第15話 次も彼女を
王宮から次の連絡が届いたのは、二日後の朝だった。
「お嬢様。王宮からです」
ミレイユが一通の封書を持って入ってくる。差出人はドニだった。
先日の外国使節に関する確認が進んだため、その結果を共有したい。そして、数日後に予定されている使節団との会談について、事前に説明しておきたいことがある。そう書かれていた。最後には、都合が悪ければ資料だけでも届ける、という一文が添えられている。
「どうなさいます?」
「行くわ」
答えは早かった。
午後、王宮へ着いたエリーズは、前回と同じルシアンの執務室へ案内された。中にいたのは、ドニだけだった。
「殿下は?」
「陛下のもとです」
「そうですか」
「残念ですか」
「……今日のお話とは関係ありません」
「まず、先日の貴族について。正使との私信は、確認できた三通で全てでした。ただし、正使が任命される前から、彼が次の正使候補であることを知っていたのは事実です。本人も、昨日あらためて報告書を提出しました。私的な取引の延長だと判断し、届け出る必要性を軽く見ていた、と」
「それは、本当なのでしょうか」
言った直後、ドニがこちらを見る。エリーズはすぐに付け加えた。
「分からない、という意味です。私には判断できません」
「承知しています」
今は、それを先に説明しなくても、ドニは分かっている。そのことが少し嬉しかった。
「港湾使用料についても確認しました。先日の貴族だけが特別に話を受けていたわけではありませんでした。南部の港を利用する複数の商会へ、似たような話が持ち込まれています」
「殿下の仰った通り、同じ条件の方を、同じように調べたのですね」
「はい。結果として、他の二家にも先方との接触がありました。一方は報告済み。もう一方は報告義務の対象外でした」
「三家とも、事情が違った」
「そういうことです」
同じように調べる。でも、同じ結論にはしない。確認した事実によって、一人ずつ判断する。
「先日の方への処分は?」
「今のところ、注意と報告書の提出のみです」
「安心しました」
「なぜです」
「私が何か大きな問題を見つけた方が、役に立ったように見えるのかもしれません。でも、何も大きな問題がなかった方が、嬉しいです。それでは、役に立っていないでしょうか」
「逆です」
すぐに返された。
「確認した結果、重い問題ではなかったと判断できた。それも仕事です」
ルシアンが何度も言ったこと。何もなければ、何もなかったと分かる。それだけ。でも今、ルシアンではなく、ドニも同じことを言った。
「そして、今回、別のことも分かりました。先方が港湾使用料について、かなり早い段階から話を広げていることです」
「それは」
「問題ではありません。まだ」
ドニが地図を広げる。南部の港。王都。交易組合。いくつもの場所へ印がつけられている。
「正使が今回、正式に何を要求してくるかはまだ分かりません。ですが、港について何らかの要求をする可能性は高いと考えています。明後日、使節団が到着します。三日後に、最初の実務会談があります」
「それを、私に? なぜですか」
「必要だからです」
あまりにも自然に返ってきた。これまで、ルシアンから何度も聞いた。けれど、ドニから、こんなふうに言われたことはなかった。
「私は、その会談にも?」
ドニは、答える前に、一瞬だけ黙った。
「そのつもりで説明しています」
「殿下が?」
「いいえ。私です。私が、同席していただきたいと考えています」
部屋が、急に静かになった気がした。
「どうして」
「今回の件です。敬称の違いから、未報告の接触が見つかりました。もちろん、それだけなら偶然とも言えます。以前も、私の報告の違いに気づいた。部下の言葉の強調から、別の未報告を見つけた。街道については、重量のある荷馬車を確認する案を出した。そして今回、あなたは、分からないと言いながらも、一度だけ違う敬称を拾った」
エリーズは黙る。
「私は、もう、殿下のお気に入りだから会議にいる方だとは考えていません」
胸が、大きく鳴った。
「最初は、少し、そう思っていました」
あまりにも率直で、エリーズは返事を失った。
「ドニ様も?」
「はい。殿下は、一度興味を持つと、ご自分で確かめるまで止まらないところがあります。ですから最初は、珍しい耳を持つ令嬢を見つけて、しばらく気にされているだけかもしれないと思っていました」
「……はい」
少しだけ、胸が痛む。でも、続きを待つ。
「しかし、今は違います。あなたがいると、確認すべき場所が増える」
「仕事が増えるのでは?」
「増えます」
即答だった。
「ですが、見落としたまま進めるより、ずっといい。今回のような外交の場では、あとから『あの言い方だけ違いました』と言われても遅いことがあります。ですから、次の会談にも、あなたを同席させたい」
「私で、よいのですか」
「あなたでなければ意味がありません」
その言葉は、思っていた以上に強かった。
「ただし、一点だけ。相手はこちらの貴族ではありません。あなたのことを知らない。そして、知られる必要もありません」
「私の耳のことを?」
「そうです。説明しない。相手が、あなたの反応を意識する可能性があるからです」
