第二十五話 温泉卵と衝立の向こう
山を越えた中腹で俺はまず鼻をくんくんと動かした。
「……ここだな」
風に乗って鼻をつく独特の匂い。
卵が腐ったような硫黄の香りだ。
「うっ……くさい……」
シオが鼻を押さえて涙目になった。
獣人の鼻には強烈らしい。
「いい匂いだろ?」
「どこがですか!」
「くさうまみたいなもんだ」
「全然違います!」
岩場の奥に小さな湯治場があった。
木造の簡素な小屋と白い湯気を上げる大きな岩風呂がある。
管理人のおばあさんに入浴料を払って中へ入ると風呂は木の衝立で男湯と女湯に仕切られていた。
「お湯は仕切りの向こうでつながっとるでな。声はよう聞こえるよ」
日が暮れかけて空が茜色から群青に変わっていく。
俺はショーとユウと並んで男湯に浸かった。
「……ああ」
思わず声が漏れた。
熱い湯が全身に染み渡る。ここ数週間の疲れが溶けていくようだ。
「あつい!でも気持ちいい!」
「体がとろけそうです」
ショーとユウも頬を赤くしている。
前世ぶりの温泉。
この世界で入れるなんて夢にも思わなかった。
「ラメルさん。聞こえますか」
衝立の向こうからシオの声がした。
「聞こえるよ。どうだ」
「……思ったより気持ちいいです。お湯あったかい」
「だろ」
「星がきれいですね」
見上げると群青の空にいつの間にか星が瞬き始めていた。
湯気の向こうに無数の光が滲んでいる。
しばらく二人とも黙っていた。
水の音と虫の声だけが静かに響く。
……なんだかいい雰囲気だ。
隣ではショーとユウが気配を消すように湯の中へ沈んでいった。
「あのラメルさん」
シオの声が少しだけ震えている。
「私ラメルさんと旅ができてよかったです。毎日お腹いっぱい食べられて毎日楽しくて」
「俺もだよ」
「それであの……」
シオが言葉を探すように間を置く。
「最初に会った時『君を求めていたんだ』って言ってくれましたよね。あれが重曹のことだったのは分かってます。でも本当はちょっとだけ……嬉しかったんです」
「…………」
湯気がゆらゆらと立ちのぼる。
俺は何と答えればいいのか分からなかった。
その時だった。
視界の端に妙なものが映った。
湯の湧き出し口の近く。
岩の隙間に竹の籠が沈めてある。
その中に白くて丸いものがいくつか湯に浸かっていた。
「……あれは」
ラーメンマップが星を灯した。
『温泉卵(★★★)トッピング向き』
「…………温泉卵!?」
気づけば湯の中で立ち上がっていた。
「温泉卵だ!温泉卵があるぞ!」
「ラメルさん?」
「ショー!ユウ!先に上がるぞ!」
俺は慌てて湯から飛び出すと手ぬぐいを引っつかんで脱衣所へ駆け込んだ。
急いで服を着て受付へ向かう。
温泉卵があるなら買わない理由がない。
「おばあさん!湯の中の卵はいくらですか!」
「ああ。温泉卵かい?一個銅貨三枚だよ」
「三枚!?全部ください!」
おばあさんは受付の奥にある湯桶から出来立ての卵をすくい上げると網の袋に入れて渡してくれた。
「籠のぶんは夜までに仕上がるからね。今あるのはこれで全部だよ」
「ありがとうございます!」
袋を抱えた俺は受付前でさっそく卵をひとつ取り出した。
殻を割ると中から黄身がとろりと溢れた。
白身はぷるぷると柔らかく黄身は濃厚なクリームのようだ。
「これだ……これをラーメンの上に……」
思わず顔がほころぶ。
ひと口食べて天を仰いだ。
「うまい……!とろっとろだ……!」
完全に夢中だった。
……だから気づくのが遅れたのだ。
「ラメルさん」
背後から妙に低い声がした。
「……あ」
振り返るとシオが立っていた。
そのすぐ後ろにはショーとユウもいる。
金色の瞳がじっと俺を見つめている。
「……何ですか今の」
「えっと……温泉卵?」
「そうですか」
シオはぷいっと顔を背けた。
ぺしっ。ぺしっ。
シオが太ももを尻尾で苛立たしげに叩いている。
俺は卵を持ったまま固まった。
横を見るとショーとユウが真っ青な顔で俺を見つめていた。
「……ラメルさん」
「今のはないですよ」
二人は目を合わせて小さく頷いた。
「ぼ、僕たちは先に休憩所に行ってますね!」
「えっ?ああ……」
二人は逃げるように休憩所へ向かっていった。
ぺしっ。ぺしっ。
シオはまだ自分の太ももを尻尾で叩いている。
「……シオ?」
「知りません」
シオもぷいっと顔を背けると休憩所へ向かって歩き出した。
その背中を見送りながら俺は温泉卵を握りしめたまま呆然としていた。
……やってしまった。たぶん。
風呂上がりの休憩所。
壁際の長椅子にシオが座っていた。
湯上がりの毛並みはふわふわに膨らみ耳も尻尾もいつもの倍くらいのボリュームになっている。
けれど顔は思いきり横を向いていた。
「シオ。さっきは悪かった」
「知りません」
「聞いてなかったわけじゃなくて」
「ラメルさんは卵のほうが好きなんですね」
「そんなことないぞ」
「卵に夢中でした」
ぷいっ。
尻尾がぺしぺしと長椅子を叩く。
部屋の隅ではショーとユウが壁になりきるように気配を消していた。
目が合うと二人とも気まずそうに視線を逸らす。
……本当にごめん。
どうしたものかと途方に暮れた時だった。
休憩所の隅にある木の台に氷水に浸かった瓶が並んでいるのが目に入った。
『温泉名物 果実牛乳 鉄貨一枚』
「…………」
前世の記憶がよみがえる。
風呂上がりのあの瓶。
腰に手を当てて一気に飲み干すあれだ。
俺は鉄貨を握りしめて売り場へ走った。
「おばあさん!その瓶を四つください!」
冷えた瓶を手にシオの前へ戻る。
「シオ。これで手を打ってくれないか」
「……何ですかこれ」
「温泉の名物だ。風呂上がりに飲むんだよ。甘くて冷たくて最高なんだそうだ」
シオはじとっとした目で瓶を見つめた。
しぶしぶ受け取って蓋を開けると恐る恐るひと口飲んだ。
その瞬間金色の瞳がぱあっと見開かれた。
「……おいしい」
「だろ?」
「甘くて冷たくて果物の味がします!」
ごくごくと飲み進めるシオの尻尾がぱたぱたとゆっくり揺れ始めた。
「……許してくれるか?」
「……今回だけですよ」
ぷいっと顔を背けながらも尻尾は止まらない。
助かった。
ショーとユウにも瓶を渡すと二人はほっとした顔で一気に飲み干した。
俺も瓶に口をつける。
ほんのり甘い牛乳が火照った体に染みていく。
……牛乳か。
牛乳ラーメン……アリかも……。
鶏でも豚でもない新しいスープの可能性が頭の片隅に灯った。
「ラメルさん?」
「ん?」
「今変な顔してました」
「してないって!」
「してました!!」
シオの尻尾がまたぺしぺしと長椅子を叩いた。
お読みいただきありがとうございます!!
湯上りはコーヒー牛乳もいいですが、「フルーツ牛乳」派です。




