第12話 殿下のお気に入り
次の側近会議までの三日間で、エリーズが王弟の会議へ同席したという話は、思っていた以上の速さで広がった。
ルシアンが言ったのは「必要だから」だった。けれど社交界へ届いた頃には「王弟殿下は、ベルモン伯爵令嬢を大層お気に入りらしい」そうなっていた。
「まあ、早いこと」
母が朝食の席で小さく呟いた。手元には、前日に届いた茶会の招待状がある。
「これで今週だけで四通目」
エリーズは黙った。
「以前は、こんなに来なかったでしょう?」
悪意のある言葉ではない。事実だった。
「ルシアン殿下のおかげね」
母は何気なく言った。胸の奥が、少しだけ沈む。
「王弟殿下のお気に入りなら、今のうちに縁を作っておきたいのでしょう」
お気に入り。また、その言葉。
「あなたも少しは顔を出しなさい。今のうちに、人付き合いを広げておくのも悪くないでしょう」
「何の、今のうちでしょうか」
母の手が止まる。
「殿下に気に入られているうちに、という意味ですか」
母は一瞬黙る。
「そういう言い方をするものではありません。まして、正式なお立場があるわけでもないのでしょう?」
「はい」
「なら、今あなたへ向いている関心を無駄にする必要もありません」
間違ったことではない。貴族家の娘として見れば。けれど、エリーズには、その言葉が、どうしても素直に入ってこなかった。
――正式なお立場があるわけではない。
その通りだ。自分はルシアンの側近ではない。ただ、ルシアンが呼んでいる。それだけだ。そして、彼が呼ばなくなれば、自分の席は、簡単になくなる。
昼過ぎ、自室でミレイユと話す。
「皆、急に私へ声をかけるようになったでしょう? 殿下が私を会議へ呼んだから」
「おそらくは」
「それで、私は、本当に必要だから呼ばれているのかしら」
言葉にすると、思っていたよりも弱い声になった。
「気にしておられるのですね」
「殿下は、必要だと言ってくださった。でも、皆が、お気に入りだからだと言うから」
ミレイユはすぐには答えなかった。
「殿下がお嬢様をお気に入りなのが、嫌なのですか」
思っていなかった問いだった。
「嫌ではないと思う」
口にした瞬間、頬が熱くなる。
「では、お嬢様が心配なのは、好かれているから仕事まで任されているのではないか、ということですか」
「そう、なのかもしれない」
やっと、胸の中にあった形が言葉になる。
「もし、私の聞く力が、それほど役に立っていなくても、殿下が私を気に入っているから、必要だと言ってくださっているのだとしたら」
「それは、私には分かりません」
「あなたも?」
「殿下のお心までは、私には聞こえません」
「なら、確かめればよいのでは? 殿下に聞くとか」
「聞けないわ」
即答だった。
「でも」
ミレイユが続ける。
「一つだけ、私は知っています。お嬢様は、何もしていないのに会議へ呼ばれたわけではありません。最初に、殿下の側近の方の違和感へ気づきました。そのあとも、偶然だったかもしれないことを、二度、三度と確認してこられたのでしょう?」
「……はい」
「それを殿下がお気に召したのか、耳を必要とされたのか、お嬢様ご自身を気に入られたのか。全部なのか。それは、私には分かりません」
「ミレイユ、楽しんでいるでしょう」
「少しだけ。でも、お嬢様が役に立っていない、とは思いません」
その声には、違和感がなかった。
翌日の会議。前回と同じ部屋、同じ楕円形の卓。けれど、扉を開けた瞬間の空気は、少しだけ違っていた。前回のような驚きはなかった。
「ベルモン伯爵令嬢」
若い文官が先に声をかけてくる。机の上には、自分の分の資料が置かれていた。
「分からないところは?」
「三つほど」
「それだけですか。逆です。ご自分で調べられたのですか」
「はい」
「そうですか」
前回より、声が少し柔らかい。
「先日の荷馬車の件ですが」
軍服の男が言う。
「路面の沈みは、二箇所で確認されました。あなたの考えた通り、重い荷だけで症状が出ていた」
「私の考えた通り、ではありません」
「なら、それでいいでしょう」
胸の中が少し温かくなる。
それでも、その直後、聞こえた声が、その温かさを簡単に消した。
「ずいぶん馴染んだものだな」
まだ席についていなかった二人の男が、少し離れたところで話している。
「殿下のお気に入りとなれば、皆、扱いも変わるさ」
「能力があるかどうかは、二の次か」
小さな笑い。エリーズは資料へ視線を落とした。聞こえなかったふりをする。
「席についてください」
ドニの声で会話が止まる。会議が始まる。
ルシアンも入ってくる。
「来たね。資料、大丈夫だった?」
「はい」
いつもと同じ。それが、今日は少し違って感じられた。
――だから、ここにいるの?
