↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
22/36

21.薔薇園での秘め事

 ようやく、竈にクッキーを入れることしばし。

 厨房に、甘い香りが漂い始めた。確認すれば、クッキーは膨らみ、黄金色になっている。


「できあがりました! お二人とも、味見はいかがですか?」


 クッキーを竈から、作業台の上に。


「とても熱いですから、火傷しないように気を付けてくださいね」


 フレンが話すと、マリガがはあ、とため息をついた。


「あんたに言われたくないわよ」

「仕方がないから、食べてやってもいいのです」


 彼女たちは、渋々、といった様子でクッキーを口に運んだ。

 途端に、二人は口元を抑える。


「なにこれ、おいしい……! 食感がほろほろだわ」

「甘さ控えめのバターが、じゅわっと出てくるのです……」


 フレンは破顔した。


「それはよかったです。……あの、このクッキーをフリッツさまに渡していただけませんか。わたしは、王宮に入れないので」


 マリガは腕を組んだ。


「それくらいなら、構わないわ。……代わりに、もうちょっとクッキーを寄越しなさいな」

「エスタも食べたいのです! フリッツの分を少なくしてもいいのですよ」


 エスタの姿勢が、わずかに前のめりになった。

 粗熱の取れたクッキーを、フレンは四つに分けた。

 それぞれ、手のひら大の籠に入れると、とっておきのレースのリボンで結ぶ。


「できあがりです! お二人の分と、フリッツさまの分。ではどうか、よろしくお願いします」


 三つの籠をマリガに手渡す。

 マリガとエスタは頷いた。


「くだらない嫉妬なんかで、クッキーをだめになんてしないから、安心しなさい」

「クッキーはたくさん食べたいけど、ちゃんとフリッツに渡すのです。エスタたちに任せるのです」


 そう話して、マリガとエスタは帰っていった。


   ****


 ノアは、厨房の入り口に張り付いて、中の様子を窺っていた。

 厨房には扉がついているから、中は見えないが、それでも微かに声は聞こえてくる。

 時折響く、マリガやエスタの甲高い笑い声に、嫌な予感がしてならない。


 どれくらい待っただろうか。ようやく、厨房の扉が開いた。

 中から出てきたのは、マリガにエスタ。そして、ノアの誰よりも大切な主――。


「フ、フ、フレンっ?」


 ノアは、素っ頓狂な声を上げた。

 フレンが、頭の先から白い粉まみれになっているのだ。


「なにがあったのです! 菓子作りで、なぜこんなことに?」


「ちょっと手が滑っただけよ」


 短く答えたフレンは、マリガとエスタに玄関の方角を示す。


「お二人とも、どうぞこちらへ。お見送りします」


 玄関ホールで二人の見送りを済ませたフレンを、ノアは間髪入れずに抱き上げた。


「なにをするの、ノア!」


「突然申し訳ありません。ですが、粉まみれではあなたの体に悪い。それに、右手の人差し指はどうされたのです? 赤くなっている」


 目ざといノアは、フレンの指先が真っ赤になっていることに気づいていた。

 二階へ上がり、フレンの部屋の前で待機していたメイドに告げる。


「フレンに湯浴みを。それから、医師を呼ぶように。火傷をしている」


「ノア、大げさよ。こんなに小さな火傷、自分で手当てできるわ」


「いけません。熱傷の深さは、自分では分からないものです」


 メイドにフレンを託し、廊下にひとりきりになったノアは、片手で顔を覆った。


 ――フレン……。危害を加えられてまで、どうしてフリッツのために……。


 フレンが自分から、小麦粉まみれになり、火傷をした可能性は低いだろう。


 もしもそうなら、厨房でマリガとエスタがけらけら笑うはずがなかったし、二人は屋敷をあとにするとき、フレンを心配するそぶりすらなかった。


 おおかた、二人がフレンに悪意を持って接したのだろう。

 そして、さらにノアを苦しめるのは、フレンが一貫して、フリッツのために行動していることだ。


 その理由が、幼なじみに向ける情からくるものだと、ノアは理解している。フレンがフリッツに、恋愛感情を抱いていないことも。


 それでも、フレンがノアではない、他の男のために努力している姿を見るだけで、胸が苦しくなるのだ。


 ノアは、自らの感情の正体に気付いている。フリッツへの、醜い嫉妬心だ。


 ――気持ちを抑えなくては……。フレンへの想いを、彼女に悟られるわけにはいかない。


 フレンと一緒にいられるだけでいいと思った。

 生涯、彼女のしもべとして過ごせれば満足だと。

 けれどノアは、ひとりの男としてではなく、騎士として彼女の前に現れたことを、ほんの少し後悔していた。


   ****


 湯浴みを済ませ、日が傾く時刻になった。

 フレンの指先は、軽度の火傷だと診断された。

 あとが残らないようにと軟膏を処方され、今は包帯を巻かれている。


 診察に付き添ってくれたノアは、騎士服の姿に戻り、悲しそうに眉尻を下げていた。


