第9話 相談
嫌がらせをしていた二人の侍女について、処分が決まったのは三日後のことだった。
一人は伯爵邸の別棟へ配置を移され、もう一人はしばらく接客や衣装管理の仕事から外されることになったらしい。
父も家令も、エリーズへ細かな処分内容までは説明しなかった。それでよかった。
罰を与えることが目的だったわけではない。ミレイユが安心して働けるようになれば、それで十分だった。
目に見えるところだけなら、出来事はすでに終わっている。けれど、エリーズの中には小さな変化が残っていた。
朝、自分でその日に着るドレスを選ぶ。昼、読んでいる本について侍女と一言二言話す。庭に出たいと思えば、自分からそう言う。
どれも、以前ならわざわざ決めるほどのことではないと思っていた。けれど今は、その小さな選択をすることに、以前ほど抵抗がなくなっている。
その日の午後、エリーズは庭に面した小さな居間で刺繍枠を膝に置いていた。
「お嬢様」
ミレイユが茶器を持って入ってきた。
「今日は少し濃く淹れてみました」
「おいしいわ」
ミレイユが嬉しそうに笑う。最近、その笑顔を見ることが増えた。声も元へ戻っている。
ミレイユは丸卓の上を整える。その動きも、もう以前と変わらない。
しばらく、静かな時間が流れる。針を通す。糸を引く。また針を通す。
ふと、ミレイユがまだ部屋にいることに気づいた。
いつもなら、お茶を置けば次の仕事へ移る。今日は窓際の棚を整えながら、なかなか出ていかない。
「ミレイユ」
「はい」
「まだ何かある?」
ミレイユの手が止まった。
「……少しだけ。お嬢様に、相談してもよろしいでしょうか」
その言葉を聞いて、エリーズは一瞬、意味を理解できなかった。
「私に?」
「はい」
相談。その言葉を向けられた記憶を探す。ほとんどない。
「もちろん。座って」
「では、失礼いたします」
向かい側の椅子へ腰を下ろす。以前、嫌がらせについて話したときより、表情は落ち着いている。それでも、少し緊張しているのは分かった。
「何の相談?」
「私自身のことです。実家から、手紙が来まして」
「ご実家?」
「はい。父と母は元気です。弟が一人おります。十五になります」
ミレイユの表情が少し柔らかくなった。
「今年から、王都で働きたいと言っているそうで」
「それは、よかったのではないの?」
「はい」
返事はした。けれど声は少し沈んだ。
「何か問題があるのね」
「父は、弟を知り合いの商会へ入れたいそうです」
「弟さんは?」
「別の仕事をしたいと言っています。兵站局の書記です」
意外だった。
「試験があるのでしょう?」
「はい。読み書きと計算ができれば応募はできるそうです。弟は小さい頃から数字が得意で」
そこまで話す声には、少し誇らしさがあった。
「なら、受ければいいのでは?」
エリーズが言うと、ミレイユは困った顔をした。
「父は反対しています。商会なら、知っている人がいます。失敗しても面倒を見てもらえると」
「兵站局は?」
「試験に落ちるかもしれませんし、受かっても続けられるか分かりません」
なるほど。父親の考えにも理由がある。
「それで、ミレイユはどうしたいの?」
尋ねると、ミレイユは答えなかった。
そこだった。今まで話していたときより、少し呼吸が浅くなる。エリーズは待つ。
「分からないのです。父の言うことも分かります。弟が失敗して困るのは嫌です。でも」
また少し間がある。
「弟は昔から、商売をしたいと言ったことは一度もありません」
声が変わった。強くなった。怒っている、とは言えない。けれど、そこだけは明確だった。
「あなたは、弟さんに試験を受けてほしいのではない?」
言ってから、エリーズは少し不安になる。これは、声の違いから、理由を決めてしまっていないだろうか。
「違ったら、ごめんなさい」
ミレイユは目を瞬く。それから、小さく笑った。
「そうなのかもしれません。私も、はっきり考えていなかったのです。父の言うことに反対してはいけないような気がして」
エリーズの胸がわずかに動く。どこか、自分と似ている。
「弟が兵站局へ行きたいと言ったとき、私は、父の言う商会の方が安心だと思いました」
「今は?」
「分かりません」
エリーズは思わず少し笑った。
「私もよく、分かりませんと言うから」
「殿下にも?」
「ええ」
「では、便利な言葉なのですね」
「逃げるためではなく使えば、たぶん」
二人で少しだけ笑った。
「でも、私は、何を言えばいいのでしょう。弟に試験を受けさせてほしいと言ってよいのか」
「弟さん自身は、何と言っているの?」
「受けたい、と。はっきり」
「では」
エリーズは考える。これは自分の問題ではない。ミレイユの弟の未来。父親の心配。どちらが正しいかなど分からない。
「私は、商会が良いか兵站局が良いかは分からない。弟さんのことを知らないから。でも、本人が受けたいと言っているなら、受けるだけは受けてもいいように思う」
ミレイユが黙って聞く。
「落ちたら、そのとき商会へ行くことはできないの?」
「おそらく、できます」
「受かったら?」
「それは、本人が決めることになると思います」
「なら」
エリーズは小さく頷いた。
