第7話 可愛いじゃないか
翌朝になっても、エリーズの耳には昨日の声が残っていた。
――可愛い呼び名じゃないか。
目を覚ました直後から思い出したことが恥ずかしくて、エリーズは寝台の上でしばらく動けなかった。
もっと考えるべきことなら、他にいくらでもある。
ジュリアンとの婚約解消は、まだ両家の間で正式な手続きが終わっていない。父は自分がルシアンの茶会へ出たことを快く思っていない。
それなのに。思い出すのは、あの一言だった。
扉が叩かれ、侍女が入ってくる。
「おはようございます、お嬢様」
いつも通りの朝だった。侍女が寝間着を整え、今日着るドレスを選んでいく。
「こちらでよろしいですか」
示されたのは、濃い紺色のドレスだった。エリーズは少しだけ迷った。
「もう一つ、明るい方を見せてもらえる?」
侍女の手が止まった。
「明るい方、でございますか」
「ええ」
華やかにしたいわけではない。誰かに見せたいわけでもない。
ただ、昨日着た薄紫のドレスが思っていたより嫌ではなかった。それだけだった。
侍女が淡い青緑のドレスを取り出す。
「こちらはいかがでしょう」
「それにするわ」
答えると、侍女が少し嬉しそうに笑った。
「最近、お嬢様がお召し物を選ばれるようになったと思いまして。以前は、どれでもよいと仰ることが多かったので」
そうだっただろうか。考えてみる。確かに、どれでもよかった。
朝食の席では、父が新聞から目を上げることなく話した。
「昨日の茶会はどうだった」
「特に問題はありませんでした」
「殿下は何か仰ったか」
「私が何も気づかなかったことについて、何もなければそれでよいと」
黒うさぎの話まで伝える必要はないだろう。
嘘ではない。ただ、全部ではない。そう答えた自分に、少しだけ違和感があった。
以前なら、父に聞かれれば全部話しただろう。隠す理由がないから。
けれど今は、昨日ルシアンと交わした言葉の一部を、自分だけのものにしておきたいと思った。
昼前、自室で手紙を整理していると、侍女が小さな封筒を持ってきた。
「王宮からでございます」
封を開ける。昨日の茶会で話題に出た北部街道について、追加の報告が届いたため、もし都合がよければ翌日の午後に王宮へ来てもらえないか、という内容だった。差出人はドニだった。
最後に、小さく追記されている。
――殿下より、無理に来る必要はないとのことです。
エリーズはそこを二度読んだ。
まただ。来い、ではない。来られるなら。嫌なら断ってよい。
「伺うと伝えて」
翌日の午後、エリーズは再び王宮を訪れた。同じ東棟。同じ廊下。ここへ来るのも、もう三度目になる。
「お越しいただきありがとうございます」
ドニが机の前に立っていた。
「殿下は少し遅れます。陛下とのお話が長引いております」
エリーズは少しだけ残念に思った。その感情が浮かんだことに気づき、すぐに戸惑う。
――残念? なぜ。
今日は北部街道について話を聞くために来た。ルシアンに会うことが目的ではない。
そう考え直したところで、ドニが資料を差し出した。
「昨日の話に関連する報告です」
街道の一部で荷馬車の遅延が続いている。原因は雨による路面の悪化。
「昨年同時期より通行量が増えています」
「では、雨だけではなく」
「傷み方も早い可能性があります」
「昨日の茶会では」
ドニが資料を片付けながら言う。
「失礼な者がおりました」
「黒うさぎ、ですか」
「はい」
「お気になさらないでください」
「殿下は、可愛いと」
言ってしまった。思わず口を閉じる。ドニの表情が止まった。
「殿下は、そういう方です」
「そういう方、とは?」
「人と同じところを見ない方、と申しますか」
そのとき扉が開いた。
「何の話?」
ルシアンだった。
「殿下が変わり者だという話です」
「私が? 誰が言った?」
「私です」
ルシアンは一瞬黙り、それから溜息をついた。
「知ってる」
エリーズは思わず小さく笑った。
「笑った?」
「申し訳ございません」
「別にいいけど。むしろ、初めて見た気がする。君が笑うところ」
ルシアンは椅子へ座る。
「北部街道の件について、何か気になることはある?」
「声については何も言えません。ただ、少し気になることがあります。声ではありません」
「構わない」
「昨年と今年では通行量が違うのでしたら、昨年通れたという話だけでは判断できないと思います。それから、もし街道が傷んでいるなら、遅延している荷馬車の種類を調べれば、場所が絞れるのではないでしょうか。重い荷を積んだ車ばかり遅れているなら、路面が沈んでいる場所があるのかもしれません」
「ドニ、調べさせて」
「よろしいのですか。私の考えです。声とは関係ありません」
「別に、君の耳しか必要ないとは言っていない。聞いたことから考えたんでしょう? なら、聞けばいい」
その言葉が、胸の中へゆっくり沈んでいく。
声を聞くから呼ばれている。そう思っていた。けれど今、ルシアンは自分の考えまで聞いた。
ドニが席を外し、調査の手配へ向かう。部屋にはルシアンとエリーズだけが残った。
「そういえば、昨日より明るい色だね」
「はい」
「似合ってる」
胸が跳ねた。あまりに自然に言われたせいで、何も返せない。
「……ありがとうございます」
