第10話 私から話しても
王宮から届いた封書へ返事を出したあとも、エリーズはしばらく机の前から動かなかった。
本来なら、返事を出してしまえば、それで終わるはずだった。数日後に王宮へ行く。いつもと同じ流れだ。
けれど今日は、それだけではなかった。エリーズの胸の中には、昨夜から小さな引っかかりが残っている。
誰かの声を聞いたからではない。王宮から何か報告を受けたわけでもない。もっと曖昧で、説明しにくいものだった。
以前なら、それだけで口を閉じていただろう。証拠がない。理由も分からない。ならば、何も言うべきではない。ずっとそう考えてきた。
けれど。
――気づいたことを、そのまま言うことだ。
ルシアンの声を思い出す。
――相談してよかったです。
ミレイユの声も。二つはまったく違う言葉なのに、エリーズの中では不思議と同じ場所へ重なった。
聞くこと。気づくこと。そして、必要なら自分から言うこと。
「ミレイユ」
呼ぶと、すぐに返事があった。
「もう一通、お願いできる? 王宮へ」
「何かお伝え忘れが?」
「違うの。少し、気になることがあって」
自分でも、まだどう書けばいいか分かっていない。
「まだ分からないわ。ただ、数日後まで待つより、先にお伝えした方がよい気がするの」
「殿下に?」
「ええ」
そこまで言うと、急に緊張してきた。今まで王宮へ行くときは、いつも向こうから呼ばれていた。けれど今回は違う。自分から会いたいと言う。
「お嬢様、嬉しそうです」
「違うわ」
即答した。ミレイユの口元が少し緩む。
「書くから、紙をお願い」
ペンを手にする。けれど、一行目で止まった。
「お嬢様、そのままではいけませんか。少し気になることがあります、と」
その通りだった。エリーズは短く書いた。
――先日の件とは別に、少し気になることがあります。もしお時間をいただけるようでしたら、お話ししたく存じます。
読み返す。少し硬い。けれど、これ以上は思いつかない。
「これで」
ミレイユが封を預かる。扉へ向かう途中、ふと振り返った。
「お嬢様。今度は、ご自分からなのですね」
エリーズは返事をしなかった。けれど、扉が閉じたあとも、その言葉はしばらく胸に残った。
――自分から。それが少し怖くて、少しだけ、嬉しかった。
返事は翌朝に届いた。
「本日の午後、いつでも構わないそうです」
胸が小さく跳ねる。
「では、午後の早い時間に伺うわ」
馬車で向かう間、エリーズはきっかけを整理した。
昨日の夕食の席、父が新聞を折り畳みながら言った。
「北部の街道修繕は、また先送りらしいな」
「先送り? 西回りの街道ですか」
「なぜ知っている」
「王宮で少し話題になりました」
そこで父は話を終えた。普通なら、それだけだ。
けれど、茶会では、まだ修繕するかどうかは決まっていなかった。まず現状を調べる、という話だったはずだ。それなのに、父は「また先送り」と言った。まるで、すでに修繕の話が以前から何度も出ていたように。
そしてもう一つ。母が「でも、西側なら大丈夫なのでしょう?」と聞いたとき、父は「そう聞いている」と答えた。その声が、ほんの少しだけ、いつもより低かった。
以前なら、父を疑うようで嫌だった。だから、何も言わなかっただろう。でも今は、違うと言うことと、疑うことは同じではない。それを知っている。
王宮に着く。侍従が扉の前で止まった。
「ベルモン伯爵令嬢がお見えです」
「入って」
室内にはルシアンだけがいた。ドニの姿がない。
「来たね」
「はい」
「急がせた?」
「いいえ」
「ならよかった」
ルシアンは机から立ち上がり、窓際の小さな卓へ向かった。
「座って」
向かい側へ座る。妙に緊張する。呼ばれて来たときとは違う。自分が面会を願った。その事実が、今になって重く感じられる。
「気になることがあるって?」
「はい」
返事をする。そこから先が出ない。
「急がなくていいよ」
その一言で、少し呼吸が戻る。
「父のことです」
ルシアンの表情が少しだけ変わった。
「ベルモン伯爵?」
「はい。分かりません」
最初に言った。ルシアンの目がわずかに細くなる。けれど、それは不満そうな顔ではなかった。むしろ、続けてという顔だった。
「昨日の夕食で、北部の街道について父が話したのです。修繕はまた先送りらしい、と」
「また?」
「はっきり」
「他には?」
「母が、西側なら大丈夫なのでしょう、と聞きました。父は、そう聞いている、と」
ルシアンは黙った。
「声が違った?」
やはり、そこを聞かれた。
「少しだけ。低かったです」
「それだけ?」
「いつもの父なら、知らないことは知らないと言います。でも、『そう聞いている』のところだけ、少し曖昧でした」
「そのまま」
「父は、自分が知っていることを話すときは、もっと言い切ります。例えば『西側は問題ない』と」
ルシアンが頷く。
「ただ、だからといって、父が何かを隠しているとは思っていません。誰かから聞いただけかもしれません。『また』という言葉も、以前に街道の話を知っていただけかもしれません。ですから、本当に、それだけです」
言い終わる。少し怖かった。自分から会いたいと言って、わざわざ王宮へ来て、話したことが、これだけ。
「分かった」
