26.本当の幸せ
フレンはマリガ、エスタと別れ、ノアと馬車に揺られていた。
王宮と公爵家のタウンハウスは、目と鼻の距離にある。
すぐに自宅へ着いてしまうことが、フレンには名残惜しく感じられた。
フレンの気持ちを察したわけではないだろうが、兜を脱いだノアが語りかけてくる。
「フレン。あなたさえよければ、王都の城壁の外へ出ませんか」
「王都から離れるの……?」
「いいえ。王都を流れる川を下ると、すぐに湖があるでしょう。今日は天気がいいので、美しい湖面を見られるかと」
ノアの提案に、気分が高揚するのを自覚する。
「ぜひ、行きたいわ! わたし、あまり王都から出たことはなかったから」
「そうだと思いました。勉強のため、毎日のように王宮へ通っていましたからね」
リース公爵家には広大な領地がある。けれど、領地に戻るのは、せいぜい年に一度か二度といったところだ。
馬車を走らせ、王都の南門から城壁を抜ける。
しばらくのち、馬車は停まった。
ノアに手伝われて馬車を下りると、目の前には対岸が見えないほどの湖が広がっている。
「なんて綺麗なの……」
わずかにさざ波を立てる湖面は、日の光を反射し、まるでダイヤを散らしたかのように眩かった。
ノアが示した場所には、桟橋がある。
「あそこから、小舟に乗れるのです。あなたと船に乗る栄誉を、私にいただけませんか」
「も、もちろんです……」
ノアに微笑みかけられると、途端に言葉がたどたどしくなってしまうフレンである。
まずはノアが小舟に乗り、フレンに手を差し出してきた。
「どうぞ。怖くありませんよ」
桟橋と小舟の間にうごめく水面に臆したのも一瞬のこと、フレンはノアの手を取り、とんと船の上に降り立った。
ノアの向かいに座ると、彼は巧みな手さばきで、櫂を操り始めた。
小舟はなめらかに、湖上を進んでいく。
水は澄み渡り、湖底には船の影が映っていた。
水ぎわからずいぶん離れると、ノアは櫂を船に固定する。
「フレン。今日はマリガとエスタに、一緒にパーティーへ出席すると話していましたが、あまり無理をしないでくださいね。私は、あなたに幸せになってもらいたいのです」
幸せ、という言葉を、フレンは口の中で転がした。
――わたしの、本当の幸せは……。
「ノア。わたしね……」
「どうしましたか。赤い顔をしている。日差しにのぼせてしまったでしょうか」
心配そうに、秀麗な眉を寄せるノアに、フレンはか細い声で告げた。
「わたしね、ノアに恋をしているみたいなの……。ノアが傍にいてくれるだけで、なにもいらないくらい嬉しい。あなたと一緒にいることが、わたしの幸せなの」
ノアが、空の色と同じ瞳を見開いた。
「それは、まことですか……?」
「ええ。でも、仕事で守っているだけの女にこんなことを言われても、困るわよね。ごめんなさい、忘れてちょうだい」
「それはできません。なぜなら私も、あなたに同じ想いを抱いているのだから」
えっ、とフレンは言葉を詰まらせた。ノアはなにを言っているのだろうか。
彼は続ける。
「主に想いを寄せることが、どれだけ分不相応であるか、理解しているつもりです。けれど、私はもう、自分の想いを抑えられない。フレン、お慕いしています」
予想外の展開に、フレンは両手で顔を覆った。どうしたらいいのか、分からない。
そのとき、ノアの甘い声が聞こえてきた。
「フレン、隠さないで。あなたの可愛い顔を見せてください」
手を外すと、ノアがわずかに身を乗り出した。次いで、額に柔らかい感触がする。
それはすぐに離れていった。
「ノア、今なにをしたの?」
「キスです。お嫌でしたか」
「いいえ、ちっとも嫌じゃないわ……」
ノアの大きな手が、フレンの両手をそっと握った。
「フレン。私とともに、幸せになってくれますか?」
「はい……。でも、主従の恋は禁忌だわ。お父さまが、なんと仰るか……」
「解決する術は、必ずあります。……フレン、これからは、あなたを守るこの肉体だけではなく、心もあなたに捧げます」
ありがとう、と、フレンはノアの手を握り返した。




