15.正体不明の胸のもやもや
フレンの体調が回復したのは、刺繍を仕上げた日から五日後のことだった。
「元気になってくれて、本当によかった。熱がなかなか下がらないので、気が気ではありませんでしたよ」
朝食後、フレンの自室で、テーブルに茶器を並べながら、ノアが話しかけてくる。
「ごめんなさい。これからは賭場に行かないし、無茶もしないわ。……でも、先日のお茶会で、フリッツさまは恥をかいたのではないかしら。なんと言っても、ドラゴン刺繍ですもの!」
達成感とともに、フレンの胸は痛む。
――フリッツさまは公衆の面前で、ドラゴンの刺繍が施されたジャケットを着たのよね。わたしったら、なんてひどいことをしてしまったのかしら。
ざまあされることがフリッツの望みとはいえ、やりすぎたかもしれない。
「わたしの悪女っぷりも、そろそろ社交界で有名になっているでしょうね。今度パーティーに出ることがあったら、きっと皆に嫌われているわ!」
「それはどうでしょうか……。私には、別の未来の想像しかできませんが……」
「まあまあ、いいじゃないの。ねえノア、またお疲れさま会をしてくれる?」
ノアはいつも一緒にいてくれているというのに、もっと彼の傍にいたい、二人で話したいという気分になってしまう。
ノアは、美しい唇を綻ばせた。
「喜んで。フレンは民の食べ物が気に入っているようなので、レストランなどはいかがでしょうか」
「ぜひ、そうしたいわ! ふふっ、楽しみね」
昼食前、ノアが案内してくれたのは、市街地にあるレストランだった。
彼が話すところによると、下町ほど素朴ではなく、貴族が利用するほどには格式ばっていない隠れ家的な店なのだそうだ。
店に入ると、客が談笑し、カトラリーの音がときどき聞こえてくる。和やかな雰囲気だった。
十五ほどのテーブルの上には、香りのしない花であるガーベラが活けてあった。
「いらっしゃい。どこでも、空いている椅子に座っておくれ」
にこにこした女将に出迎えられ、フレンはノアと窓際の席に着いた。
メニューを開くと、料理の名前が所狭しと書いてある。
「フレンはなにを頼みますか?」
「うーん。蒸した魚の入ったパイもおいしそうだし、ハンバーグとやらも食べてみたいわ」
ハンバーグはどうやら、肉料理らしい。
公爵家で出るのはいつも、ステーキや赤ワイン煮込みなので、フレンはハンバーグを食べたことがなかった。
「それでは、半分こしましょうか。私はどちらの料理も好きなので」
ノアの提案に、フレンはぱっと笑みを浮かべた。
「嬉しいわ。どんな味がするのかしら」
注文すると、料理がほどなくして運ばれてきた。
どちらの料理からも湯気が立っており、いい匂いがする。量は大盛りだ。
「フレン、どうぞ。気に入るといいのですが」
料理を乗せた小皿を、ノアが差し出してくる。
まず、サクサクのパイを頬張ったフレンは、ぴんと背を伸ばした。
「とってもおいしい……! ねえ、ノアも食べてみて」
パイを口にしたノアが微笑む。
「確かに、美味ですね。公爵家の食事と比べると素朴ですが、素材の旨味が活きている」
じゅわっと肉汁溢れるハンバーグもフレンの好みにぴったりで、うきうきとフォークを操った。
けれど、フレンのお腹はすぐにいっぱいになってしまう。元々、多く食べるほうではないのだ。
「どうしよう、残したらお店の人に悪いわよね」
「では、私がフレンの残りをもらいましょう」
ノアは洗練された所作ながら、ぱくぱくと料理を平らげている。
バスケットに山と積まれたパンをも完食した彼は、上品に口元をナプキンで拭った。
「驚いたわ。ノアってよく食べるのね」
「ええ。体力をつけておかないと、いざというときにフレンを守れませんから。私は大食らいなのです」
フレンは、思わず頬が綻ぶのを感じた。たくさん食べる人を見るのは楽しい。
――帰ったら料理人に、ノアの分の食事を増やしてもらうよう、お願いしよう。
ノアと食後の紅茶を楽しんでいると、花瓶に活けられたオレンジのガーベラを、彼がちょんとつついた。
「花を見ていると、思い出します。まだ小さかったあなたは、よく私の鎧の継ぎ目に花を挿し込んでくれましたね」
「ごめんなさい、はしたなかったかしら」
「いいえ、あなたに花をもらうたびに、私の心は温かくなりました。私を庇うために発作を起こして、いっときはあなたに嫌われてしまったのではないかと思ったのです。ですが、フレンはいつも、私を気にかけてくれた。それがどれだけ、私の救いになったことか」
