第16話 聞くだけの娘
外国使節との会談当日、エリーズはいつもより早く目を覚ました。
まだ外は薄暗い。眠れなかったわけではない。けれど、目を開けた瞬間から、今日、という言葉だけが、胸の中にはっきりあった。
自分の耳について、相手は知らない。
――聞くだけ。
前の打ち合わせで、自分からそう言った。何かを探さない。何かを当てようとしない。ただ、そこに座って、聞く。
「お嬢様」
ミレイユが入ってくる。エリーズがすでに起きているのを見て、少しだけ眉を上げた。
「緊張しておられます?」
「しているわ」
「本当に、座って聞いているだけなのですか」
「たぶん。何もなければ、何もしない」
「難しそうです。何かしなくては、と思ってしまいそうなので」
「私も、少しそう思っている。でも、何もないなら、その方がいいの。だから、聞くだけにするわ」
「では、聞くだけの娘ですね」
「娘? 伯爵令嬢くらい付けて」
「聞くだけの伯爵令嬢」
「長いわ」
二人で小さく笑った。それだけで、胸の緊張が少しだけ和らいだ。
衣装は、淡い灰青色を選んだ。王宮へ着くと、ドニが自ら迎えに来ていた。
「先方は、あなたについて質問する可能性があります。聞かれた場合は、先日お話しした通りで構いません」
「殿下の政務に同席している伯爵令嬢」
「はい。聞き分けについて直接尋ねられた場合は、私か殿下が答えます」
「私が答えてはいけないのですか」
「あなたが嘘をつく必要をなくしたいだけです。何かを隠せ、とは言いたくありません。ですが、必要のない情報をこちらから渡す理由もない」
廊下の角を曲がる。ルシアンがいた。
「今日は、本当に、聞くだけでいいから」
「はい」
「何か探そうとしない」
「はい」
「何かあったら、殿下を見る」
「覚えてた」
「昨日のことです」
「顔に出ないように努力します」
「無理じゃないかな」
「殿下」
「冗談」
冗談には聞こえなかった。
会談室は、いつもの側近会議の部屋よりもずっと大きかった。中央には長い卓。両国の席が向かい合うように並べられている。
エリーズの席は、ルシアンから二席離れている。目の前には、まだ空席。そこへ、間もなく外国の正使が座る。胸が少し強く鳴った。
扉が開く。最初に入ってきたのは、五十代ほどの男だった。背が高い。髪には銀色が混じり、表情には柔らかな笑みがある。
正使がルシアンへ向けて、流暢なアルヴェール語で話した。
「このたびは、我々の訪問をお受けいただき、心より感謝申し上げます」
声も、落ち着いている。低く、滑らか。言葉を急がない。
エリーズは、その声を覚えようとした。いつもと違うか。それを知るには、まず、いつもを知らなければならない。けれど、今日が初対面。だから、分からない。
一同が座る。正使の視線が、一瞬、エリーズへ向いた。
「失礼ですが、そちらのご令嬢は?」
「ベルモン伯爵令嬢です」
ドニが答える。
「王弟殿下のご親族で?」
「いいえ」
「では、外交官?」
「違います」
正使が、少しだけ笑った。
「これは失礼」
「最近、殿下の政務に同席していただいております」
正使は、それ以上、詳しく聞かなかった。
「なるほど」
そのあと、副使へ母国語で何かを小さく言う。正使も短く答えた。
「では、始めましょう」
会談が始まった。両国の友好。昨年の交易量。今年の見通し。エリーズは、ひたすら聞いた。話題によって、人の話し方が変わることは分かる。数字を説明するときは少し速くなる。礼を述べるときはゆっくりになる。そうした違いを、頭の中で、ただ並べていく。
「ベルモン伯爵令嬢」
突然、正使がこちらを見た。
「退屈ではありませんか。先ほどから一言もお話しにならないので。お若いご令嬢には、港の税率など面白くもないでしょう」
置物。そう思われているのだと、エリーズにも分かった。怒りはなかった。むしろ、少しだけ、安心した。自分を警戒していない。
「分からないことが多いので、聞いております」
「聞くだけで?」
「はい」
「変わったお嬢さんだ」
小さな笑い。
「何か意見は?」
「今はありません。分からないことについて、分かったように話すのは難しいので」
正使は、一瞬、何も言わなかった。それから、声を立てて笑った。
「なるほど。それは立派です」
「では、ご令嬢には、聞いていただきましょう」
「そうしてもらう」
ルシアンも答える。エリーズは、また黙る。聞くだけ。その言葉が、正使自身からも認められたようで、少し不思議だった。
会談は、次第に本題へ入っていった。輸入品にかかる税。商人の滞在期間。船舶の検査。積荷の確認。正使は、終始穏やかだった。
「現在の交易量を、今後三年でさらに増やしたいと考えております。まず織物です」
声は同じ。
「次に香辛料」
同じ。
「それから、一部の金属製品」
同じ。
「問題は輸送費です」
正使側の交易担当者が言う。
「今後の交易量増加を考えれば、個別に整理できる部分があるのではないでしょうか」
「どの部分を?」
「例えば、港湾使用料」
エリーズの耳が、わずかに反応する。これまで何度も資料で見た言葉。けれど、今のところ、正使の声そのものに、大きな変化はない。
「南部全体についてです」
「港によって条件が違います」