「試験を受けることと、兵站局で一生働くことは同じではないのでは? お父様は、弟さんが失敗することを心配しているのでしょう? なら、その心配は伝えて。でも、選ぶ前から選択肢をなくす必要はないと思う」
言ったあと、自分の言葉が胸へ返ってきた。
選ぶ前から。選択肢をなくす。
自分自身が、ずっとそうだった。婚約も。将来も。家での立ち位置も。
そもそも自分には選択肢があるのだと、考えたことすらほとんどなかった。
「お嬢様。今の言葉」
「何?」
「殿下みたいです」
エリーズは目を見開いた。
「嫌なら断ってよい、と仰った方なのでしょう? お嬢様も最近、よく選ぶことを気にされている気がします」
「……そうかもしれない」
「やはり、殿下の影響ですね」
少し楽しそうな声だった。
「それより、相談でしょう」
「はい」
ミレイユは姿勢を正した。
「父に、そう話してみます」
「私の言った通りでなくていいのよ。あなた自身がどう思うかを」
「はい。ありがとうございます」
エリーズは少し戸惑った。
「役に立った?」
「とても」
胸の奥が温かくなる。以前、ミレイユを助けたときとは、少し違う。
あのときは、困っているのを見つけた。今回は、ミレイユの方から来た。相談してもよいか、と。自分を頼った。
それが、思っていた以上に嬉しかった。
「お嬢様、もう一つだけ、よろしいですか」
「まだあるの?」
「今度は、相談というほどではありません。殿下のことです」
エリーズの手が止まる。
「……なぜ?」
「最近、王宮からお手紙が来るたびに、お嬢様のお顔が少し変わるので」
「変わらないわ」
「変わります。嬉しそうです」
即答だった。
「そんなことは」
言いかける。でも、自分の耳には、自分の声がいつもより少し高くなったように聞こえた。
エリーズは黙った。ミレイユの口元が少し緩む。
「今の返事、少し違いました」
エリーズは完全に言葉を失った。
「……あなた、それは私の真似?」
「違います」
返事が早い。明らかに楽しんでいる。
「ミレイユ」
「申し訳ございません」
謝りながら笑っている。エリーズは少しだけ睨む。それでも、不思議と嫌ではなかった。
「殿下のことは、まだ、よく分からないわ。私を呼ぶ理由も、最初は耳だけだと思っていた」
「今は?」
問い返され、少し考える。
声以外の自分の考えまで聞いてくれた。ドレスを似合っていると言った。黒い目が綺麗だと言った。地味ではないと。隣に立てないとも思わないと。
「……分からない」
また同じ答えになった。ミレイユは笑わなかった。
「では、分からないままでいいのでは? お嬢様が先ほど仰ったではありませんか。選ぶ前から、選択肢をなくさなくてもよいと」
「それとこれは」
「違いますか?」
違う、と即答できない。
「……たぶん」
「たぶん?」
「お茶が冷めるわ」
「そうですね」
ミレイユは立ち上がり、ポットを持つ。新しい茶を注ぐと、扉へ向かう。その途中で振り返った。
「お嬢様。相談してよかったです」
その声には、何の違和感もなかった。
「また何かあったら」
そこまで言い、自分で少し驚いた。以前なら、誰かへこんな言葉を向けたことはなかった。
「相談して」
ミレイユの顔が明るくなる。
「はい」
扉が閉まる。エリーズは一人になった部屋で、しばらく動かなかった。
相談してよかった。その言葉を、胸の中でもう一度繰り返す。
ルシアンは自分の耳を必要とした。ドニは確認するきっかけを作ったと礼を言った。
でも、それは王宮の仕事だった。役に立つかどうか。成果があるかどうか。そういう基準があった。
今日のミレイユは違う。ただ、自分に話したかった。自分の考えを聞きたかった。それだけで来た。
誰かに頼られるということが、こんなに静かで温かいものだとは知らなかった。
答えを知っているからではない。正しいことを言えるからでもない。ただ、聞くから。そして、聞いたことを軽く扱わないから。それだけで、誰かが自分のところへ来ることがある。
翌朝、王宮からまた一通の封書が届いた。差出人はドニだった。
数日後、以前の茶会で話題に出た件について、追加で話を聞きたいという短い内容だった。
以前なら、呼ばれたから行くのだと思っただろう。けれど今は、エリーズは封書を閉じたあと、少し考えた。
行きたいか。自分へそう問いかける。答えは、ほとんど迷わず出た。
「ミレイユ」
呼ぶと、すぐに扉が開く。
「王宮へ返事をお願い。伺います、と」
ミレイユの口元が少し緩んだ。
「何?」
「いいえ」
「今、笑ったでしょう」
「気のせいです」
明らかに違う。
「今の『気のせいです』、違ったわ」
一瞬、二人とも黙った。それから、ミレイユが先に笑った。エリーズも、つられて小さく笑った。
以前なら、声の違いを見つけることは、誰かの隠しているものへ触れることだった。少し怖くて、言わない方がいいものだと思っていた。
けれど、こんなふうに使えることもある。笑いながら、相手の言葉を聞くこともできる。
それを知ったことが、少し嬉しかった。
そして、その日の午後、エリーズは初めて、誰かに呼ばれたからではなく、自分から、ルシアンへ話したいことがあると思った。
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