19.ぷにぷには危険!
テオに花束を託した翌日の朝、フレンは自室のソファに座り、『王太子殿下に婚約破棄されたので、華麗にざまあいたしますわ!』を読み返していた。
にわかに、部屋の扉をノックする音がする。
「ノアです。入ってもよろしいですか」
「もちろんよ! どうぞ」
フレンが答えると、ノアが入室してきた。
「おはようございます。おや、なんだかご機嫌ですね」
朝日を浴びて美貌の際立つ彼は、空色の瞳を細めた。
ノアに指摘されるのも当然だ。先ほどからフレンは、表情が緩みっぱなしなのだから。
フレンは、小説の一節を指でなぞった。
「小説に従うと、次が最後のざまあなの! これでフリッツさまとの約束を果たせると思うと、嬉しくて」
「それはよかったです。では最後に、とびきりのざまあで締めてやりましょう。謀反でも起こして、フリッツを処刑台に送ってやりましょうか」
「ノアったら、なんて怖いことを言うの! フリッツさまのためのざまあなのだから、もっとこう、じわじわ効くような……」
即座にノアの提案を却下したフレンだが、策があるわけではない。
フレンは勢いよく立ち上がった。
「座っているだけでは、いい案は思い浮かばないわよね。屋敷の中でも歩こうかしら」
「ご一緒させてください。私も新しいざまあを考えますから」
「ありがとう。でも、ノアのざまあは採用しないわよ。物騒すぎるもの」
「そうでしょうか。あなたにひどいことをした男には、ふさわしい結末だと思いますが」
まったくもう、と彼をたしなめながら、廊下へ。
自室のある二階の廊下をぐるっと回るが、特にひらめきは降りてこない。
次いで、一階へ。
静かな廊下を歩いていると、女性たちの話し声が聞こえてきた。
声は、フレンが以前も訪れた、厨房から聞こえてくるようだ。
フレンはノアと視線を交わすと、二人並んで声のする方へ向かった。
「また太っちゃったわ! 見てよ、お腹がぷにぷにしてきたわ」
「あなた、甘いものを食べすぎなのよ。自業自得だわ」
フレンは、ひょっこり厨房に顔を出した。
見れば、キッチンメイドが二人、お喋りをしている。
フレンたち主の朝食が終わったからだろう。今は仕事が落ち着いている時間のようだ。
「こんにちは。よかったら、お話を聞かせてくれない?」
フレンが話しかけると、メイド二人はぴっと姿勢を正した。
「お嬢さまっ? ごめんなさい、あたしたち、私語を……」
「手が空いたので、つい……」
不安そうにする彼女たちに、フレンは微笑む。
「いいのよ。いつもお仕事ありがとう。それで、お腹がぷにぷにという言葉が聞こえてきたのだけれど……」
すると、二人のうちの年若いメイドが、「そうなんですう」としおれた。
「お嬢さま方のために作ったクッキーやケーキのうち、お出しできない切れ端の部分とか、まかないの蜂蜜パンを食べていたら、太っちゃって。恥ずかしいです」
ふむふむ、とフレンはメイドの話に耳を傾けた。
「お腹がぷにぷにだと、恥ずかしいの?」
「それはもう! あたしたちは貴族のご令嬢のように、コルセットなんて着けないですから。自前の細いウエストが大事なんです!」
もうひとりのメイドが同意する。
「今は、男性も女性も細身が美徳とされていますから。まあ、男性は女性と違って、筋肉も必要ですわ。そこの騎士さまのように」
メイドがノアを指し、顔を赤くする。
年若いメイドが、ノアに言い聞かせるようにした。
「騎士さま。スタイルがいいからって、油断しちゃだめですよ。脂肪は、筋肉の上につくんだもの。お腹がぷにぷにの騎士なんて、格好悪いんだから」
フレンは、はっと息を吸った。
「お腹がぷにぷになのが、王族だとしたら……?」
フレンが尋ねると、年若いメイドはククッと笑った。
「そんなの、幻滅するに決まってるじゃないですか! 節制せず、国民の血税で食べたい放題なのかって、非難されても文句は言えないですよ!」
鼻息荒く語るメイドに、フレンは苦笑する。
公爵家の使用人たちは、フレンが王太子に婚約破棄されたことを知っているから、それでなくても王族に手厳しいのだ。
「……メイド殿、忠告感謝する。私はこれから一層、鍛錬に励むことにする」
「今は王族の話をしているんですけど……。まあいいわ。お嬢さまの専属騎士ともなれば、リース公爵家の顔です。せいぜい、その絶世の美男子っぷりを維持することですね!」
「ええ、必ず」
なにやら、真面目に答えているノアの袖を、フレンは引っ張った。
「フレン、どうしたのですか?」
「わたし、いいことを思いついたの! 部屋に戻りましょう」
ノアを厨房の外に引きずりながら、フレンは振り返った。
「二人とも、貴重な情報をありがとう。おかげで、光が見えてきたわ!」
メイドたちが不思議そうな顔をする。
「ぷにぷにが、貴重? 光……?」
「よく分かりませんが、頑張ってくださいね、お嬢さま」
厨房をあとにして、フレンは自室に戻る。
向かいのソファにノアを座らせ、フレンも椅子に腰を下ろした。
「フレン、深刻そうな顔をして、なにがありましたか」
心配そうに尋ねてくるノアに、フレンは重々しく告げる。
「フリッツさまへの、最後のざまあを決めたの。ずばり、お菓子で太らせ大作戦よ!」
