21.薔薇園での秘め事
ようやく、竈にクッキーを入れることしばし。
厨房に、甘い香りが漂い始めた。確認すれば、クッキーは膨らみ、黄金色になっている。
「できあがりました! お二人とも、味見はいかがですか?」
クッキーを竈から、作業台の上に。
「とても熱いですから、火傷しないように気を付けてくださいね」
フレンが話すと、マリガがはあ、とため息をついた。
「あんたに言われたくないわよ」
「仕方がないから、食べてやってもいいのです」
彼女たちは、渋々、といった様子でクッキーを口に運んだ。
途端に、二人は口元を抑える。
「なにこれ、おいしい……! 食感がほろほろだわ」
「甘さ控えめのバターが、じゅわっと出てくるのです……」
フレンは破顔した。
「それはよかったです。……あの、このクッキーをフリッツさまに渡していただけませんか。わたしは、王宮に入れないので」
マリガは腕を組んだ。
「それくらいなら、構わないわ。……代わりに、もうちょっとクッキーを寄越しなさいな」
「エスタも食べたいのです! フリッツの分を少なくしてもいいのですよ」
エスタの姿勢が、わずかに前のめりになった。
粗熱の取れたクッキーを、フレンは四つに分けた。
それぞれ、手のひら大の籠に入れると、とっておきのレースのリボンで結ぶ。
「できあがりです! お二人の分と、フリッツさまの分。ではどうか、よろしくお願いします」
三つの籠をマリガに手渡す。
マリガとエスタは頷いた。
「くだらない嫉妬なんかで、クッキーをだめになんてしないから、安心しなさい」
「クッキーはたくさん食べたいけど、ちゃんとフリッツに渡すのです。エスタたちに任せるのです」
そう話して、マリガとエスタは帰っていった。
****
ノアは、厨房の入り口に張り付いて、中の様子を窺っていた。
厨房には扉がついているから、中は見えないが、それでも微かに声は聞こえてくる。
時折響く、マリガやエスタの甲高い笑い声に、嫌な予感がしてならない。
どれくらい待っただろうか。ようやく、厨房の扉が開いた。
中から出てきたのは、マリガにエスタ。そして、ノアの誰よりも大切な主――。
「フ、フ、フレンっ?」
ノアは、素っ頓狂な声を上げた。
フレンが、頭の先から白い粉まみれになっているのだ。
「なにがあったのです! 菓子作りで、なぜこんなことに?」
「ちょっと手が滑っただけよ」
短く答えたフレンは、マリガとエスタに玄関の方角を示す。
「お二人とも、どうぞこちらへ。お見送りします」
玄関ホールで二人の見送りを済ませたフレンを、ノアは間髪入れずに抱き上げた。
「なにをするの、ノア!」
「突然申し訳ありません。ですが、粉まみれではあなたの体に悪い。それに、右手の人差し指はどうされたのです? 赤くなっている」
目ざといノアは、フレンの指先が真っ赤になっていることに気づいていた。
二階へ上がり、フレンの部屋の前で待機していたメイドに告げる。
「フレンに湯浴みを。それから、医師を呼ぶように。火傷をしている」
「ノア、大げさよ。こんなに小さな火傷、自分で手当てできるわ」
「いけません。熱傷の深さは、自分では分からないものです」
メイドにフレンを託し、廊下にひとりきりになったノアは、片手で顔を覆った。
――フレン……。危害を加えられてまで、どうしてフリッツのために……。
フレンが自分から、小麦粉まみれになり、火傷をした可能性は低いだろう。
もしもそうなら、厨房でマリガとエスタがけらけら笑うはずがなかったし、二人は屋敷をあとにするとき、フレンを心配するそぶりすらなかった。
おおかた、二人がフレンに悪意を持って接したのだろう。
そして、さらにノアを苦しめるのは、フレンが一貫して、フリッツのために行動していることだ。
その理由が、幼なじみに向ける情からくるものだと、ノアは理解している。フレンがフリッツに、恋愛感情を抱いていないことも。
それでも、フレンがノアではない、他の男のために努力している姿を見るだけで、胸が苦しくなるのだ。
ノアは、自らの感情の正体に気付いている。フリッツへの、醜い嫉妬心だ。
――気持ちを抑えなくては……。フレンへの想いを、彼女に悟られるわけにはいかない。
フレンと一緒にいられるだけでいいと思った。
生涯、彼女のしもべとして過ごせれば満足だと。
けれどノアは、ひとりの男としてではなく、騎士として彼女の前に現れたことを、ほんの少し後悔していた。
****
湯浴みを済ませ、日が傾く時刻になった。
フレンの指先は、軽度の火傷だと診断された。
あとが残らないようにと軟膏を処方され、今は包帯を巻かれている。
診察に付き添ってくれたノアは、騎士服の姿に戻り、悲しそうに眉尻を下げていた。
「ノアったら。まるであなたのほうが、痛そうな顔をしているわ。このくらい平気なのに」