ルシアンが言った。あまりにも普通の声だった。
「……それだけですか」
「何が?」
「もっと、役に立たないと思われるかと」
「またそこへ戻る? 謝らなくていい。君は何か見つけたから来たわけじゃない。気になったから来た。それで十分だよ」
胸の奥が静かに温かくなる。
「ドニに確認させる」
「父を?」
「違う。街道の修繕計画を」
エリーズは少し安心した。顔に出たらしい。
「伯爵を調べると思った?」
「少し。私の父親だから」
「しないよ。少なくとも、今の話だけでは。君が言ったのは、確認の入口だけ。なら、まず入口から見る」
調べることと、疑うことは別。
「ありがとうございます。父を疑わないでくださったことです」
「君も疑ってないでしょう。なら、私もまだ疑わない」
静かな返事だった。エリーズはその声を聞く。違和感はない。けれど、今はもう、その声から何かを探そうとはしなかった。
「それより」
ルシアンが少し身を乗り出す。
「君が自分から来た方が、私は驚いた」
胸が跳ねる。
「迷惑でした?」
「忙しいよ」
即答される。エリーズは少し固まった。ルシアンが笑う。
「でも、それと君の話を聞くことは別。むしろ、嬉しかった」
胸が熱くなる。
「以前の君なら、気になっても言わなかったんじゃない? どうして今日は言ったの?」
エリーズは考える。いくつも理由がある。でも、一番近い答えは。
「言ってもいいと思ったからです。殿下なら、違うと言っただけで、人を疑わないと分かったので。分からないと言っても、怒らないと分かったので。だから、私から話してもよいのかな、と」
ルシアンの表情が、ほんの少し変わった。優しいものに見えた。
「もちろん。君から話して。気になったことがあれば。私が聞くまで待たなくていい」
エリーズは黙った。それは、自分が今まで生きてきたやり方と、まるで逆だった。
「もし、間違っていたら」
「間違ってたら、違ったねで終わり」
「何度でも?」
「何度でも」
胸の奥が熱くなる。
「では、これからも」
一度、言葉が止まる。でも、今度は黙らなかった。
「私から話しても?」
ルシアンは、すぐに答えなかった。ほんの一瞬。その沈黙だけで、エリーズは急に不安になる。
けれど、次の瞬間。
「その方がいい」
ルシアンが笑った。
「ずっと。君は聞かれるまで黙るから。気づいたなら、君から言って」
「分かりました」
今度は、迷わず答えた。
そのあと、ドニが部屋へ戻ってきた。街道修繕についての確認を命じられ、少し不思議そうにエリーズを見る。
「ベルモン伯爵令嬢から?」
「うん」
「ご自分から?」
また言われた。
「はい。少し気になることがありましたので」
ドニは一瞬黙り、それから、小さく笑った。
「それは何よりです。殿下が楽になります」
「ドニ」
ルシアンの声が低くなる。
「殿下は、ベルモン伯爵令嬢が気づいても黙ってしまうのを、毎回どう聞き出すか考えておられましたので」
「ドニ」
今度こそ、ルシアンの声が強くなる。けれど、エリーズには、怒っているというより困っているように聞こえた。
「本当ですか」
「まあ」
珍しく歯切れが悪い。
「今の『まあ』」
「聞かなくていい」
即答された。エリーズは一瞬黙り、それから、少しだけ笑った。ドニも口元を押さえる。
「二人とも、楽しんでる?」
「いいえ」
エリーズが答える。
「今のは?」
「……違いました」
素直に言った。ルシアンが深く息を吐く。ドニは完全に笑っている。エリーズも、少しだけ、声を立てて笑った。
帰りの馬車へ乗り込む前、エリーズは王宮を振り返った。
自分とは関係のない場所だと思っていた。華やかな人間が集まり、選ばれる者たちが立つ場所。自分は、黒うさぎと呼ばれて壁際にいる人間。そう思っていた。
でも今は、あの建物の中に、自分の話を聞いてくれる人がいる。自分から会いに行ってもいい相手がいる。
その日の夕方、王宮から届いた報告では、北部街道の修繕計画は、確かに一度ではなく、過去三度にわたって検討されていたことが分かった。
ただし、ベルモン伯爵がそれを知っていた理由は、単純だった。彼の領地を通る商人たちの間で、以前から話題になっていたのだ。
父は何も隠していなかった。「そう聞いている」という言葉通り、ただ、商人から聞いていただけだった。
エリーズは報告を読んで、しばらく黙った。そして、小さく笑った。
外れた。自分が感じた違和感の先に、大きな秘密はなかった。
けれど、それでよかった。何もなかったと分かった。それだけ。
以前なら、自分が間違えたことを恥じていたかもしれない。もう何も言わない方がいいと思ったかもしれない。
でも今は、違う。確認して、何もなかった。なら、それで終わり。
エリーズは報告書を閉じた。胸の中には、不思議なくらい落胆がなかった。
その日の出来事を、エリーズは夜になってもう一度だけ思い返した。すぐに答えを出さず、聞こえたことと自分の考えを分けておく。それだけでも、以前とは少し違う一日になった。
むしろ、次に何かを聞いたときも、今度は、黙らずに話せるような気がしていた。
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