第13話 一度だけ
外国使節団についての資料は、エリーズが予想していたよりもずっと厚かった。
正使を含む使節の構成、王都での滞在日程、王宮での謁見、晩餐の席次、各省との会談予定、さらに相手国との過去の交易記録まで綴じられている。
分からなければ調べる。それでも分からなければ聞く。以前なら、自分には関係のないものとして閉じていた資料を、今は少しずつでも理解してみたいと思っている。
「まだ読んでいらっしゃるのですか」
夜も深くなった頃、ミレイユが新しい湯を持って部屋へ入ってきた。
「あと少しだけ」
「その『少し』を、先ほども聞いた気がします」
エリーズも以前なら咎めただろうが、今ではこの程度のやり取りには慣れ始めている。
「使節団はアルヴェール王国へ十日ほど滞在する予定になっている。目的は表向き、交易条件の確認と友好関係の維持。ただ、王都の有力貴族とも複数回の面談が予定されている。
「外国の使節が来たとき、貴族が個別に会うのは普通なのかしら」
「私にお尋ねになります? 明日、殿下にお尋ねになればよろしいのでは?」
「殿下でなくても、ドニ様か会議の方に」
「そこは殿下ではないのですね」
今の声は、明らかに何かを含んでいる。
「ミレイユ」
「お休みなさいませ、お嬢様」
翌日の午後、王宮の会議室へ入ると、すでに半数ほどが席についていた。
「昨日の資料で、分からないところがあるのですが」
以前なら、会議が始まる前に質問をすることすら躊躇しただろう。今日は自然に言えた。
「使節の方々が、王都の貴族と個別に会うことがありますね」
「珍しくはありません。公式交渉とは別に、人脈を作るためです」
「今回は特に多いがな」
年配の貴族だった。初めて会議へ同席した日でエリーズの同席に最初に反対した人物だ。
「正使が随分と顔が広いらしい。以前にもアルヴェールへ来たことがある」
それは資料には書かれていなかった。
「もっとも、私は直接会ってはいない。古い話だ」
男はそれだけ言うと、自分の資料へ戻った。最初に会ったときとは、随分違う。
やがて、扉が開く。ルシアンがドニとともに入ってきた。
「始めよう。今日の中心は使節団だ。到着まで六日」
ドニが資料を開いた。
「まず、使節団の構成について。予定より二人増えています」
「理由は?」
「一人は書記、一人は正使付きの補佐官です。先方の説明では、交渉事項が増えたためとのことです」
会議が進む。謁見時の席次、晩餐の席次。
「席次は、相手をどう扱っているかそのものです」
隣の若い文官が小声で説明した。エリーズは少し考える。なるほど。言葉と同じなのかもしれない。呼び方。語尾。言葉の順序。一つだけ見れば小さな違いでも、そこへ意味を置く人間にとっては、大きなものになる。
「王宮での謁見後、正使は財務院との協議へ移ります。その後、王都の三家と個別面談」
三つの家名が読み上げられる。
「なぜその三家だ」
軍服の男が尋ねる。
「一つは南部の港を持つ家。もう一つは交易組合との関係が深い。最後は」
ドニが一人の貴族を見る。会議卓の中ほどに座っている男だった。
「以前から先方と書簡のやり取りがあります」
「領地の織物をあちらへ出しておりますので」
「正使本人と会ったことは?」
「ありません」
返事は自然だった。エリーズには、何も引っかからない。
「書簡は?」
「商会から届いたものへ、何度か礼状を返した程度です」
「分かった」
話は続く。
「正使については、正式な称号をすべて読み上げます」
礼部を担当する文官が名簿を持ち上げた。
そのとき、先ほど正使と会ったことはないと答えた貴族が口を開いた。
「正使閣下は、格式を重んじる方だと聞いております」
エリーズの指が止まった。ほんの少しだけ。何かが違った。
それまで、この会議では、皆、どう呼んでいただろう。正使。正使殿。先方の正使。少なくとも、閣下。そう呼んだ者はいなかった気がする。
偶然かもしれない。その人独自の言葉遣いなのかもしれない。エリーズは何も言わず、その後の会話を聞いた。
「正使殿の席は、陛下から三席離した位置でよろしいですね」
礼部の文官が確認する。さきほど、別の者は、正使殿。
「問題ありません」
先ほどの貴族も頷く。今度は、何もない。
エリーズは少し眉を寄せる。聞き間違い。いや、言葉は確かに覚えている。正使閣下。その一度だけ。
「どうした?」
隣の文官が小声で尋ねる。
「……少しだけ」
「あとでお話しします」
「殿下に?」
「はい」
会議は続く。使節の宿泊先。護衛の人数。通行を制限する区画。贈答品。エリーズは聞き続けた。けれど、あの一言が、耳から離れない。
正使閣下。なぜ、その人だけ。そして、なぜ一度だけ。
意味を考えそうになる。近しい相手だから? 以前から知っている? 相手を高く見ている?