本当は時間が経つにつれ、じんじんと指が苛まれるが、彼に心配をかけるわけにはいかない。
「私の前で、強がらないでください。……あなたを守れなくて、私は悔しい」
「大げさね。調理中に、ちょっと怪我をしただけじゃないの」
フレンはソファから立ち上がると、うなだれるノアの袖を引っ張った。
「あのね、ノア。わたしと一緒に、庭へ出てくれる……?」
「構いませんが、どうしたのですか」
いいから、とフレンはノアを先導した。
玄関を出ると、橙色の空に、刷毛を引いたような白い雲が浮かんでいる。
ノアとともに、タウンハウスの庭にある薔薇園へ。色とりどりの薔薇からは、甘い香りがする。
――どうしてかしら。なんだか緊張するわ……。
ほんの少し、呼吸が早くなる。
「フレン? 大丈夫ですか」
「もちろんよ。ノア、こちらに来て」
薔薇の生け垣で挟まれた小路は、迷路のようになっている。ノアと二人きりでいるところを他の者に見られたくなくて、フレンは薔薇園の奥に進んだ。
見えてきたのは、薔薇のアーチだ。
アーチに咲く白い薔薇は、中心部分の花びらだけがピンク色で可愛らしい。
アーチの下で、フレンは立ち止まった。
「ノア、これをもらってくれる……?」
フレンが差し出した小さな籠を、ノアは不思議そうな顔で受け取った。
彼は長身を屈ませて、フレンに目線を合わせると、尋ねてくる。
「フレン、これは?」
「開けてみて。喜んでもらえるといいのだけれど……」
ノアが、美しい指でレースのリボンをほどいていく。籠の蓋を、開けた。
「クッキー? 先ほど作ったものでしょうか」
「ええ。……ノア、わたしって、すごく悪い女なの」
フレンの告白に、ノアがふわりと笑んだ。
「また、あなたの悪い女宣言ですか? 微笑ましすぎて、ちっとも悪女になっていませんよ」
「今回は、本当に悪なの! ……だって、このクッキーはフリッツさまのために作ったものなのに、最もよくできた部分を、よけてしまったのだから」
フレンの言葉の意味が分からなかったのか、ノアはぱちぱち、と目を瞬かせている。
「いちばん形がよくて、いちばん綺麗に焼けて、いちばんおいしそうなクッキーは、どうしても、ノアに食べてもらいたかったの……」
ノアが、はっと息を吸った音が聞こえた。
「フレン。それは、本当ですか」
フレンは頷くと、気恥ずかしさから、早口で説明する。
「この籠に入れた八枚は、特別よくできたのよ。ほら、端っこがおいしそうなきつね色になっているし、ちゃんとまん丸になっているし。ええと、それから――」
すると突然、フレンの目の前が暗くなった。頬に、さらりとした布の感触がする。
フレンの背には、柔らかく手が回されていた。
「フレン。ありがとう……」
ノアの声が、直接体に響き、フレンは初めて、自分が彼に抱きしめられていることを悟った。
「ノア……?」
彼の名を唇に乗せる。途端に、ぱっとノアが体を離した。
「す、すみません! 気持ちが高鳴りすぎて、つい……。気分が悪かったですよね」
「いいえ、ちっとも不快ではなかったわ……。どうしてかしら」
嬉しくて、恥ずかしくて――。
もしもフリッツに同じことをされていたら、きっとフレンは彼が離してくれるまで、唇を噛んで、我慢していたことだろう。
――フリッツさまだけではないわ。他の男の人に触られるのも、絶対にお断りよ。
「ノアだから、抱きしめられても嫌じゃなかったの……。ううん、あなたにしか、触れられたくない」
ノアを見上げると、彼は顔を真っ赤にしていた。夕日のせいだろうか。
彼はなにかを払うようにかぶりを振ると、フレンに微笑みを落とした。
「それはそうと、フレンはクッキーを召しあがったのですか。マリガとエスタにもあげてしまったのでしょう」
「考えてみれば、食べていなかったわ。人へのプレゼントなのに味見を忘れるなんて、わたしったらだめね」
「では、一枚どうぞ。おいしくできたに決まっています」
ノアに籠を差し出されて、いただきます、とフレンはクッキーに手を伸ばした。
ところが、クッキーを拾い上げたのはノアだ。
「あなたは指を痛めていますからね。口を開けて」
ノアの持つクッキーが唇に触れる。
フレンは思わず、クッキーをかじってしまった。
「あっ……」
さくりとした歯触りのクッキーは、口の中でほろりと溶けた。
「よかった。クッキー作りは成功したみたい」
「そうでしょう? さあ、もうひと口」
ノアの手から、クッキー一枚を食べ切ったフレンは、顔に朱が上るのを感じた。
砂糖の量をレシピ通りにしたはずなのに、思ったよりもクッキーを甘く感じたのは、きっと気のせい。
顔を上げると、空は金色に輝き、雲は真っ赤に染まっていた。
その色彩は、フレンになにかが始まる予感を抱かせた。