フレンは、わずかに寂しい気持ちで笑んだ。
大きくなってからは、騎士とはいえ、フリッツ以外の異性に関心を寄せることが憚られて、ノアに近づくことさえできなかったのだ。
そのとき、レストランに甘く、ややたどたどしい声が響いた。
「お姉さん。ボク、お姉さんのことが好きになっちゃったみたいなんです。今度ボクと、食事に行ってもらえませんか?」
様子を窺えば、給仕の女性に、ひとりの小柄な男が言い寄っている。
フレンに背を向けた格好になっているから、男の顔は窺えない。
「ちょっと、またなの? あんたに口説かれるのは、これで五回目よ。あたしがあんたに惹かれることはないわ。なんといったって、あたしの好みは大人の男なんだから! それに、あんたみたいな甘ったれではなく、落ち着いた紳士が好きなのよ」
「市民に、そんな奴がいるはずないじゃない。ボクにしておきなよ」
「嫌よ。これ以上、あたしを追い回さないで!」
「まあまあ。そう言わず」
男のあまりのしつこさに、フレンは席を立った。背後から、男に声をかける。
「失礼ですが、女の人は嫌がっています。女性にしつこくするのはいけないと思います!」
男が振り返った。どことなくあどけない、可愛らしい顔立ちの男だ。
「ああっ! あなたは、女遊びのテオさん!」
フレンは声を上げた。
彼はまさしく、フリッツの悪友のひとりだった。
「君は……、フリッツに婚約破棄された、リース公爵令嬢? なんで、こんなところにいるのお?」
「たまたま、このお店で食事をしていたんです。テオさん、人の嫌がることをしてはいけません」
そう話すと、テオが愛らしい顔立ちに似つかわしくない、皮肉気な笑みを浮かべた。
「フレン嬢には言われたくないなあ。見事な刺繍で、貴族たちの称賛を一身に浴びた君には」
フレンは首をかたむけた。
「あの拙い刺繍で……? どういうことですか」
「拙いだなんて、無駄な謙遜はしないほうがいいよお。貴族たちは、王太子の飛躍を祈るドラゴン刺繍に感動して、茶会の主催者であるフリッツには目もくれなかったんだから」
「フリッツさまのことは、見もしない……?」
フレンはうなだれ、レストランの床に目を落とした。
――フリッツさまのドラゴン趣味に、皆が呆れると思っていたのに……。
「ざまあ第二弾、失敗……」
フレンが嘆いていると、席から歩いてきたノアが覗き込んできた。
「フレン、落ち込まないでください。そのうちまた、機会がやってきますから」
すると、それまで汚らわしいものを見るかのような視線をテオに送っていた給仕の女性が、ノアを見て目を輝かせた。
「なんて格好いいの……! しかも、敬語男子だなんて。あたしの好み、ぴったりだわ」
女性は、ノアの手を取った。
「ねえお兄さん、今度あたしとデートしませんか? 割り勘だなんてけち臭いことは言いません。デート代は全部、あたしが払いますから!」
そのとき、フレンは謎の異変に襲われた。
かっと頭に血が上り、胸はもやもやして、今にも煙が出てきそうだ。
唇を噛んでいると、ノアが女性からさっと手を引いた。
「お断りします。私がともにいたいと願うのは、世界でただ一人の主のみ。私はその人のためだけに、生きているのですから」
そう話して、ノアはこれ以上ないほど優しい微笑を、フレンに向けてくる。
たちまちフレンのもやもやは消え失せ、喜びが胸に兆す。
「お兄さんの主って、そこの女の子のこと……? たくましい男が、華奢なひとりの女の子に忠誠を誓うなんて。なんてロマンチックなの!」
女性は気を悪くした様子もなく、きゃあきゃあと歓声を上げると去っていった。
「フレン嬢、どうしたの? そこの男の前で、険しい顔をしたり、嬉しそうにしたり。もしかして、そいつに惚れてるのお?」
「ち、違います! わたしは確かにノアのことが大好きです。でもそれは、ノアがわたしの騎士で、いつも見守ってくれているからで……」
フレンはテオの「惚れている」発言を、必死に否定した。
ちらりとノアを窺えば、彼はなぜか寂しそうに淡く笑んでいる。
「そういえば、フレン嬢っていつも地味な格好をしているから気づかなかったけど、よく見るとすごく可愛い顔をしているよね。これからお茶しない?」




