第11話 彼女をここに
王宮から届いた次の封書は、これまでとは少し違っていた。差出人はドニ。文面そのものは短い。
けれど、エリーズは最初の一行を読んだところで手を止めた。
――明後日午後、殿下付きの側近会議にご同席いただきたく存じます。
茶会ではない。個人的な面会でもない。会議。しかも、ルシアンの側近たちが集まる場だという。
「何か?」
傍らで衣装を畳んでいたミレイユが尋ねる。
「会議に来るように、と」
「それは、すごいことなのでは?」
「分からないわ」
「またそれですか」
少し笑われる。エリーズは手紙へ視線を戻した。
文面には、理由も書かれている。北部街道だけでなく、今後いくつかの案件について、エリーズが「違い」を感じた場合に、その場ですぐ確認できるようにしたい。そういう内容だった。
合理的ではある。それでも、側近会議。その言葉は重かった。
以前なら、呼ばれた、なら、行く。それだけだった。今は一度、自分へ問いかける。行きたいか。
怖い。それはすぐに分かった。知らない人間ばかりだろう。茶会のように軽い場でもない。
それでも。
「行くわ」
答えは、それほど時間をかけずに出た。
父へ話すと、予想通り反対された。
「会議だと? 断れ」
まただ。茶会のときと、ほとんど同じ返事だった。
「理由を伺っても?」
「茶会ならまだ社交の範囲だ。しかし側近会議は違う。政務だ。お前が関わる場所ではない」
胸の奥に、少しだけ痛みが走る。以前なら、ここで頷いていた。
「殿下は、来てほしいと仰っています。私も、行こうと思っています」
「またか。最近のお前は、どうした」
「聞かれたからです。私が気づくことを、殿下が聞いてくださったからです。最初は、それだけでした」
「今は違うのか」
「少し。私は、今まで自分が気づくことには意味がないと思っていました」
「だから、余計なことを言うなと」
「はい。でも、意味が分からなくても、確認するきっかけにはなると知りました」
「それで王宮の仕事へ首を突っ込むつもりか」
「首を突っ込むつもりはありません。分からないことを、分かるとは言いません」
「なら、行く必要もない」
「あります」
自分でも驚くほど、はっきり言えた。
「私が必要かどうかは、殿下がお決めになることです」
言ってから、胸が強く鳴った。父へ反論した。それも、自分が必要かもしれないという言葉で。
「随分と自信を持ったものだな」
「自信があるわけではありません。ただ、呼ばれた理由を、自分で無いことにしたくないのです」
父が黙った。長い沈黙だった。
「好きにしろ」
やがて、前と同じ言葉が返ってきた。けれど、今回は、前よりも重かった。
会議の日、エリーズはいつもより控えめな色のドレスを選んだ。目立たないためではない。仕事の場に合うと思ったから。
「緊張しておられます?」
ミレイユが髪を整えながら言う。
「しているわ」
「大丈夫です」
「今の『大丈夫です』は?」
「本当です。信じてください」
二人で少し笑った。それだけで、肩の力が少し抜けた。
王宮に着く。いつもとは違う階段を上がり、さらに奥へ案内された。
「ベルモン伯爵令嬢をお連れしました」
「どうぞ」
扉が開く。思っていたより広い部屋だった。中央には長い楕円形の卓。すでに十人ほどが座っている。文官、軍人、貴族らしい男もいる。
エリーズが入った瞬間、会話が止まった。視線が集まる。茶会のときとは違う。今回は、誰も笑わない。だからこそ、余計に緊張した。
「ベルモン伯爵令嬢? なぜ、こちらへ?」
四十代ほどの、濃紺の軍服を着た男が最初に声を上げた。
「殿下がお呼びになりました」
ドニが答えた。
「なぜです」
「それは殿下から」
エリーズは扉の近くで立ったままだった。座る場所が分からない。
「こちらへ」
ドニが一席を示す。卓の端。
「待ってください」
年配の貴族が口を開いた。
「その席は、記録官の隣です。つまり、会議へ参加させると?」
「そういうことです」
ざわめきが起きる。
「令嬢を?」
「殿下のお気に入りだという話は」
「しかし、政務まで」
お気に入り。その言葉が耳に残った。分かっていたはずだった。そう見られる可能性があることくらい。
胸の奥に、小さな不安が生まれる。自分は、本当に耳を必要とされているのだろうか。