それは、考えたことがなかった。
「ただ同席してください。何の立場で、と聞かれたら、殿下の政務に同席している伯爵令嬢とだけ」
「嘘をつく必要は?」
「ありません。ただ、聞かれていないことを説明する必要もない」
そのとき、扉が開いた。
「何が分かった?」
ルシアンだった。
「次の会談ですが、ベルモン伯爵令嬢にも同席していただきます」
ルシアンの目が、一瞬だけエリーズへ向いた。
「決めたの?」
「はい。私が」
短い沈黙。
「そう」
ルシアンの口元が、ほんの少し緩んだ。
「なら、いい」
「反対されませんか」
思わずエリーズが尋ねる。
「私を、ドニ様が呼ぶので」
「むしろ、その方がいいでしょう。私が言うと、また、お気に入りだからって言われる」
「今回は、私が必要だと判断しました」
ドニが真面目に答える。
「聞いた?」
「はい」
「よかったね」
「……嬉しいです」
それを、隠す必要もないと思った。
その後、一時間ほど、実際の会談について説明を受けた。
「私は、どこへ?」
「ここです」
ドニが指す。ルシアンの真横ではない。二席離れた、外交担当者の隣。目立ちすぎない、でも会話は十分聞こえる位置。
「発言は?」
「求められなければ不要です」
「何か感じたら?」
ドニが答える前に、ルシアンが言う。
「私を見る?」
「いきなり会談を止めて、『今の声が違いました』とは言いにくいでしょう。何かあったら、一度、私を見る」
「分かるのですか」
「たぶん。君は顔に出るから」
「出ません」
「出るよ」
「ドニ」
突然振られる。
「出ます」
エリーズは黙った。
「何かあった場合、殿下が休憩か議題変更を挟みます。ただし、何もなければ、本当に何もしないでください。探さなくて結構です」
「少し心配です。必要だと言われたばかりなので」
何か見つけなければ、必要だと言われたことに応えなければ。そう思う可能性。
「大丈夫です。何もなければ、それでいいのでしょう? なら、聞くだけにします」
「いいね」
聞くだけ。何かを探すのではない。答えを当てるのでもない。ただ、そこにいて、聞く。
その日の帰り、王宮の廊下で、前方から、以前エリーズの同席に反対していた年配の貴族がやってきた。
「今日は会議では?」
「いいえ。次の会談について説明を受けていました。外国使節との」
「あなたも出るのか」
「はい。ドニ様から、同席してほしいと」
「ドニ殿が?」
男が一瞬黙った。
「そうか。殿下だけではなくなったな」
「はい」
今度は、少しだけ笑って答えた。
「そうみたいです」
「なら、次も頼む」
「私に?」
「他に誰がいる」
それだけ言って、男は歩いていった。
王宮を出て、馬車へ乗る前、エリーズは一度、建物を振り返った。
最初に会議へ入った日、皆が、なぜここにいるのか、そういう目で自分を見ていた。王弟のお気に入り。そう囁かれた。
けれど、今日。ルシアンは何も言っていない。ドニが、自分から、次も彼女を、そう求めた。そして、別の側近からも、次も頼む、そう言われた。
必要とされる。そのことが、以前は、誰かに選ばれることと、ほとんど同じ意味だった。でも今は、少し違う。何かをした。それを見た人が、また来てほしいと言う。その積み重ねで、自分の場所が、少しずつできていく。誰か一人の好意だけで、与えられた席ではない。そう思えた。
会談資料を閉じたあと、ドニはエリーズへ一枚の紙を渡した。
「これは、あなた用です」
「私用?」
座席表と、会談で扱う予定の項目だけが簡潔にまとめられている。専門的な交渉文言はなく、誰がどの話題を担当するかが分かるように整理されていた。
「私には、詳しい外交の知識がありません」
「ですから、全部覚える必要はありません」
「よいのですか」
「あなたに外交官の役目をしてほしいわけではありません。誰が、どの話題で、いつもと違う反応をしたか。その入口だけ拾ってもらえれば十分です」
役割を限定されることが、以前ほど怖くなかった。
できないことまで期待されているのではない。
自分にできることを、相手が分かったうえで頼んでいる。
「それなら、できます」
「何も気づかない可能性もあります」
「はい」
「その場合は?」
「何もなかったと報告します」
ドニが頷く。
「それでお願いします」
王弟ではなく、筆頭側近と自分だけで、仕事の確認をしている。
その事実が、じわじわと実感へ変わっていった。
好意で置かれた席ではない。
結果を出し続けなければ消える席でもない。
何もなければ何もないと伝えることまで含めて、自分の役割として認められている。
その違いは、エリーズが思っていた以上に大きかった。
必要だと言われることに、まだ胸は高鳴る。けれど今は、その言葉の理由まで見える。自分が何をしたから次も呼ばれるのか。それが分かるだけで、与えられた席にしがみつくような不安は少し薄くなった。
三日後、エリーズは、初めて、外国使節と向き合う席へ座ることになる。そこでは、誰も、黒うさぎの耳が何を拾うのかなど、まだ知らなかった。
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