「もちろん承知しております」
正使の交易担当者が、いくつかの港名を読み上げ始めた。一つ。声は普通。二つ。普通。三つ。同じ。
エリーズは、何も探さず、聞いている。そして、四つ目。南部の、ある港の名前が出た瞬間。
「その港につきましては」
正使が口を挟んだ。エリーズの指が止まった。
違う。本当に、わずかだった。声が、ほんの少しだけ、低くなった。それまで、ゆっくりと、一定の速さで話していた正使が、その港の名前が出たあとだけ、返事までの間を、ほとんど置かなかった。
「現在の使用料が、周辺と比べても高いと認識しております」
言葉そのものは、普通。説明も、自然。でも、違う。
「高い?」
ルシアンが尋ねる。
「ええ。もちろん、王国側にも事情があることは承知しております」
「具体的な数字は?」
「後ほど資料で」
同じ。さきほどだけ、違った。
エリーズは、ゆっくり、顔を上げた。そして、ルシアンを見る。何かあったら、一度、私を見る。そう決めた。
ルシアンは、正使ではなく、資料でもなく、ちょうど、こちらを見ていた。目が合う。一瞬。それだけ。ルシアンの表情は変わらない。
「なるほど」
何事もなかったように、正使へ向き直る。
「港の件は、少し数字を整理したい。ちょうどいい。ここで一度、休憩にしよう」
「今ですか」
「長く座りすぎた。私が少し疲れた」
会談が、一度、止まった。エリーズの胸は、まだ強く鳴っている。自分は、一言も、何も言っていない。ただ、見ただけ。それでも、ルシアンは、会談を止めた。
使節側の人々が別室へ案内され、扉が閉じる。
「どこ?」
ルシアンが言った。
「ありましたか」
ドニも、すぐにエリーズを見る。
「はい。港です」
「どう違った?」
「声が少し低くなりました。それから、返事が早かったです。それまで正使は、質問を受けると少し間を置いてから答えていました。でも、この港だけ、すぐに言葉が出ました」
「内容は?」
「使用料が周辺より高い、と」
「それは資料に書いてあります」
ドニが手元の紙をめくる。
「では、資料を覚えていただけかもしれません」
「他には?」
「ありません。その港の名前が出たときだけです」
沈黙。ルシアンが、ゆっくり資料を見る。ドニも、別の紙を引き寄せる。
「先日の私信。港湾使用料の話が出ていたのは」
「どこ?」
紙を確認する。ドニの手が止まった。
「同じ港です」
エリーズの胸が、もう一度強く鳴る。けれど、すぐに、自分へ言い聞かせる。だから、何かある、とは、まだ言えない。
「偶然かもしれません。正使が、その港の資料をよく読んでいただけかもしれません。だから、まだ、分かりません」
「分かってる」
ルシアンが答える。それだけで、少し安心する。
「ドニ。この港だけ、別に確認しよう。過去一年の使用料。先方商船の利用実績。それから、ここ半年で、変更案が出ていないか」
「承知しました。会談中は?」
「何も知らない顔で続ける」
「正使には聞かない?」
エリーズが尋ねる。
「今は。君の違和感を、相手に教える必要がないから」
自分の耳を、相手は知らない。だから、さきほども、置物のように扱った。聞いているだけの娘。それが、今は、役に立っている。
「怖い?」
「少し」
「戻らなくてもいいよ。休憩後の会談。ここに残ってもいい」
エリーズは、扉を見る。向こうには、外国使節たちがいる。自分が何に気づいたか、知らない。そして、自分は、まだ、理由を知らない。
「戻ります。まだ、聞きたいです」
ルシアンの表情が、ほんの少しだけ変わった。けれど、何も言わない。
「分かった」
会談が再開される。港の話題は、その後、一度だけ、もう一度出た。けれど、正使の声は変わらなかった。同じ。穏やか。一定。だから、余計に、最初の一度だけが、耳に残る。
会談が終わるまで、エリーズは、何も言わなかった。
「ベルモン伯爵令嬢。今日は、本当にほとんどお話しになりませんでしたな。退屈では?」
「いいえ」
「では、次回も」
「はい」
正使は、何も知らないまま、部屋を出ていった。
「疲れた?」
「少し」
「聞くだけだったのに?」
「聞くだけだからです」
ドニが、すでに資料をまとめていた。その途中で、一度、エリーズを見る。
「ベルモン伯爵令嬢。同席していただいて正解でした」
「まだ、何も」
「分かっていません。承知しています。だから調べます」
エリーズは、ゆっくり頷いた。
「エリーズ。今日はありがとう」
「何もしていません」
反射的に答え、すぐに、自分で気づく。違う。
「……聞いていました」
「うん。それで十分」
王宮からの帰り道、馬車の窓へ、夕方の光が差し込んでいた。
織物。普通。香辛料。普通。穀物。普通。港湾使用料。普通。そして、あの港の名前。そこだけ、違った。
理由は、分からない。それでいい。明日、調べればいい。
ただ、以前拾った「正使閣下」という呼称。そして、今日の港の名前。二つの小さな違いが、同じ場所へ、少しずつ近づいているような気がした。けれど、それも、まだ、意味を足してはいけない。
耳の奥には、正使の声が残っている。――その港につきましては。ほんの一瞬だけ、低く、早くなった声。
聞くだけの娘が、今日持ち帰ったものは、それだけだった。