扉が開いた。全員が立ち上がる。
「そのままで」
ルシアンが入ってきた。エリーズを見る。ほんの一瞬だけ。
「来たね」
「はい」
「ありがとう」
それだけ。けれど、周囲の視線が、さらに強くなる。
「始めよう」
誰も口を開かない。ルシアンも、それに気づいたらしい。
「何?」
「殿下」
年配の貴族が口を開いた。
「始める前に、一つ。ベルモン伯爵令嬢が、なぜこちらに?」
「私が呼んだ」
「理由です」
「必要だから」
一瞬。誰も動かなかった。
「必要? どのような意味で」
ルシアンは机へ手を置いた。
「彼女は、人の声の小さな違いに気づく」
「嘘を見抜くと?」
「違う。真偽は分からない。いつもと違うことだけ分かる」
「それだけですか」
「それだけ」
「殿下。その程度で、会議へ?」
胸が痛む。その程度。父にも言われた。そんなもの。やはり、普通の人間から見れば、そうなのだ。
「その程度だからいい」
ルシアンが言った。エリーズは顔を上げる。
「何でも分かると言う人間なら、私は置かない。彼女は分からないと言う。嘘かどうかも分からない。理由も分からない。でも、違いは拾う。それを確認するのは、私たちの仕事だ」
誰も何も言わない。
「実際」
ルシアンがドニを見る。
「彼女が気づいたことで、連絡の不備を二度止めた」
「事実です。一度は、私の確認不足でした。もう一度は、部下の未報告が見つかった」
「そうした能力を持つ者なら、報告だけ受ければよいのでは」
「遅い。会議が終わってから彼女を呼ぶ。そこで違和感があったと聞く。それから確認する。最初からここにいれば、その場で確認できる。時間の無駄が減る」
あまりにも実務的だった。自分を置く理由を、可哀想だからとも、面白いからとも言わない。必要だから。効率がいいから。そう言う。それが、逆に、嬉しかった。
「それでも、令嬢ご本人が、政務について理解されているのですか」
若い文官が口を開く。エリーズの胸がまた縮む。そこは、自信がない。
「どう?」
突然振られた。
「……十分ではないと思います。外交も、軍務も、財務も、詳しくありません」
「では」
「でも」
エリーズは続けた。自分でも、なぜ声を出したのか分からない。
「分からないことは、質問してもよいでしょうか」
文官が黙る。ルシアンの口元が少し緩んだ。
「もちろん」
「それでも分からなかったら?」
「分からないと言えばいい」
いつもの答え。胸の奥が少し落ち着く。
「なら、私は、それで構いません」
誰かが小さく息を吐いた。ルシアンが椅子へ座る。
「他に?」
今度は、誰もすぐには口を開かなかった。やがて、年配の貴族が静かに頭を下げる。
「殿下がお決めになったのであれば」
「ありがとう」
会議が始まった。最初の議題は、北部街道だった。
「現地調査の結果、遅延が集中しているのは、西回りの三箇所です。いずれも重量のある荷馬車で遅れが大きい」
以前、自分が言ったことだ。荷の重い車ばかり遅れるなら、路面の沈みがあるかもしれない。
「ベルモン伯爵令嬢の指摘通りでした」
ドニが言う。視線が集まる。
「私が当てたわけでは」
「分かっています。確認するきっかけです」
以前と同じ言葉だった。周囲の表情が少し変わる。少なくとも、先ほどよりは、自分を見る目から、単純な疑念が減った気がした。
会議は続く。修繕の優先順位。予算。迂回路。エリーズは理解できない部分を、頭の中で一つずつ分けていく。分からない。それでいい。必要なら、あとで聞けばいい。
次の議題は、南部から届いた穀物価格の報告だった。
「価格上昇は一時的です。収穫量そのものに問題はありません」
声は普通だった。エリーズには何も感じない。
「南部の備蓄は?」
ルシアンが尋ねる。
「問題ありません」
文官が答える。
――問題ありません。
一瞬、あの夜の記憶が蘇る。だが今は違う。この声には、何も引っかからない。エリーズは黙った。それでいい。
さらに議題が進む。国境沿いの駐屯地。王都の倉庫。河川の水位。少しずつ、会議の流れが分かってくる。
一人が報告する。誰かが質問する。必要なら資料を出す。結論を急がず、不足した情報を確認する。
不思議だった。ルシアンがエリーズへ教えてくれたやり方と、会議そのものが、似ている。分からない、なら、確認する。それを、皆が別の形でやっている。
