32.夜明け
フリッツに覆いかぶさったとき、なにかがフレンの耳の横を掠めていった。
「フレンッ!」
悲鳴を上げたノアが、懐から取り出した短剣で、騎士団長の利き腕を払った。
ギャッ、と団長が短く叫び、床に転がった。
ノアは足をもつれさせながら、フレンの元まで駆けてくる。フリッツを押しのけると、フレンを抱き起こした。
「フレン、フレン……。しっかりしてください。怪我はっ?」
フリッツに激突したせいで、視界がふわふわする。フレンはかぶりを振った。
――あら……? なんだか頭の右側だけ、軽い気がする……。
「フレン、髪が……」
ノアの言葉に、フレンは自らの首元に手をやる。
腰まであったはずの髪が、肩上の長さになっていた。
「首は? 耳は? 切れていませんか」
ノアの長い指が、フレンの右側頭部から耳、首筋を撫でる。
「平気……。どこも痛くないわ」
ぽたぽたと、フレンの頬に温かい雫が落ちてきた。
見上げれば、フレンを抱えているノアの目から、涙があふれている。
「よかった……。あなたが致命傷を負ったのではないかと……」
「ノアは、本当に過保護ね。大丈夫だと言っているでしょう?」
ところが、ノアの涙は止まらない。
「ですが、貴族令嬢の命たる髪が……。私が隙を作ったばかりに」
「いいのよ。むしろ、すっきりしたわ。この際だから、左側も切ってしまいましょう」
フレンは、床に落ちていたナイフを拾い上げた。フリッツの命を狙い、騎士団長が投げたものだ。そのナイフで、残った髪を切断する。
「どう? 似合うかしら」
「左側と右側で、長さが違っていますよ。毛先もぎざぎざです」
「帰ったら、ノアが整えてくれる?」
「もちろんです。うんと可愛くしましょうね」
どうやら、ノアの涙は止まったようだ。
彼の頬に残る雫を、フレンは拭う。
そのとき、すぐ近くから声が聞こえた。
「フレン。俺を守ってくれたんだな」
すっかり存在を忘れていた。フリッツである。
彼は、床で半身を起こしているフレンの傍らに、しゃがみ込んでいた。
「フリッツさま、お怪我はありませんでしたか?」
「ああ。お前が庇ってくれたおかげだ」
「それはよかったです。では、わたしたちはこれで」
ノアに支えられながら、フレンは立ち上がる。一刻も早く、黒鷲の団長に加勢しなければ。
「フレン嬢。我らを守ってくれたこと、心から感謝する」
「お姉ちゃん、ありがとう」
国王と、フリッツの弟たちが頭を下げてくる。
「いえいえ、臣下として、当然のことをしたまでです」
そのとき、謁見の間の扉が勢いよく開いた。
中へ入ってきたのは、黒鷲の団長を先頭に、白鷺と黒鷲の騎士たちだ。
黒鷲騎士団長は、国王に向かって頭を下げる。
「陛下、謀反を鎮圧いたしました。白鷺、黒鷲両騎士団とも、互いが謀反人だと思い込み、衝突しておりました。団員に妄言を吹き込んだのは、白鷺騎士団長だそうです」
黒鷲の団長の背後にいる両騎士団員たちが、国王に向かって膝をつく。
「白鷺騎士団長に踊らされ、騒ぎを起こしてしまいました。申し訳ありませんでしたっ」
フレンはふと、黒鷲の団長と目が合う。
彼はおちゃめなことに、フレンに片目をつむってみせた。
あとを国王や黒鷲団長に託し、フレンは馬上に揺られていた。
馬は、フレンの後ろにまたがるノアが操ってくれている。
フレンはぼうっと空を眺めた。
遠くの山なみから、わずかに日が顔を出し、深藍だった空に光を投げかけていく。
まるで世界が、深い眠りから目覚めていくかのようだ。
「長い夜でしたね。あなたが無事で、本当によかった」
背後から、ノアが語りかけてくる。
「ノアもお疲れさま。わたしを助けてくれて、ありがとう」
そこまで話したとき、フレンはあっと声を上げた。
「ノアは王弟殿下なのだったわね。これまで、さんざん失礼をしてしまったのではないかしら。ごめんなさい――、いいえ、すみませんでした」
「フレン、どうか今まで通りの言葉遣いでお願いします。私があなたに仕える騎士であることに、変わりはないのですから。それに――」
「それに……?」
フレンが聞き返すと、ノアの声に悲しみが混ざる。
「あなたによそよそしくされたら、また泣いてしまいそうです」
ふっとフレンは笑んだ。
「ノアって、実は泣き虫だったの?」
「フレンに関してだけは、どうやらそのようですね」
「では、これまでと同じに。わたし、ノアの涙には弱いみたい」
くすくすという二人分の笑い声が、早朝の空気に溶けていった。




