第8話 平気です
馬車を降りたエリーズは、迎えに出ていたミレイユの顔をしばらく見つめていた。
「お帰りなさいませ、エリーズ様」
声は明るい。表情にも、大きな変化はない。
いつもと同じように、手を差し出して馬車から降りるのを助けてくれる。
それなのに。違う。
声が少し高い。いつもより言葉が早い。そして「お帰りなさいませ」の最後だけ、息が浅かった。
「ただいま」
エリーズは返事をしながら、すぐには何も尋ねなかった。
王宮で何度も言われたことを思い出す。違うからといって、理由まで分かるわけではない。
何かを隠している。困っている。怒っている。そんなことは、まだ何一つ決められない。
自室へ入ると、ミレイユはすぐに窓を開け、室内の空気を入れ替え始めた。
「お茶をお持ちいたしましょうか」
「お願いするわ」
返事はやはり早い。ミレイユはすぐに部屋を出ようとする。
「ミレイユ」
「はい?」
足が止まる。振り返った顔には、笑みが残っている。
「何かあった?」
ミレイユの表情が、一瞬だけ動いた。
「いいえ。何もございません」
まただ。エリーズの耳に引っかかる。
「平気です」
その言葉だけ。声が硬かった。
――平気です。
その響きが、耳の奥に残る。ジュリアンへ言った「大丈夫です」を思い出した。あのときの自分は、大丈夫ではなかった。
けれど、だからといって、ミレイユも同じだと決めつけてはいけない。
「私は、あなたが平気ではないとは言っていないわ」
ミレイユが目を瞬く。
「ただ、今の『平気です』だけ、少し違って聞こえたの」
しばらく沈黙が落ちた。以前なら、ここで終わっていた。違うと感じても、余計なことを言うなと言われてきた。
でも今は。違うと感じたことそのものなら、言ってもいい。
「話したくなければ、話さなくてもいいわ。でも、何もないことにしなくてもいい」
ミレイユの顔がわずかに揺れた。
「……平気です」
二度目。今度の方が、先ほどより声が弱い。
「そう。では、お茶をお願い」
ミレイユが驚いたように顔を上げた。
「それだけ、ですか。お聞きにならないのですか」
「話したくないのでしょう?」
ミレイユは一礼して部屋を出ていった。
その日の夕方。若い侍女が衣装箱を運んできた。
箱の蓋がわずかにずれ、中の淡い青のドレスが見えた。袖の縫い目が、一部だけ外れている。
「いつからこうなっていたの?」
「さあ。私は存じません」
「ミレイユは?」
少しして、ミレイユが来た。
「これを見て」
ミレイユの顔が止まった。
「……縫い目が」
「知っていた?」
沈黙。
「いいえ」
短い返事。声が硬い。朝と同じだった。
「あなたがやったとは思っていないわ。でも、何か知っているの?」
「……いいえ」
「そう」
また、追及はしなかった。
翌日、エリーズは家令へ話を聞きに行った。
「お嬢様の衣装について、でございますか」
「一着、袖がほつれていたわ。誰かを責めたいわけではないの。ただ、最近、同じようなことが他にもなかったか知りたい」
「すぐに確認いたします」
その日の午後、家令が記録帳を差し出した。
「ここ二週間ほどで、お嬢様の衣装に関する修繕申請が四件ございます」
裾の汚れ、飾りの欠落、釦の破損、今回の袖口。
「通常は、ここまで続きません。いずれも、保管中に起きた可能性が高いです」
「誰が管理しているの?」
「主にはミレイユでございます。ただ、衣装室には他の侍女も出入りいたします」
エリーズは記録帳を見つめた。ミレイユが何かした側ではなく、何かを知っている側なのではないか。
「確認できる? 誰がいつ衣装室へ入ったか」
「記録は残しております」
エリーズは自室へ戻り、ミレイユを呼んだ。
「衣装のことを家令に確認したわ。ここ二週間で四件あったそうね。知っていた?」
長い沈黙。
「はい」
「なぜ言わなかったの?」
「大したことではないと思ったからです」
「今の『はい』は、違うわ」
ミレイユが顔を上げる。
「理由は分からない。でも、今のは違った」
長い沈黙。ミレイユの目が少しずつ潤む。
「婚約解消の話が、使用人の間にも広がっています」
胸がわずかに痛む。予想していたことだった。
「私の衣装だけではないのでしょう?」
その瞬間。ミレイユの顔が崩れた。
「……どうして」
「あなたの声。私のドレスの話をしているときより、あなた自身のことを聞いたときの方が違った」
ミレイユが唇を噛む。
「話したくなければ、全部でなくていい。でも、私が確認するために必要なことだけ教えて」
「二人です。私に、嫌がらせをしている侍女が」
二人の名を挙げた。
「何をされたの?」
「私物を隠されたり。洗濯物をやり直すように言われたり。お嬢様の衣装の破損を、私の不注意だと言われたり」
「衣装を傷つけたのも?」
「見たわけではありません。だから言えませんでした」
見ていない。だから、決められない。それは自分と同じだった。
「どうして私に言わなかったの?」
「お嬢様も大変なときでしたから。婚約がなくなって、王宮へ何度も呼ばれて。それなのに、私のことで余計なことを増やしたくなくて」
「だから、平気だと?」
「はい」
エリーズはその声を聞いた。今は、本当に、少しだけ楽になったように聞こえる。
「分かった」
エリーズは立ち上がった。
「家令に話すわ」