自分だけが特別なのではない。ただ、自分は、確認する入口を、声から見つけることがある。そう考えると、この部屋にいることが、ほんの少しだけ、怖くなくなった。
一時間ほどで、会議は終わった。
「ベルモン伯爵令嬢」
声をかけられる。振り返る。最初に反対していた年配の貴族だった。
「先ほどは、失礼しました」
予想外だった。
「私は、あなたの必要性を理解したとは言いません。ですが、少なくとも、殿下が理由もなくお呼びになったわけではないことは分かりました」
「ありがとうございます」
「次も来られるのですか」
「分かりません」
答えると、男がわずかに笑った。
「なるほど」
それだけ言って、部屋を出ていった。
「珍しいね。彼が謝るの」
後ろからルシアンの声。
「そうなのですか」
「かなり」
「頑固な方ですから」
「聞こえてるぞ」
扉の向こうから声が飛んできた。ルシアンが少し笑った。エリーズも、つられて小さく笑う。
「どうだった?」
「難しかったです。知らないことが、たくさんありました。でも」
「うん?」
「前よりは、怖くありませんでした。皆様も、分からないことを確認していたからです。私だけが、何も知らないのだと思っていました」
「全員、知らないことだらけだよ」
「殿下も?」
「もちろん。知らないことを知ってる顔をする方が危ない」
以前と同じ考え方。
「ただ」
ルシアンの声が少し変わる。
「今日は、嫌な思いをさせたかもしれない」
お気に入り。その程度。政務まで。胸は少し痛んだ。
「少し」
正直に答える。
「ごめん」
「殿下が仰ったことではありません。でも、私が呼んだ。私が来ると決めました」
「嫌なら断ってよいと」
「言ったね」
「それで、私は来ました。ですから、今日嫌だったことも、私が選んだことの中にあります」
ルシアンの表情が止まる。
「違いますか?」
問い返す。ルシアンはしばらく何も言わなかった。
「強くなったね」
「そうでしょうか」
「最初に会った頃なら、全部、自分が悪いみたいな顔をしてた」
「見ていたのですか」
「見てたよ。壁際にずっといる黒うさぎがいたから」
また、その呼び名。でも、もう以前のようには痛まない。
「目立たないのでは?」
「逆に目立ってた。皆が中央へ行きたがるのに、一人だけずっと端にいたから」
「それだけじゃないけど」
さらりと言われ、エリーズは言葉を止める。
「今は言わない。君がまた顔を赤くしそうだから」
「殿下」
「ほら」
ドニが少し離れたところで資料をまとめながら、明らかに聞いている。
「ドニ様、聞いていますよね」
「仕事をしております」
ルシアンが声を立てて笑った。
「それで、次も来る?」
「今日のような会議ですか」
「うん」
「皆様が、よろしければ」
「聞いてみようか」
ルシアンが声を上げた。
「次の会議だけど、彼女も呼ぶ」
一瞬、空気が止まる。
「承知しました」
最初に答えたのはドニ。次に、若い文官が頷く。
「私は異論ありません」
「本当に?」
「殿下がお決めになったことです」
言い方はまだ硬い。完全に認められたわけではない。それでも、拒まれなかった。
「少なくとも、邪魔にはなっていませんでした」
軍服の男が言う。
「それは彼なりの褒め言葉です」
「余計な説明をするな」
誰も反対しなかった。その瞬間、胸の奥に、ゆっくり温かさが広がった。
自分は、誰かの邪魔にならない場所を探して立っていた。呼ばれたときだけ返事をする。それが自分だと思っていた。
でも今、次もここに。そう言われた。
王宮を出て、馬車へ乗り込む。座席へ腰を下ろしたあと、エリーズは静かに目を閉じた。
今日、何か大きな成果を出したわけではない。それでも、ルシアンは言った。必要だから。次も彼女をここに。
婚約者には、隣に立つには地味すぎると言われた。父には、政務はお前が関わる場所ではないと言われた。
でも、同じ自分を見て、ここに必要だと言う人がいる。
黒うさぎ。何も変わっていない。けれど、いる場所だけが、少しずつ、変わり始めていた。
そして、今度の場所は、誰かが勝手に決めたものを、ただ受け入れただけではない。自分も、そこへ行くと選んだ場所だった。
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