「本当に似合ってるよ」
「殿下。黒うさぎのことです。本当に、可愛いと思っていらっしゃるのですか」
昨日も似たことを聞いた。それなのに、また確かめてしまう。
ルシアンは不思議そうにエリーズを見た。
「そうだけど。可愛いから」
「それでは答えになっていません」
言ってから、自分が王弟殿下へ随分なことを言ったと気づく。けれどルシアンは怒らなかった。
「黒い髪も似合ってるし、小さいし」
「それは褒めていないように聞こえます」
「じゃあ、目。黒い目も綺麗だと思う」
今度こそ、エリーズは完全に言葉を失った。胸の奥が急に熱くなる。顔まで熱い。
「エリーズ?」
「……大丈夫です」
答えてから、その言葉に自分で引っかかる。
ジュリアンに婚約解消を告げられたときも、自分は同じことを言った。大丈夫です。あのときは、大丈夫ではなかった。
「本当に?」
「……大丈夫ではないかもしれません」
「え?」
「こういうことを言われたことが、あまりないので」
「ジュリアンは?」
思いがけない名前に、胸が少し冷える。
「……ありません。地味だとは、よく」
言った瞬間。ルシアンの表情が消えた。
「本人が?」
「はい」
「隣に立つには地味すぎる、と」
ルシアンは何も言わなかった。窓の外へ視線を向ける。いつもより長い沈黙だった。
「殿下?」
「いや」
短く息を吐く。
「人の好みだから、私が何か言うことじゃない」
そう言いながら、声はまだ少し硬い。
「ただ」
彼は再びエリーズを見る。
「私はそう思わない。地味だとも思わないし、隣に立てないとも思わない」
胸の奥で、何かが大きく揺れた。それは、昨日の「可愛い」とは違った。同じように嬉しいのに、もっと深いところへ届く。
「だから」
ルシアンは少しだけ笑った。
「黒うさぎも、可愛いじゃないか」
また、その言葉だった。今度は誰もいない。からかう相手もいない。社交の場でもない。
それでも。同じ声で言った。
エリーズは、そこでようやく分かった。この人は、本当にそう思っている。
自分が傷つかないように言っているのではない。誰かを黙らせるためでもない。
ただ、可愛いと思ったから、可愛いと言っている。それだけなのだ。
「……ありがとうございます」
今までよりずっと小さな声になった。
その日の帰り、馬車の中で、エリーズは何度も今日の会話を思い返していた。
似合っている。黒い目も綺麗だ。地味だとは思わない。黒うさぎも可愛い。
思い出すたびに、胸が落ち着かなくなる。
ジュリアンに選ばれなかった痛みが、消えたわけではない。婚約解消そのものも、まだ終わっていない。
それでも。自分を違う目で見る人がいる。それを知っただけで、今まで当然だと思っていたものが少しずつ揺らいでいく。
馬車の窓へ映る自分を見た。黒い髪。黒い瞳。小柄な身体。何も変わっていない。
けれど、その姿を見ながら、初めて思う。
本当に、それほど悪いものなのだろうか。
――黒うさぎ。
心の中で呼んでみる。そして、その後ろに声が重なる。
――可愛いじゃないか。
胸がまた熱くなった。エリーズは慌てて窓の外へ視線を戻した。
馬車に乗り込む間際、後方から、聞き慣れた声が聞こえた。
侍女のミレイユが、伯爵邸に戻ったエリーズを迎えるために、外で待っていたのだった。
「お帰りなさいませ、エリーズ様」
その声は、いつもと変わらない、明るい調子だった。だが、エリーズの耳は、その明るさの奥に、わずかな硬さを聞き取っていた。
いつもより、少しだけ早口で。いつもより、少しだけ声の位置が高い。
――何かがあったのかもしれない。
エリーズは、そう思いながら、馬車を降りた。
伯爵邸へ戻ったあと、エリーズは着替える前に鏡の前へ立った。
淡い青緑のドレス。
黒い髪。
黒い瞳。
朝見たときと、何一つ変わっていない。
それなのに、今は少しだけ違って見える。
「ミレイユ」
「はい」
「この色、本当に似合っていると思う?」
尋ねると、ミレイユは一瞬だけ驚いた。
「もちろんでございます」
「以前は、濃い色ばかり選んでいたわね」
「お嬢様が、目立たない方がよいと仰ることが多かったので」
そんなことを言っていただろうか。
思い返せば、言っていた。
似合うかどうかではなく、浮かないかどうか。
綺麗に見えるかではなく、誰かの邪魔にならないか。
ずっと、そういう基準で選んでいた。
「明日も、少し明るい色にしようかしら」
「では、薄い灰青はいかがでしょう」
「見せて」
ミレイユが嬉しそうに衣装棚へ向かう。
エリーズは鏡へ視線を戻した。
ルシアンが可愛いと言ったから、急に自分を可愛いと思えるわけではない。
黒いうさぎという呼び名を、好きになれたわけでもない。
でも、自分が嫌っていたものを、誰かが違う目で見ることはある。
その可能性を知った。
それだけで、鏡の中の自分を前ほど急いで否定しなくてよくなった気がした。
胸の奥には、まだあの声が残っている。
――黒うさぎも、可愛いじゃないか。
今夜は、その言葉を打ち消さずに眠ってみようと思った。
今日一日の、自分自身の胸の高鳴りとは別に、また新しい違和感が、静かに耳の奥に残っていた。
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