第14話 調べてみろ
翌朝になっても、エリーズの耳には「正使閣下」という一言が残っていた。
その後、あの貴族は他の者と同じように「正使殿」と呼んでいた。声が震えたわけでもない。言葉に詰まったわけでもない。だから、昨日のことが何を意味するのかは、今も分からない。
「まだ考えていらっしゃるのですか」
背後からミレイユの声がして、エリーズは資料から顔を上げた。
「一つだけ、ある方が、外国使節の正使を呼ぶときだけ、皆とは違う敬称を使ったの」
「それで、殿下は?」
「調べると。何もなければ、言い間違いだったと分かる、と仰っていたわ」
「お嬢様は、どう思っておられるのですか」
「何もないといいと思っている。でも、何もなかったのかどうかは、知りたい」
王宮から使いが来たのは、その日の昼を少し過ぎた頃だった。
「本日?」
封書を読みながら、エリーズは思わず聞き返す。急な呼び出し。けれど、命令ではない。都合が悪ければ別の日でも構わないと書かれている。
「伺います」
午後、王宮へ着くと、いつもの会議室ではなく、ルシアンの執務室へ案内された。
中にはルシアンとドニがいた。机の上には、見慣れない書類が何束も積まれている。
「来たね」
「はい」
「急に呼んでごめん。本当に大丈夫?」
「今回は、本当に」
「ならよかった。座って」
ドニは立ったまま、一冊の古い記録簿を開いていた。
「昨日の件です。まず、敬称について確認しました。王宮に残る公文書では、今回の正使について一貫して『正使殿』、あるいは役職名のみで記載されています」
「では、『閣下』は?」
「ありません。相手国から届いた公文書にも、アルヴェール語へ翻訳した段階では使われていません」
「昨日の方が、外国の資料を読んでいてつられたという可能性は?」
「あります。そこで、彼が閲覧した資料も確認しました。王宮から渡した資料の中には、正使本人の母国語での書簡が三通含まれていました。正使本人への敬称として、彼の国で『閣下』に相当する語が使われています」
それなら、説明がつく。エリーズは少し息を吐いた。
「ただし、その三通は、昨日の会議に出席した者には渡されていません。礼部と外交担当者だけが閲覧した資料です」
「では」
「王宮から渡された資料だけを読んでいたのであれば、その呼び方を知る機会は少なかったことになります」
「別のところで聞いた可能性もありますよね」
「もちろん」
ルシアンが答えた。
「だから、それだけでは何も決めない。でも、調べる理由にはなった」
その言葉。最初から、変わらない。
「それで、見つかった」
エリーズの指が止まる。
「何が、ですか」
「接触」
短い答えだった。
「そこまでは分からない。本人が昨日言った通り、正使と直接会った記録は今のところ出ていない。手紙です」
ドニが答える。
「通常の商会を通した礼状ではありません。四か月前、二か月前、そして三週間前。三度、正使本人からアルヴェール王国内の彼の邸宅へ、私信が送られています」
「私信? 昨日は、商会から届いたものへ、何度か礼状を返した程度だと」
「そう答えました。でも、別にあった」
「未報告ですか」
「未報告」
今度はドニが答えた。
「外国の高官と私的な書簡を交わすこと自体が、直ちに罪になるわけではありません。ですが、その人物が正式な交渉相手として来訪する場合、過去一定期間の私的接触は届け出る決まりです。知り合いなのに、知らないふりをして交渉へ入る方が困る」
「その方は、届け出ていなかった?」
「うん」
「どうして」
「それを、これから聞く」
ルシアンの声は落ち着いていた。怒っているようには聞こえない。けれど、昨日より、明らかに仕事の声になっている。
「手紙の内容は分かるのですか」
「一通だけ」
ドニが答える。その紙が、エリーズの前へ置かれる。挨拶。織物の品質について。今後の取引。そして、最後の一文。
「港の使用料」
思わず口に出した。
「そこです」
ドニが頷く。南部の港を通す場合の費用について。通常より低い料率で扱える可能性がある。そんな内容だった。
「今回の交渉と関係があるのですか」
「あるかもしれない。まだ、分からない」
その言い方に、少し安心する。未報告の書簡が見つかった。だから、すぐに裏切りだとは言わない。
「昨日の敬称がなかったら、この手紙を今の段階で探すことはなかった」
エリーズは書類へ視線を落とした。胸が、ゆっくりと鳴る。
「私は、正使閣下という呼び方に気づいただけです。手紙があるとは、分からなかった」
「だから?」
「前にも言ったでしょう」
「入口」
「そう」
ルシアンが紙を指で軽く叩く。
「君が見つけたのは、これじゃない。ここへ入る入口だ」
「それでも、役に立つのですね」
「かなり」
即答だった。
「昨日の方は、これから来る」
エリーズの身体が少し固くなる。
「私も、いるのですか」
「それを聞こうと思ってた。同席する?」
選ばせる。また。
「います」
「よろしいのですか」
「君がいいなら」
「はい」
しばらくして、扉が叩かれた。昨日の貴族が入ってきた。エリーズを見る。ほんの一瞬だけ足が止まったように見えた。けれど、そこへ意味は置かない。
「殿下」
「急に呼んで悪いね。少し確認したいことが出た。正使との手紙」
男の呼吸が、一瞬止まった。エリーズの耳が、そこを拾う。でも、何も言わない。