ノアが、秀麗な眉をひそめた。
「あんな男に、菓子を贈ろうというのですか。毒を仕込んだほうがまだましでは?」
「毒を食べてお腹を下したら、却って痩せてしまうではないの。というか、倫理的にだめよ!」
「しかし、フリッツがフレンから菓子をもらうなんて……」
どことなく、ノアが膨れているように見える。
「料理長に、厨房を使わせてもらえるようお願いしないとね。フリッツさまは、最後のざまあを楽しみにしているだろうから、なるべく早いほうがいいわ」
「フレンが、フリッツのために手ずから菓子を作るというのですか! そんなの、嫌です!」
ノアの珍しい自己主張に、フレンは驚いた。
確かに、高位の騎士という立場で、料理をするというのは屈辱に感じられるかもしれない。
「分かったわ。今まで、ノアに頼りすぎていたもの。お菓子はわたしひとりで作るわ。ノアに手伝えなんて言わないから、安心して」
「そうではなく、フレンが男に手作りの菓子をプレゼントするのが嫌だと――。ああもう、この際それはどうでもいい。……フレン、私もご一緒させてください。なんでもやります!」
「あら、やっぱり一緒に作ってくれるの? ふふっ、ノアったら情緒不安定ね」
翌日の午後、厨房を借り受けたフレンは、いつもの簡素なワンピースの上にエプロンを身にまとった。メイドたちと同じ白いエプロンは、フリルがついていて可愛らしい。
「さあ、お菓子作り開始よ!」
フレンはワンピースの袖をまくった。
騎士服を脱ぎ、白いコックコートを身に着けたノアが、尋ねてくる。
「フレン、今日はなにを作るのですか?」
「クッキーよ。その中でも、ジャンブルを作ろうと思うの」
「ジャンブルですか……。それはまた、豪華ですね。フリッツにはもったいないのではありませんか」
ジャンブルとは、クッキーの一種で、バターをたっぷり使ったもののことをいう。
バターは高価で、保存するには氷室を使うしかない。
氷室を所有するのは裕福な貴族か、大商家くらいのものだから、ジャンブルはクッキーの中でも高級品に位置付けられているのだった。
「ジャンブルは、バターをたくさん使う分、おいしいけれど太りやすいと言われているわ。これを食べれば、フリッツさまのお腹はきっとぷにぷにになるはずよ!」
「確かにあいつは怠惰で、鍛錬などろくにしないですからね。身に肉はつきやすいでしょうが、一度クッキーを食べたくらいでは、体重は変わらないと思いますよ」
「あら、それはどうかしら。もしかしたら、わたしのクッキーを気に入って、王宮でも毎日甘いものをとるようになるかも。そうしたら、ぷにぷに一直線だわ」
そう話したフレンは、そっと胸を押さえた。
――我ながら、恐ろしい計画だわ。フリッツさまが可哀想になるわね。
それでも、これはフリッツのためのざまあなのだ。やるしかない。
日の光の差し込む、清潔な厨房には立派な竈があり、中央には大きなテーブルがあった。料理の下ごしらえをしたり、菓子を作ったりする作業台だ。
「材料は、バター、お砂糖、小麦粉、卵よ。まずは、計量から!」
バターの重さを量り、次は砂糖――。
どうぞと、ノアが砂糖の入った容器を差し出してくる。
――このお砂糖、妙にサラサラしているわね……。
指の先につけて、ちらりとなめれば、それはしょっぱかった。
「ノア、これは塩よ。お砂糖なら、作業台の上にあるでしょう?」
なにせ、料理長が菓子作りに必要なものを、あらかじめ準備してくれているのだ。
塩など、どこから出してきたのだろうか。
「すみません、うっかりしてしまいました」
ノアが頭を下げる。
「しっかり者のノアが、珍しいわね。でも気にしないで、間違えることは誰にでもあるわ」
「恐れ入ります。ではフレン、計量に戻りましょう」
公爵家特注の天秤を使って、小麦粉を量る。
「フレン、どうぞこちらを」
次にノアが手渡してきたのは、瓶に入った茶色い粉だった。
「これはなに? 材料になかったはずだけれど」
「貴重な香辛料です。これを入れれば、クッキーが香り高くなるかと」
瓶の蓋を開けると、独特な香りがふわっと広がった。
「これって、シナモンじゃない! フリッツさまは、シナモンが嫌いなのよ」
「ええ、知って――ではなく、知りませんでした。申し訳ありません」
「いいのよ。フリッツさまの好みなんて、長年一緒にいたわたしか、身内である王族くらいしか知らないものね」
次に、卵を別容器に割り入れておく――。
「フレン、卵は私が割りましょう。お任せください」
「そうね、ノアは器用そうだもの」
ノアは卵をわしづかみにすると、容器の上で握りつぶした。
卵は殻ごと、容器の中に入った。
「……ノア、殻が入ってしまったわ」
「卵の殻にも栄養があるといいますし、クッキーに歯ごたえが出ていいのではないでしょうか」
――今の、絶対にわざとだわ。ノアはきっと、お菓子作りが嫌いなのね。
フレンは、ノアの両肩をがしっと掴んだ。
「フ、フレン? どうしたのですか。怖い顔をして」
ノアに回れ右させると、フレンは彼を厨房の外へ追い立てた。
「ノアは、厨房に立ち入り禁止! 庭の小屋にいる、ニワトリさんに謝ってきなさい!」
「そんなっ、フレン! もうしませんから」
「だめよ!」