「待ってください。私が言ったと知られたら」
「あなたが言ったことにはしない。衣装の破損について、家令が調べている。そこから確認する」
「あなたが言ったから処分するのではないわ」
――調べることと、疑うことは同じではない。ルシアンの言葉を思い出す。
「事実を確かめる。それで何もなければ、それで終わり。もし事実だったら、そのとき考えるわ」
翌日、家令の調査は思ったより早く終わった。
衣装室への出入り記録。修繕に回された日付。担当者。それを照らし合わせると、二人の侍女が何度も同じ時間帯に衣装室へ入っていたことが分かった。
別の侍女が、二人がエリーズのドレスを広げながら笑っていたのを見ていたという証言もあった。
呼び出された二人は、最初は否定した。だが、家令が記録を一つずつ示すと、やがて一人が認めた。
「少し、ふざけただけです」
「ふざけた?」
家令が低い声で聞き返す。
「婚約を断られたお嬢様が、最近急に王宮へ通うようになったから。気取っていると」
「誰が?」
「……私たちが。ミレイユが、お嬢様は以前とは違うと言ったので」
「ミレイユが?」
「最近、お嬢様がよく笑うとか、自分で服を選ぶようになったとか。それで、急に偉くなったつもりかと」
理解するまで、少し時間がかかった。自分が少し変わった。それをミレイユが喜んだ。それだけで、彼女まで標的になった。
「衣装を傷つけたのは?」
「……二件だけです」
「裾の汚れと釦は違います」
エリーズはそこで初めて口を開いた。
「分かったわ」
処分については家令と父が決めることになる。エリーズがその場で罰を命じる必要はない。
「一つだけ。ミレイユには、もう何もしないで。私のことをどう思うかは、あなたたちの自由です。でも、そのことで別の人を傷つけるのは違う」
部屋を出たあと、廊下の先でミレイユが待っていた。
「終わったわ。二人とも認めた。全部ではなかったわ。四件のうち、二件だけ」
「全部あの二人だと思っていた?」
「……少し」
「私も。だから、調べてよかった。決めつけていたら、間違えていたわ」
「お嬢様。どうして、そこまでしてくださったのですか」
「あなたが困っていたからでしょう?」
ミレイユが目を伏せた。
「以前なら、お嬢様は、気づいても何も仰らなかったと思います」
エリーズは返事ができなかった。その通りだった。
「そうね。でも、少し変わったのかもしれない」
「殿下の影響ですか」
「ルシアン殿下?」
「はい」
ミレイユが少しだけ笑った。
「以前のお嬢様なら、私が平気ですと言えば、そのままにされたと思います。だから、嫌ではありませんでした。でも、今日は、聞いてくださって、嬉しかったです」
エリーズは黙った。
聞く。それは、自分がずっとしてきたことだった。声を聞く。違いを聞く。
でも、それだけではなかったのかもしれない。
相手が話せるようになるまで待つ。必要なら、こちらから尋ねる。そして、聞いたあとに、動く。
その全部を含めて、聞く、ということなのかもしれない。
「ありがとう」
「こちらこそ」
その日の夜、自室で一人になったエリーズは、窓辺に座っていた。
机の上には、修繕から戻ったドレスが置かれている。袖口は綺麗に直っていた。
小さな綻び。見落とす程度の。放っておけば、そのままになる程度の。でも、そこから確かめればいい。
今日、自分は初めて、それを一人でやった。ルシアンがいないところで。ドニもいないところで。
自分で違和感を伝えて。自分で確認するよう頼んだ。
全部を当てたわけではなかった。むしろ一部は間違っていた。それでも、ミレイユのことは、見つけられた。
誰かの役に立てた。今度は王弟殿下に言われたからではない。自分で気づいて、自分で動いた。
そのことが、思っていたよりも嬉しかった。
エリーズは目を閉じる。すると、また別の声が思い浮かんだ。
――君に求めるのは、正解じゃない。気づいたことを、そのまま言うことだ。
問題が片づいたあと、ミレイユは何度も「申し訳ありませんでした」と繰り返した。
「どうして、あなたが謝るの?」
「もっと早く、お話しするべきでした」
「話せなかったのでしょう」
「お嬢様に、余計な心配をかけたくなくて」
その理由を聞いて、エリーズは少しだけ黙った。
自分も同じことをしていた。
平気ではないのに、平気だと言う。
相手のためだと思って、言葉を飲み込む。
「次は、全部でなくていいから言って」
「はい」
「私も、全部分かるわけではないから」
ミレイユが顔を上げる。
「お嬢様でも?」
「違うことに気づくだけよ。その先は、聞かなければ分からないもの」
言葉にすると、改めて自分の力の小ささが分かる。
でも、今日はその小さな違和感が、ミレイユへ話す入口になった。
「では、今度は私が」
ミレイユが少し迷いながら言う。
「お嬢様が『平気です』と仰ったとき、ちゃんと聞きます」
エリーズは思わず笑った。
「それは、少し困るわね」
「お互い様でございます」
その言葉は、不思議と嬉しかった。
主従としてではなく、互いに言葉を聞く相手が一人増えたように思えた。
エリーズは小さく笑った。そして、今度は、黒うさぎという言葉ではなく、その人自身の顔を思い浮かべていた。
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