「私信が三通ある」
ルシアンが日付を読み上げる。男の顔が、少しずつ硬くなる。
「覚えてる?」
「……はい」
「昨日、商会から届いたものへ礼状を返した程度だと言ったね。私信は?」
「それは、取引の延長だと思っておりました」
「報告しなかった理由は?」
「必要がないと」
「外国高官との私信だ」
「当時は、正式な正使ではありませんでした」
ドニが紙を見る。
「最初の一通の時点で、すでに任命は内定しています。公表前です」
「知っていた?」
男が黙る。
「知っていたの?」
「……聞いてはいました」
「誰から」
「正使本人です」
「では、私的に正使就任前から情報を受け取っていた」
「そういう意図では」
「意図はまだ聞いていない。事実だけ」
「港湾使用料の話は?」
「商売上の相談です」
「今回の交渉と関係は?」
「ありません」
その瞬間、エリーズの耳には、何も引っかからなかった。だから、黙る。
「分かった。今日はここまで」
「よろしいのですか。もっと、お尋ねになるのかと」
「必要なものは確認した。残りは、手紙と取引記録を見る」
「殿下。私は国を売るようなことはしておりません」
「まだ、そんな話はしていない。届け出ていない接触があった。今分かっているのは、それだけ。だから、それ以上は資料を見てから考える」
「……承知しました」
男が立ち上がる。そして、エリーズを見る。昨日とは違う目だった。
「ベルモン伯爵令嬢。昨日の一言から、ここまで調べられたのですか」
「私は、調べておりません。違ったと申し上げただけです」
「私は昨日、あなたの耳には気をつけなければならないと言いました」
「はい」
「どうやら、気をつけるべきだったのは、耳ではなく、自分の報告の方だったようだ」
エリーズは返事ができなかった。男はルシアンへ頭を下げ、部屋を出ていった。
「どうだった?」
ルシアンが尋ねる。
「いくつか、昨日とは違いました。手紙の日付を言われたとき。それから、正使本人から任命の話を聞いたと認める前。でも、港湾使用料と今回の交渉は関係ない、と仰ったところは、私には特に違って聞こえませんでした」
「では、あの部分は本当だと?」
ドニが尋ねる。
「分かりません。本当でも、嘘でも、私には同じように聞こえることがあります」
「ですから」
エリーズは続ける。
「調べてください」
一瞬、部屋が静かになった。今、自分から、調べてください、と。
「うん」
ルシアンが少し目を細める。それだけ。でも、その返事で、エリーズは少し安心した。
「ドニ。調べてみろ。港湾使用料の件。正使側から過去一年で誰に何が送られているか。それから、この家の商会取引。南部の港に関係するもの全部」
「他の二家も」
「今回、正使と個別面談を予定している? 同じ基準で」
「一人に何かあったから、その一人だけを疑うな。同じ条件の者を、同じように見る」
「分かりました。結果が出るまで、本人への処分は?」
「なし。会談への参加は、今は変えない」
エリーズはそのやり取りを黙って聞いていた。調べる。でも、まだ罰しない。役割も奪わない。
「エリーズ」
「はい」
「何か?」
「少し、安心しました。昨日、私があの方を疑わせてしまったのではないかと思っていました。でも、疑うために調べているわけではないのですね。同じ条件の方も調べる。それなら、言ってよかったと思えます」
ルシアンはしばらく黙っていた。
「最初から、そう言ってるんだけど」
「分かってはいました。半分くらい」
ルシアンが笑った。ドニも、ほんの少しだけ口元を緩める。
「でも、今日、分かりました。私が答えを出さなくても、誰かが、その先を調べられる。私が聞いているのは、答えではなくて、その前」
「その前?」
「調べた方がいい場所。入口です」
「そう」
ルシアンが頷いた。
「それでいい」
胸の中に、静かな温かさが広がる。自分の耳は、人の秘密を暴くものではない。ただ、皆が通り過ぎてしまう、ほんの小さな違いを拾う。そして、そこを調べてみればいいと、誰かへ渡す。それだけ。でも、それだけでも、役に立つ。
ドニが書類を抱え、扉へ向かう。その前で一度止まった。
「ベルモン伯爵令嬢。昨日のことですが、敬称の違いを、その場で仰っていただいて助かりました。まだ、何があるか分かっていません。ですが、昨日仰っていただかなければ、今日この記録を見ることもありませんでした。ですから、ありがとうございます」
ドニはそのまま部屋を出ていった。閉じた扉を、エリーズはしばらく見つめていた。
「どうした?」
「嬉しかっただけです」
「そう」
ルシアンは短く答えた。それ以上、何も言わない。けれど、その声は、少しだけ柔らかく聞こえた。
帰りの馬車、エリーズは資料を膝の上に置いていた。
正使閣下。たった一度の呼び方。そこから、三通の私信が見つかった。未報告の接触。正使就任前の情報。港湾使用料。それでも、まだ、真相は分からない。
それでいい。今は、そう思えた。
自分は、真実を見つけたわけではない。ただ、小さな扉を一つ見つけた。その向こうに何があるのかは、これから、別の誰かも一緒に調べる。それでいい。
自分が見つけた入口を、誰かが本当に使ってくれた。それが、何より嬉しかった。
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