胸が重い。会議は進んだ。最初の議題も、次の議題も、エリーズの耳には何も引っかからなかった。
「ベルモン伯爵令嬢、今の報告について、何か?」
年配の貴族が尋ねる。
「……いいえ」
「本当に?」
「はい」
男は頷く。それだけ。責める様子はない。けれど、エリーズの胸には、別の焦りが生まれた。
何もない。また、何もない。役に立っているのだろうか。
「エリーズ」
不意に、ルシアンの声がした。名前。公の会議で、珍しく、爵位ではなく名前で呼ばれた。
「大丈夫?」
胸が縮む。
「はい」
答えた瞬間、自分で分かった。今の声は、硬かった。
「本当に?」
「少し、考え事をしていました」
ルシアンはそれ以上追及しなかった。会議へ戻る。
殿下のお気に入り。胸が苦しい。嫌なのは、自分がここにいる理由まで、それ一つにされること。耳も、考えたことも、ここまで自分で選んできたことも、全部、王弟のお気に入りだから。その一言で、無かったことにされるような気がする。
会議が終わる。今日は、やはり一度も、大きな違和感はなかった。
「今日は何もなかったようですな」
軍服の男が声をかける。
「……はい」
「なら、良いことでしょう。問題を見つけるための会議ではない。問題がないなら、それが一番いい」
「それとも、何か見つけないと席がなくなるとでも?」
胸を突かれた。
「私は最初、あなたがここにいることへ反対していた。今も、何でも納得したわけではない。ですが、殿下は、役に立たない人間をこの席へ置くほど暇ではありません」
「殿下のお気に入りだから、という話も聞きました」
「見えるでしょうな。殿下があなたへ向ける態度は、他の者へのものとは少し違う。ただ、それと、あなたがここにいる理由は別でしょう。少なくとも、私なら、気に入っているというだけの相手に、自分の失敗や国の弱みが並ぶ会議を聞かせません」
「そう、でしょうか」
「殿下に聞けばよい」
「それができれば、悩んでいません」
男は一瞬驚いたような顔をし、それから初めて、はっきり笑った。
「今日何も聞こえなかったからといって、次も来るなとは誰も言わないでしょう」
男は部屋を出ていった。
「ずいぶん話すようになったね」
後ろから、ルシアンの声。
「殿下、少し、伺ってもよろしいでしょうか」
エリーズは資料を胸元へ抱えた。
「私を、ここへ呼ぶのは」
一度、息を吸う。
「本当に、必要だからですか」
ルシアンの表情から、笑みが消えた。
「どういう意味?」
責める声ではない。真面目な声だった。
「今日、殿下のお気に入りだから、この席にいるのだと聞きました。以前も、聞きました」
「うん」
「殿下は必要だからと仰ってくださいました」
「言ったね」
「でも、もし、私の耳がそれほど役に立っていなくても、殿下が私を……気に入っているから、置いてくださっているのなら」
言い切るだけで、頬が熱くなった。ルシアンはしばらく何も言わなかった。その沈黙が怖い。
「エリーズ」
「はい」
「二つの話が混ざってる」
「二つ?」
「君がここに必要かどうか。それと、私が君をどう思っているか」
胸が小さく鳴った。
「別だよ」
はっきりした声だった。
「前者についてなら、今答えられる。君は必要だからここにいる。それ以外の理由で、この席へ置いたことはない」
迷いがなかった。
「今日、何も見つけなかったから?」
「関係ない」
「次の会議でも何もなかったら?」
「関係ない」
「ずっと?」
「ずっと何もないなら、国としては助かる」
思っていなかった答えに、エリーズは少し目を見開いた。
「君は、違和感を出すためにここにいるわけじゃない。必要なときに、そこにいるため。何もなければ、何もない。それでいい」
「でも、それに、最近は耳だけじゃないだろう。街道の件。重い荷馬車を調べようと言った。会議の資料も読んできた」
「当然では」
「当然じゃない。分からないところを自分で調べて、それでも分からないものだけ残した」
「君は、必要とされるために何かを当て続けなくていい。席は、試験の賞品じゃない」
その言葉が、自分が一番怖がっていた場所へ届いた。
「分かりました。ありがとうございます」
「何が?」
「必要だから、ここにいてよいと分かったことです」
「うん」
ルシアンは頷いた。これで終わり。そう思った。けれど、エリーズの胸には、まだ一つ残っている。ルシアン自身が口にした、もう一つ。
――私が君をどう思っているか。
「殿下。では、もう一つは」
そこまで言うと、ルシアンがほんの少しだけ目を細めた。
「聞く?」
エリーズの息が止まった。簡単な問いだった。けれど、その先に何があるのか分からない。
知りたい。そう思う。同時に、今はまだ怖い。
「……いいえ。今は、聞きません」
「そう」
ルシアンはそれ以上、何も言わなかった。否定もしない。説明もしない。ただ、話はそこで終わった。そのことが、かえって耳に残った。
「いつか、聞きたくなったら聞けばいい」
エリーズは少しだけ迷ってから頷く。
「はい」
また、選ぶ余地を渡された。それが嬉しかった。
帰りの馬車の中、エリーズは何度も今日の会話を思い返した。
必要かどうか。それについては答えが出た。自分は、必要だからあの席にいる。何かを当て続けなくてもいい。何も聞こえない日があってもいい。そこはもう、疑わなくてもいいのだと思う。
けれど、もう一つは、まだ分からない。ルシアンが自分をどう思っているのか。エリーズは聞かなかった。ルシアンも答えなかった。それでいい。今はまだ。
ただ、もし完全に違うのなら、あの人は、あんなふうに「聞く?」と尋ねただろうか。
そんな考えが浮かび、エリーズはすぐに首を振った。意味を足してはいけない。それはずっと、自分が守ってきたことだった。分からないなら、分からないままでいい。いつか、確かめたいと思ったときに、自分で聞けばいい。
膝の上には、次の会議資料がある。外国使節団。名簿。滞在予定。各貴族との面会。知らないことばかりだった。
エリーズは資料を開く。今は、こちらを理解する方が先だ。そう思った。けれど、文字を追いながらも、ときどき、――聞く? あの一言だけが、耳の奥へ戻ってきた。
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