すぐに止める。違う。それは、意味を足している。自分に分かるのは、呼び方が、一度だけ違った。それだけ。
「他に確認したいことは?」
ルシアンが全員を見る。誰もすぐには口を開かない。
エリーズは迷った。まだ、会議は終わっていない。なら、ここで言うべきなのか。
自分は、この場へ置かれている。必要なときに、そこにいるため。前の会議で言われた言葉を思い出す。なら、今なのかもしれない。
「殿下。一つだけ、気になることがあります」
部屋の空気が、ほんの少し変わった。以前なら、この空気に負けていた。皆の前で、曖昧なことなど言えない。そう思っただろう。でも、今は、違う。
「何?」
ルシアンが尋ねる。エリーズは先ほどの貴族を見る。
「先ほど、正使のお名前が出たときです。閣下、と仰いました」
男の表情は変わらない。
「それが?」
「それまで皆様は、正使殿、と仰っていたと思います」
礼部の文官が名簿から顔を上げる。
「確かに」
「でも、その方だけ、一度だけ、閣下と」
沈黙。男が少し眉を寄せる。
「私が? それが何か?」
当然の問いだった。
「分かりません」
「なら」
別の貴族が口を開きかける。しかし、ルシアンが軽く手を上げて止めた。
「続けて」
「その後は、正使殿と仰っていました」
当人の貴族が少し考える。
「そうだったかな。単なる言い間違いでは?」
「その可能性もあります。敬称に詳しくないので、私にはどちらが正しいのかも分かりません」
礼部の文官が口を開く。
「公式には『正使殿』で統一します。『閣下』でも礼を失するわけではありませんが、こちらでは通常使いません。相手国では、高位官吏へ使われることがあります」
「それだけです」
エリーズは言った。
「その時だけ違いました」
ルシアンが、何も言わずにエリーズを見る。王宮の廊下で初めて声の違いを伝えた夜、最初の夜。同じように、自分が違ったと話したときの目だった。
けれど、今のエリーズは、あのときとは違う。謝らない。意味も作らない。ただ、聞こえたことを言った。
「なるほど」
ルシアンが視線を貴族へ移す。
「何か思い当たる?」
「ありません」
男はすぐに答えた。その声には、少なくとも、エリーズは何も感じなかった。
「外国の称号を調べていて、つられたのかもしれません」
「分かった」
誰かを問い詰めることもしない。その場で疑うこともしない。
「ドニ。あとで、使節団との過去の連絡記録を確認して。正使の呼称が、過去の文書でどう使われているか。それから、この会議で、誰がどの資料を読んでいるかも」
「殿下。私をお疑いですか」
室内が静かになる。エリーズの胸が少し苦しくなる。自分が言ったせいだ。そう考えかける。
けれど、ルシアンは落ち着いて答えた。
「まだ何も」
「では、なぜ」
「違ったと言われたから。それだけだから。確認するだけだ」
――調べることと、疑うことは同じではない。
「何もなければ、言い間違いだったと分かる」
男は少し黙る。
「……承知しました」
「今日はここまで」
ルシアンが告げる。エリーズは資料をまとめた。けれど、少しだけ、手が震えている。
今回は、今までと違う。外国使節。外交。自分がほとんど知らない世界。そこへ、たった一つの敬称の違いだけで、声を上げた。
「ベルモン伯爵令嬢」
呼ばれる。先ほどの、敬称を変えた貴族だった。
「随分、よく聞いているのですね」
声は穏やかだった。怒っているようには聞こえない。けれど、それが本当かどうかは分からない。
「聞こえましたので」
「私自身、何と呼んだか覚えていませんでした」
「あなたの耳には、気をつけなければなりませんな」
「気をつけていただく必要はありません。私は、聞こえたものを、全部疑うわけではありませんから。今回も、理由は分かりません」
「そうでしたな」
男はエリーズをしばらく見た。
「では、次の会議で」
去っていく。その背中を見送る。
「どうだった?」
いつの間にか、ルシアンが隣に立っていた。
「何も。少なくとも、今の声には何も感じませんでした」
「そう。なら、それでいい」
「怖かった?」
聞かれ、少し迷う。
「はい。でも、言わない方がよかったとは、思いません」
「どうして?」
「私がここにいるのは、必要なときに、そこにいるためなのでしょう?」
ルシアンは一瞬、何も言わなかった。
「覚えてたんだ」
「昨日のことです」
「なら、今日は必要だった?」
「それは、まだ分かりません。調べてみないと」
「うん」
そこで、エリーズは気づく。今日、自分がしたことは、最初の夜とほとんど同じだ。違った。それだけを言った。
でも、あの夜、自分は廊下の隅で、逃げようとしていた。聞かれて、ようやく答えた。今日は、会議の途中で、自分から声を上げた。同じ「違った」でも、そこへ至る自分が、少し変わっている。
「エリーズ。今日はありがとう」
「まだ、何も分かっていません。間違いかもしれません」
「それも」
「では」
「違ったんだろう?」
「はい」
「それで十分」
それ以上、ルシアンは何も言わなかった。好意の話も、前の会議で保留した問いも、一切出さない。ただ、仕事の話だけ。それが今は、妙に心地よかった。
帰りの馬車、エリーズは資料を膝の上へ置いた。
正使。正使殿。正使閣下。何度思い返しても。一度だけ、違う。理由は、分からない。言い間違いかもしれない。それなら、明日には、何もなかったと分かる。それでいい。
以前なら、答えが分からないことを、怖いと思った。今は、答えが分からないから、確かめる。その先を、誰かと一緒に待つことができる。
耳の奥には、まだ、あの一言だけが残っている。
――正使閣下。
一度だけ。本当に、それだけだった。
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