「ノアったら。まるであなたのほうが、痛そうな顔をしているわ。このくらい平気なのに」


 本当は時間が経つにつれ、じんじんと指が苛まれるが、彼に心配をかけるわけにはいかない。


「私の前で、強がらないでください。……あなたを守れなくて、私は悔しい」


「大げさね。調理中に、ちょっと怪我をしただけじゃないの」


 フレンはソファから立ち上がると、うなだれるノアの袖を引っ張った。


「あのね、ノア。わたしと一緒に、庭へ出てくれる……?」


「構いませんが、どうしたのですか」


 いいから、とフレンはノアを先導した。

 玄関を出ると、橙色の空に、刷毛を引いたような白い雲が浮かんでいる。

 ノアとともに、タウンハウスの庭にある薔薇園へ。色とりどりの薔薇からは、甘い香りがする。


 ――どうしてかしら。なんだか緊張するわ……。


 ほんの少し、呼吸が早くなる。


「フレン? 大丈夫ですか」


「もちろんよ。ノア、こちらに来て」


 薔薇の生け垣で挟まれた小路は、迷路のようになっている。ノアと二人きりでいるところを他の者に見られたくなくて、フレンは薔薇園の奥に進んだ。


 見えてきたのは、薔薇のアーチだ。

 アーチに咲く白い薔薇は、中心部分の花びらだけがピンク色で可愛らしい。

 アーチの下で、フレンは立ち止まった。


「ノア、これをもらってくれる……?」


 フレンが差し出した小さな籠を、ノアは不思議そうな顔で受け取った。

 彼は長身を屈ませて、フレンに目線を合わせると、尋ねてくる。


「フレン、これは?」


「開けてみて。喜んでもらえるといいのだけれど……」


 ノアが、美しい指でレースのリボンをほどいていく。籠の蓋を、開けた。


「クッキー? 先ほど作ったものでしょうか」


「ええ。……ノア、わたしって、すごく悪い女なの」


 フレンの告白に、ノアがふわりと笑んだ。


「また、あなたの悪い女宣言ですか? 微笑ましすぎて、ちっとも悪女になっていませんよ」


「今回は、本当に悪なの! ……だって、このクッキーはフリッツさまのために作ったものなのに、最もよくできた部分を、よけてしまったのだから」


 フレンの言葉の意味が分からなかったのか、ノアはぱちぱち、と目を瞬かせている。


「いちばん形がよくて、いちばん綺麗に焼けて、いちばんおいしそうなクッキーは、どうしても、ノアに食べてもらいたかったの……」


 ノアが、はっと息を吸った音が聞こえた。


「フレン。それは、本当ですか」


 フレンは頷くと、気恥ずかしさから、早口で説明する。


「この籠に入れた八枚は、特別よくできたのよ。ほら、端っこがおいしそうなきつね色になっているし、ちゃんとまん丸になっているし。ええと、それから――」


 すると突然、フレンの目の前が暗くなった。頬に、さらりとした布の感触がする。

 フレンの背には、柔らかく手が回されていた。


「フレン。ありがとう……」


 ノアの声が、直接体に響き、フレンは初めて、自分が彼に抱きしめられていることを悟った。


「ノア……?」


 彼の名を唇に乗せる。途端に、ぱっとノアが体を離した。


「す、すみません! 気持ちが高鳴りすぎて、つい……。気分が悪かったですよね」


「いいえ、ちっとも不快ではなかったわ……。どうしてかしら」


 嬉しくて、恥ずかしくて――。


 もしもフリッツに同じことをされていたら、きっとフレンは彼が離してくれるまで、唇を噛んで、我慢していたことだろう。


 ――フリッツさまだけではないわ。他の男の人に触られるのも、絶対にお断りよ。


「ノアだから、抱きしめられても嫌じゃなかったの……。ううん、あなたにしか、触れられたくない」


 ノアを見上げると、彼は顔を真っ赤にしていた。夕日のせいだろうか。

 彼はなにかを払うようにかぶりを振ると、フレンに微笑みを落とした。


「それはそうと、フレンはクッキーを召しあがったのですか。マリガとエスタにもあげてしまったのでしょう」


「考えてみれば、食べていなかったわ。人へのプレゼントなのに味見を忘れるなんて、わたしったらだめね」


「では、一枚どうぞ。おいしくできたに決まっています」


 ノアに籠を差し出されて、いただきます、とフレンはクッキーに手を伸ばした。

 ところが、クッキーを拾い上げたのはノアだ。


「あなたは指を痛めていますからね。口を開けて」


 ノアの持つクッキーが唇に触れる。

 フレンは思わず、クッキーをかじってしまった。


「あっ……」


 さくりとした歯触りのクッキーは、口の中でほろりと溶けた。


「よかった。クッキー作りは成功したみたい」


「そうでしょう? さあ、もうひと口」


 ノアの手から、クッキー一枚を食べ切ったフレンは、顔に朱が上るのを感じた。

 砂糖の量をレシピ通りにしたはずなのに、思ったよりもクッキーを甘く感じたのは、きっと気のせい。


 顔を上げると、空は金色に輝き、雲は真っ赤に染まっていた。

 その色彩は、フレンになにかが始まる予感を抱かせた。 


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。