っている。
「お初にお目にかかります。ラメルと申します」
俺は深く頭を下げた。
「今日は男爵様に折り入ってお願いがあって参りました」
「願い?」
「どうか営業許可の再審査をお取り下げください」
男爵の目がぎらりと光った。
「ほほう。わしが取り下げさせるとでも?」
「これまでのご無礼をお詫びします」
俺はその場に膝をついた。
額を床に擦りつける。
前世で何百回やった。
取引先に頭を下げ、上司に頭を下げ、客に頭を下げる。
腰の低さだけは誰にも負けない。
「男爵様のお力に逆らうなど愚かでした。店を潰されては仲間たちが路頭に迷います。どうか」
声を震わせて涙まで絞り出す。
「……ふ」
男爵の肩が揺れた。
「ふははははは!」
腹が三段に揺れ椅子がぎしぎし鳴る。
「聞いたかガリ!あの生意気な店主がわしの前で這いつくばっておるぞ!」
「ははあ」
ガリが困惑した顔で俺を見ている。疑っているようだ。
「男爵様これは罠では」
「黙っておれ。見てみろ。この震える肩を。これが金の力というものじゃ」
男爵は上機嫌で肉をかじる。
ここまでは想定通りだ。
「それで何を差し出すというのじゃ」
「麺の製法です」
男爵の動きが止まった。
「製法と麺の素をすべてお譲りします」
「……ほう」
目が濁った金色に変わった。
「ただし条件がございます」
俺は顔を上げた。
「営業許可の再審査を取り下げていただくこと。そして明後日の公開審問の場で、男爵様ご自身から、私の店への処分を取り下げたと宣言していただきたいのです」
「わし自身がじゃと?」
「はい。街の人たちの前で男爵様が私の店を救ってくださったという形にしたいのです。そうすれば店の面子が保たれます。私の仲間たちも納得します」
男爵が顎を撫でた。
「ふむ……」
悪くない取引のはずだ。
麺の製法が手に入る。
そのうえ街の人間の前で勝利を飾れる。
見栄っ張りの男爵にとってはこれ以上ない舞台だ。
「面白い」
男爵はにやりと笑った。
「その申し出受けてやろう」
「ありがとうございます」
「契約書は?」
「ここに用意しております」
懐から羊皮紙を取り出して差し出す。
『麺の製法譲渡に関する契約書』
『一 ラメルは麺の製法および麺の素を男爵ボッタ・クルードに譲渡する』
『二 男爵ボッタ・クルードは自らが命じてミヤン商業ギルドに行わせた銀の耳の食卓の営業許可再審査を直ちに取り下げる』
『三 譲渡は七月十五日ミヤン商業ギルド会議室にて立会いの下で行う』
ネリアと夜なべして考えた文面だ。
第二条。
男爵自らが命じてギルドに再審査を行わせたと明記してある。
署名すれば男爵が自分で不正を認めた証拠になる。
ガリが紙を覗き込んだ。
「男爵様第二条は……」
男爵の目が細くなった。
「なんじゃ。わしが再審査を命じたと書いてあるのが気になるのか?」
「は、はい。これでは男爵様がギルドに指示を出したことを認める形になります」
「それがどうした」
男爵は鼻で笑った。
「わしがギルドに指示を出すことの何が悪い。あの店を調べる必要があると判断したのはわしじゃ。再審査を命じたこと自体に何の問題もないわ」
「ですが苦情の扱いについては……」
「苦情がどうであろうとわしは麺の製法を手に入れる。営業許可の再審査も取り下げてやる。それで取引は終わりじゃ」
ガリはなおも食い下がろうとしたが、男爵は手を振って遮った。
「それにこの紙はわしとこやつの間で交わす契約書じゃ。王都の役人が見たところでわしが何を恐れる必要がある?この程度のことでわしに手を出せる者などおらん」
「…………」
ガリは口を閉じた。
男爵は契約書に目を落とし、第二条をもう一度読んだ。
一瞬だけ眉が動いたがすぐに口元が緩む。
麺の製法さえ手に入れば銀の耳の食卓など恐れるに足りない。再審査を取り下げたところで店主の手元には何も残らないのだから。
男爵は羽根ペンをつかみ豚の印章を取り出した。
ぼたり。
封蝋が紙に落ちる。
金貨をくわえた豚の印が羊皮紙に押された。
その横に太い字で『ボッタ・クルード』と署名する。
俺は声に出さず拳を握った。
これで男爵が自ら再審査を命じたことを示す証拠は手に入った。
だが、これだけで苦情の捏造まで証明できたわけじゃない。
ネリアが集めた資料とギルド側の証言をつなぎ男爵の指示がどこまで不正に関わっていたのかを明らかにする必要がある。
「ありがとうございます」
「ふはは。それで見本は持ってきたのか」
「はい」
俺は懐から薄灰色の小瓶を取り出した。
「こちらが麺の素の見本です。本番は審問の日に全量をお渡しします。小麦粉に対して三割ほど混ぜてよくこねるのがコツです。茹でる時はじっくり長めに」
「三割?そんなに入れるのか」
「はい。それだけ入れて初めて本物の食感が出るんです」
笑顔で嘘をつく。
男爵は小瓶を手に取り蝋を割って匂いを嗅いだ。
「ふむ……灰のような匂いがするが」
「それが麺の素の特徴です。独特の風味が麺に深みを与えるんです」
「そうか」
男爵は満足そうに頷いた。
「約束の日を楽しみにしておるぞ」
俺は再び深く頭を下げて部屋を出た。
扉が閉まる。
廊下に出た途端足の力が抜けた。
背中にびっしょり汗をかいている。
「ラメルさん」
宿の外でシオが待っていた。
「全部聞こえました」
「聞こえたか」
「はい!署名の時の音もはっきり聞こえました。ペンの音も印章の音も」
シオがにっこり笑った。
「ラメルさんすごいです」
「ありがとう。でも本番は明後日だ」
ダルクも肩を叩いてくる。
「兄ちゃん、いい演技だったぜ。役者になれる」
「勘弁してください」
夜の街に笑い声が響いた。
その時ネリアが駆けてきた。
「ラメルさん。監察官の皆さんは明日の朝ミヤンに入ります。審問は予定どおりです」
「ありがとうございます」
全部揃った。
偽の麺の素。男爵の署名入りの契約書。ネリアの証拠。監察官。そして傍聴席を埋める街の人たち。
あとはこれらの証拠をつなぎ合わせて男爵の不正を明らかにするだけだ。
審問まであと二日。
男爵に一泡吹かせる日が近づいていた。
お読みいただきありがとうございます!!
悪徳貴族「ボッタ・クルード男爵」編、かなり時間がかかりました……。




